運河には本当に運河があった
千葉の県境をたどって流山までやってきた。これから千葉県の北端、関宿を目指して北上しなければいけない。
関宿に行くまでにいくつか見ておきたいものがあるが、まずは利根運河といわれる運河をみておきたい。
東武野田線の駅に、運河駅という駅があるのは知識としてはしっているしかし、運河が実際にどんなものなのか、この目でみておきたいのだ。
江戸川と運河がつながっている場所までやってきた。
江戸川と利根運河が丁字でつながっている、これが利根運河だ。江戸川の向こうは、埼玉県吉川市である。
これが運河か、という感想だけがある。感動はない。
運河、というぐらいなので、かならず、運河を掘らなければならない理由があったはずだ。シムシティみたいに「かっこいいから」とか「なんとなく」みたいな理由でこんな川を掘るはずはない。
江戸川や利根川は、ただの県境のある川というだけではない。昔から、各地の産物を満載した、高瀬舟(河川を航行できる吃水の浅い船)などが行き交う、通路であった。
江戸時代、東北や茨城からの米や産品を満載した船は、銚子沖を経由し、房総半島をぐるりとまわって湾(東京湾)に入り、大消費地の江戸まで行くルートの他に、銚子から利根川に入り、関宿まで利根川を遡上し、そこから江戸川を伝って南下するルートもあった。
房総半島をぐるりとまわるルートは、房総沖で黒潮にぶつかり、江戸湾に入ると暗礁がそこかしこにある大変危険なルートでもあった。それに比べると、利根川や江戸川を通るルートは、遭難や難破の危険が少ないうえ、距離も若干短い。
とはいえ、川のルートに問題がないわけでもなかった。利根川も江戸川も、上流にいくにつれて、浅瀬が多くなっていくため、荷物を満載した船だと底がつっかえてすすめなくなってしまう。
そういった場合は、荷物を艀(はしけ・小型の船)に積み替えて行くか、いったん陸に荷物を揚げ、馬に積み替えて、江戸川の河岸まで運んでまた船に積んで……。という手間がかかっていた。
そこで、利根川や江戸川が浅くなる手前で、川を短絡する運河を作ればいいんじゃね? ということを思いつくのは、しぜんなことだろう。古くは、江戸時代、徳川幕府二代将軍の秀忠が、1631(寛永8)年に手賀沼から流山までの運河開削を命じたという。しかしこれは、秀忠の死去により、立ち消えになってしまう。
このほかにもいくつかの運河開削の構想はあったものの、結局どれも実現はせず、時代は明治になった。
1881(明治14)年、茨城県議会議員だった広瀬誠一郎が、茨城県令の人見寧(ひとみやすし)に陳情したところから、運河開削が国のプロジェクトとして動き出す。
ところが、オランダ人の土木技師、ムルデルが現地調査を行うなどしたものの、鉄道の敷設を優先したい国や千葉県側の腰が重く、計画は遅々としてすすまなかった。
しびれをきらした広瀬は、自ら利根運河株式会社を設立し、資金40万円を集め、運河開削工事にとりかかった。利根運河は国ではなく、民間資本によって開削されたものであった。
運河は、ほりかえす土砂の量をなるべく少なくするため、もともとあった谷間(谷津)に沿って開削された。そのため、運河ではあるが、まっすぐではない。
利根運河は、1890(明治23)年、日本初の西洋式運河として竣工した。完成した運河には、蒸気船が運航し、かなりのにぎわいが創出されたようだ。
堤防の上には、運河に沿って雑貨店、お茶屋、船宿などがひしめき合ったという。
現在のこの様子からはまったく想像もできない。
さきほど、さらっと「蒸気船が運航し」と書いたが、この蒸気船というのが「通運丸」のことである。前回、松戸の堤防上にあった常夜灯の石碑に刻み込まれていた蒸気船だ。
