後編は後日……
さて、すでにこの稿は7400文字をこえている。浦安から流山まででこのありさまだ。
長くなりすぎなので、いったんここで切ることにしたい。
野田から、関宿、取手、佐原、銚子までの様子は後日、後編として公開させていただきたい。
参考文献
山本周五郎『青べか物語』(1960)
伊藤左千夫『野菊の墓』(1906)
館山市立博物館『さとみ物語』(2010)
NIKKEI STYLE『東京にも領土問題 千葉・埼玉との境界が未確定』
地図上にある不思議な県境、境界が気になり、地図だけでは我慢できず、実際に見に行くということをやりだして10年、おりにふれてふしぎな県境や境界をめぐることをつづけてきた。
手前味噌でたいへんもうしわけないが、そんな県境をめぐった話をまとめた書籍(『ふしぎな県境』中公新書)を上梓させて頂く機会にも恵まれた。
しかし、身近すぎて、ずーっと後回しになっていた懸案の県境があった、千葉県の県境だ。今回、宿願を叶えるべく、ピザ屋のバイクを借りて千葉県の県境をたどってみた。
県境ファン西村のピザ屋のバイクで千葉の県境をぐるっと一周記
【プロローグ】千葉の県境を一周して実物大のチーバくんをえがく
【第1回】ディズニーランドの目の前は境界未定地?
【第2回】運河と醤油と蒸気船、そして最北端
【第3回】千葉にある茨城と茨城にある千葉
千葉県が、となりの都県、東京都、埼玉県、茨城県と接している県境は全て江戸川と利根川の上にあり、千葉県は実質的に島だとよく言われる。
今年の春、ボートで江戸川と利根川を航行し、千葉が島かどうかを調べたテレビ番組があった。それによると、千葉県は学術的にいうと島ではないという。
曰く、利根川も江戸川も人工的に作られた水路があり、島の定義である"自然の海や川、湖で囲まれている場所"に反するためらしい。(「千葉県民騒然!?「千葉県は本州と繋がっていない"島"」説を本気で検証」)
とはいえ、千葉県の唯一無二な点はもうひとつあり、それは「日本で唯一、乗り物を使って県境を一周できる県」ということだ。
千葉県の県境を一周し、気になる場所を見て回る……というのは、宿願でもあり、課題でもあった。
……というまえおきは、前回の記事『千葉の県境を一周して実物大のチーバくんをえがく』でも書いたが、読んでない人も多いと思うので、もういっかい同じことをかいた。
ところで、千葉の県境をなんらかの移動手段でたどる……という事自体はすでにたくさんの人がやっている。特にこの方などは、28日かけて、徒歩で千葉県を一周している。すごい。
さすがに、歩いて回るほどの根性がぼくにはないのと、今回は「無理な旅をしない」という方針を決めていたので、今回はピザ屋のバイクを一週間借りて回ることにした。あくまで自分が気になる県境だけを見てまわるのが目的なので、無理は禁物である。
千葉の県境を一周して、GPSでチーバくんを描いた顛末は、前の記事を読んで頂くことにして、今回は、千葉の県境がどんな感じになってんのか、気になるところを見に行った……ということを中心に書きたい。
千葉の県境をピザ屋のバイクで一周するにあたり、スタート地点としたのが、ディズニーランドである。グーグルマップをみるとそこは、「千葉県浦安市舞浜1」らしい。
浦安市の舞浜は、住宅地となっている2丁目と3丁目は存在するけれど、ディズニーランドの施設があるエリアは1丁目ではなく、地番の1らしい。つまり、ディズニーランドの住所は浦安市舞浜1番地であり、舞浜1丁目は存在しない。
舞浜1番地というと、網走番外地のような場末感が出てくるが、現地に行くとその感を新たにする。本当になにもない、荒涼としている。
ディズニーランドの施設内に入ればいろいろあると思われるが、外側の舞浜1番地は、シュロの木と堤防と東京湾だけだ。
県境という境界としての雰囲気は、むしろこれぐらいのほうがいい。
堤防の上から東京湾を望む。
江戸川の河口がかろうじて見える。これから、この川に沿って、千葉県最北端の町、関宿(野田市)を目指して北上することになる。
おもいのほか灰色の強い舞浜を出発し、しばらく走ると、山本周五郎の小説『青べか物語』に登場したような船宿がならぶエリアがある。
山本周五郎は、1926年(大正15)から1929年(昭和4)にかけてここに住み、その体験を元に小説を書いた。
当時、ここは蒸気船の発着所があり、蒸気河岸と呼ばれていた。『青べか物語』に登場する主人公は、まさにこのあたりに住み「蒸気河岸の先生」と呼ばれていたとある。
当時に近いころの写真はないかと探した所、地理院地図に1936〜42年ごろの航空写真があった。
『青べか物語』の主人公、蒸気河岸の先生は浦粕(浦安)の町についてこう述べている。
この小説が書かれてすでに50年以上経つ。「広大な荒地」の先に広がっていた海は、荒涼とした埋立地となり、その中に華やかな遊園地が建設された。江戸時代、いちめんの田んぼだったところに、こつ然と吉原の遊郭ができたのと似ている。
さらに、街の様子については。
とある。
上の記述と当時の航空写真と見比べてみると、まさにそのとおりになっているのがおもしろい。「沖の百万坪」は、現在住宅がびっしり建っている。
さて、きになる県境はこの蒸気河岸のすこし北側にある橋と島だ。
浦安橋は、千葉県浦安市と東京都江戸川区を結ぶ橋で、橋の上に県境がある。
そして、東京都側に見える陸地、これが「妙見島」だ。妙見島は、東京23区内にある、唯一の自然島。つまり、埋め立てたり、水路で切り離したのではない島としては、唯一の場所だ。
妙見島については、当サイトでは既に、松本さんがレポート(「江戸川に浮かぶ妙見島」)されているので、そちらもご覧いただきたい。
妙見島は、江戸時代は下総国欠真間(かけまま)村(現在の市川市欠真間あたり)の飛び地で、明治に入ってからは千葉県となっていた。しかし、経緯はよくわからないけれど1895年(明治28)に東京都へ編入されている。
島の西側にあった県境のラインが、東側に移動したのがわかると思う。
妙見島の名前は、島内に妙見菩薩が祀られていることから名付けられたらしい。妙見菩薩は、北斗七星と北極星を神格化した神様で、鎌倉時代から下総国を治めた千葉氏一族が氏神とした神様だ。
つまり、今は東京都となっている妙見島だが、その妙見という名前に、かつては千葉県であったという名残が残っている……といってもよいかもしれない。
さて、妙見島からさらに北上し、江戸川と江戸川放水路の境目までやってきた。
江戸川の河口から川の上の県境に沿って北上してきたが、県境はここでいちど途切れる。この県境未定地は、河原番外地と呼ばれている。
東京都には、都県境未定地が3箇所ある。そのうちのひとつがこの河原番外地だが、実はもうひとつ、すでに都県境未定地が登場している。どこだったかわかるだろうか。
すでに登場していた都県境未定地は、スタート地点のディズニーランドの目の前、江戸川河口の水上だ。いったい、どういうことなのか。
一般的に、川の上の県境は川の真ん中に引かれる。これは、両岸の人々がいちばんなっとくできる境界の引き方だろう。
江戸川の県境も、河口までは川の真ん中に引かれており、問題はなかった。しかし、河口を出て海の上に境界線を引くとなると、とたんに話がややこしくなる。
昭和の中頃、浦安の海を埋め立てるさい、東京都と千葉県で、ひとまず「港湾管理の境界」としての境目は確定させた。しかし、都県境の境界に関しては、川の境目をそのまままっすぐ延長させたラインを境界としたい千葉県と、河口からまっすぐ南に向かって引いたラインを境界としたい東京都で主張が噛み合わず、江戸川河口の県境は50年以上未確定となっている。
羽田の滑走路を拡張したさいは、滑走路の構造物の一部が千葉県の主張する境界線にかかることになり、東京都と千葉県が協議した結果、確認書を交わすことになった。が、都県境が確定することはなかった。
閑話休題、話を河原番外地にもどしたい。
河原番外地には、土手と野球場、そして国土交通省の河川事務所と江戸川水閘門があるだけだ。
暴力的な雑草がそこかしこに無造作に繁茂しており、殺伐とした雰囲気は、県境の景色としてはもうしぶんない。
江戸川水閘門の横には橋が架かっており、地元のひとがかなり頻繁に行き交っている。以前は原付バイクでの通行が可能だったらしいが、今は入り口に「原付進入禁止」のでかい看板が出ている。
河川事務所の石碑を見ると「建設省土木研究所篠崎試験所跡地」とある。
少なくとも、国土交通省(建設省)の意識としては、この河原番外地は、東京都江戸川区の篠崎(東篠崎)だと思っているということはわかる。実際、河川事務所前の土手を見てみると、江戸川区と書かれた鋲が打ってある。
国の機関が言うんだから、ここはもう東京都じゃないの? と思うひともおおいかもしれない。が、そうは問屋が卸さない。そもそもこの河原番外地は千葉県側と地続きだし、土手の向こう側にある野球場は市川市が管理している。
なぜこんなことになっているのか、順を追って説明しよう。
かつての江戸川は、旧江戸川のほうが本流であった。しかし、大正時代に江戸川放水路が開削され、現在ではそちらのほうが本流になっている。
なお、この稿において、ディズニーランドからここまで「江戸川」と呼んでいた川は、正しくは「旧江戸川」である。
江戸川の横に、江戸川放水路の開削が始まった。この開削された江戸川放水路が、現在は江戸川本流となっている。
昭和50年代の地図をみると、放水路は完成しており、現在と同じ形になっている。境界が未確定であることがはっきりしていなかったのか、県境が引かれている。
すこしわかりづらいかもしれないが、江戸川水門を建設するさいに、旧江戸川の流路が若干西がわに寄った。
そのため、それまで川の真ん中の県境だった都県境が、東側の河原にかかってしまっている。
東京側は、昔の江戸川の真ん中に引かれた県境を維持したいけれど、千葉側は新しく西寄りになった旧江戸川の真ん中を県境にするべきだと主張し、境界が未確定となっている。
ここでも「川の真ん中を県境とする」という境界の引き方がポイントになっている。
川の上に引かれた県境は、川の流路が変わったとしても、そのままになるケースも多い。そのため、川を挟んだ飛び地ができたりすることもよくあり、ふしぎな県境の原因のひとつとしてよくあるパターンだ。
千葉県市川市と東京都江戸川区は、このために犬猿の仲であり、血で血を洗う抗争を……ということはとくになく、ごみ処理などで連携するなど、つきあいとしては普通らしい。
河原番外地を出発し、矢切の渡しを目指す。
矢切の渡しは、東京都に残る渡し船としては唯一の(※多摩川に「競輪場の渡し」があるらしいが、現在も運行しているかどうかは不明)渡し船であるだけでなく、県境を越える渡し船としては全国でも貴重なものだ。
ちなみに、県境を越える渡し船は、埼玉と群馬を結ぶ「赤岩渡船」、千葉と東京を結ぶ「矢切の渡し」、愛知と岐阜を結ぶ「中野の渡し」の3つが確認できている。(「競輪場の渡し」が現在も運航していれば、4つ)
矢切の渡しの葛飾側は、柴又帝釈天があり、寅さんの映画にも何度も登場し、全国的な知名度ははかりしれない。
しかし、松戸市下矢切側はなにもない。あえていうと、農地が広がっている。
「なにもない」というと、松戸の人が憤慨するかもしれない。下矢切になにもないとはなにごとぞ、『野菊の墓』があるではないか、と。
確かにそのとおり、伊藤左千夫の小説『野菊の墓』の舞台がまさにこの矢切あたりの話である。矢切の渡しの休憩所の脇には田んぼの脇の草むらに埋もれるように『野菊の墓』の記念碑が置いてある。
『野菊の墓』は、15歳の少年、政夫と、従姉妹の17歳になる民子の淡い恋心をえがいた恋愛小説である。
小説の中で政夫は、戦国大名里見氏の配下で、矢切村で帰農した家来の子孫だということになっている。
実は矢切に広がる農地の先には、国府台(こうのだい)とよばれる高台があり、国府台城という城があった。
戦国時代、里見氏と北条氏がこのあたりで二度合戦を行い、里見氏が負けている。『野菊の墓』の主人公は、その里見氏家臣の子孫だというわけだ。
国府台合戦は、死者が数万人にも及んだといわれる熾烈な戦いだったという。そんな戦いがなぜここであったのか。それは、境界があったからにほかならない。
里見氏が勢力をのばしていた下総国と、北条氏の勢力範囲であった武蔵国の国境は、現在そのまま東京都と千葉県の県境となって存在している。
国境で起きた合戦が原因で帰農した武士の子孫である『野菊の墓』の主人公が、矢切村に生まれたのはつまり、国境、ひいては県境があったからといっても過言ではない。
『野菊の墓』は恋愛小説でもあるが、県境小説といってもいいかもしれない。
そして、肝心の矢切の渡しは、強風のため、運休であった。
矢切の渡しで時間をとりすぎた。今日は、流山まで急がなければいけない。
とはいえ、気になる県境はしっかり見ていきたい。というわけで、途中、松戸の三県境をみにきた。
松戸の三県境は、千葉、東京、埼玉の三県境のことである。写真右手の川の上にある(はずだ)。境界線があまり正確ではないと評判のグーグルマップにも三県境は載っている。
三県境は、日本全国に50近くあると言われているが、そのほとんどが山の上か川の上のどちらかである。唯一、平地にある三県境が、あの有名な柳生の三県境だ。
松戸の三県境は、はっきりいって、なにもわからない。わからないが、たしかに川の上なんだな。ということを実感できるだけで御の字である。
そんな松戸の三県境の近くの土手にこんな石燈籠が設置してあった。
石碑には「江戸から大正にかけ江戸川舟運が栄え、明治になると通運丸と言う外輪船の客船が就航していました。 夜になると、明かりが灯り河岸(船着場)の位置を知らせたそうです」と、書いてある。
「通運丸」は、江戸川や利根川を行き交った客船のことだ。廃止されてもうずいぶん経つが、その舟運の復活を願って、この常夜灯は置かれたものらしい。
外輪船の客船が、この川を行き来していたかと思うと、ワクワクしてしまう。通運丸に関しては、後日別稿で詳しく触れることとして、先をいそぐ。
松戸を越え、最初の宿泊地である流山に向かう途中、もうひとつの県境スポットにいってみた。
流山橋だ。
流山橋の看板を見てみると、占用者名が「鈴木栄治」となっている。森田健作の本名だ。千葉県のホームページをみると、対外的に法的効力を伴う行政文書には鈴木栄治、それ以外は森田健作とつかいわけているらしい。
で、流山橋の県境である。
流山橋は、昨年(2019年)公開された映画『翔んで埼玉』で、ヤンキーと漁師で構成された千葉解放戦線と、農民が主力の埼玉解放戦線が対峙する場所として登場する場所だ。
劇中、埼玉解放戦線のリーダーが「敵(千葉解放戦線)は、必ず流山橋を渡ってくる」というシーンがある。
なぜ「必ず流山橋」なのか。気になったのだ。
実際に流山橋へ向かうと、めちゃくちゃ渋滞している。時刻は夕方だったので、渋滞するのもあたりまえといえばそうだが、それにしても車が多い。
この渋滞の原因は、橋の無さである。千葉県と埼玉県の間の江戸川には、橋があまりかかってない。
さきほど松戸にあった千葉、埼玉、東京の三県境から、流山橋まで約7キロほどあるが、橋は上葛飾橋のひとつしかない。さらに流山橋から北上して次の橋があるのは、約8キロ先の玉葉橋である。(高速道路を除く)
15キロのあいだに、橋が3本しかない。
隅田川で例えてみると、その異常さがよくわかる。河口部の勝鬨橋から、浅草の先の桜橋までがちょうど7キロほどだが、その間に橋がひとつもないということになる。隅田川の橋、全滅である。
いくら東京都心とは人口密度が違うといえど、流山も三郷も都市化しており、人口も多い。これは渋滞するのも仕方がないと千葉と埼玉の県境に同情してしまった。
現在、流山橋の北に新しい橋を建設中らしいが、それでまにあうのだろうか。
そんなことを考えつつ、流山の宿に向かった。
さて、すでにこの稿は7400文字をこえている。浦安から流山まででこのありさまだ。
長くなりすぎなので、いったんここで切ることにしたい。
野田から、関宿、取手、佐原、銚子までの様子は後日、後編として公開させていただきたい。
参考文献
山本周五郎『青べか物語』(1960)
伊藤左千夫『野菊の墓』(1906)
館山市立博物館『さとみ物語』(2010)
NIKKEI STYLE『東京にも領土問題 千葉・埼玉との境界が未確定』
県境ファン西村のピザ屋のバイクで千葉の県境をぐるっと一周記
【プロローグ】千葉の県境を一周して実物大のチーバくんをえがく
【第1回】ディズニーランドの目の前は境界未定地?
【第2回】運河と醤油と蒸気船、そして最北端
【第3回】千葉にある茨城と茨城にある千葉
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