いわゆる、外輪船というやつで、推進するのにスクリューではなく、水車型の外輪をぐるぐるまわして進む船だ。この船は観光地でよく見かけるので、ほのぼのとしたイメージがあるが、ペリーの乗ってきた黒船も外輪船である。
明治時代、東京と江戸川、利根川沿いの町を結ぶ旅客蒸気船は、いまではかんがえられないほどの数が運航していた。
川蒸気ともいわれた蒸気船は、東京の日本橋牡蠣殻町から浦安を経て、江戸川を遡上し、利根運河を経由して、銚子までを18時間ほどかけて結ぶ。もちろん、江戸時代のひとたちは、数日かけて歩いていたことを考えるとめちゃくちゃ早い。
これらの川蒸気のなかでも、中心的な存在だった通運丸は、内国通運という会社が運営していた。内国通運は、もともと江戸の定飛脚問屋が中心となって設立された陸運元会社という会社がルーツで、政府の庇護を受けて、蒸気船による旅客輸送などの事業も展開していた。
ちなみに、この内国通運は、後に国策会社(半官半民の特殊法人)となり、日本通運となった。錦絵の建物に、内国通運の「赤丸に通」の旗がみえるが、このシンボルマークは、日本通運となった今でも使われている。
さて、これほど栄えた蒸気船が今はもうまったく見るかげもない、なぜか。みなさん、お気づきかとはおもうが、鉄道の発達が原因だ。
1897(明治30)年に東京の本所から銚子までが鉄道で結ばれると、鉄道は東京、銚子間を5時間で走った。18時間と5時間の差は大きい。東京から博多まで夜行バスで行くのと、新幹線で行くのを比べる感じにちかいのではないか。
通運丸は、運賃の値下げなどで対抗したものの鉄道にはかなわず、内国通運は1919(大正8)年に一切を東京通船に譲る。そして、通運丸自体は、1931(昭和6)年ごろまでには姿を消している。
鉄道やトラック輸送などが増え、運河の交通量が次第に減るなか、利根運河にさらに追い打ちをかける事態が発生する。1941(昭和16)年に発生した洪水で、水門が決壊、堤防も一部壊れ、そのままでは船舶の航行が難しくなった。
運河運営会社は、補修費用などを準備することができず、1942(昭和17)年、運河は国に買い上げられた。国は運河を使っての軍事輸送が目的だったらしい。
戦争が終わると、運河はながらくそのままになっていたが、現在は、親水公園などが整備されている。
以上、利根運河と通運丸についてのべた。
最初、これが運河か、という感想だけだったが、これだけの情報を知ると、現在の利根運河の荒涼とした風景が、感傷的なもの(つまりエモい)にみえてこないだろうか。
兵どもが夢の跡、みたいな句を一句ひねりそうにもなってしまう。
野田が醤油で発展した理由
県境をたどる旅を続ける。
利根運河を後にし、堤防伝いにバイクで北上していると、道がいりくんだ集落に突入する。
これが、上花輪という集落らしい。
集落を進むと突然、冠木門の立派な屋敷が現れた。
上花輪歴史館と案内が出ており、バイクで到着したその瞬間に開館したようであったため、せっかくなので見学した。
上花輪歴史館は、もともと高梨氏の屋敷兼工場跡地を、そのまま歴史館として使った施設だ。
高梨氏は、代々高梨兵左衛門(ひょうざえもん)を名乗り、上花輪の名主を務める家柄だったが、1661(寛文元)年、19代が醤油の醸造を始めてから、幕府の御用となるなどし、この地で醤油の醸造をなりわいにしてきた。
高梨家が醤油の醸造を始めた翌年、1662(寛文2)年には、野田の茂木七左衛門が味噌の醸造を始める。茂木家はその約100年後、1766(明和3)年に醤油の醸造に切り替え、娘を高梨兵左衛門へ嫁し、姻戚関係となった。いわゆる政略結婚というやつだろう。この、高梨家と茂木家が中心となって、野田の醤油醸造は発展する。
時代は進み、1917(大正6)年、野田で醤油醸造を営んでいた茂木家、高梨家などの親戚7家(後に流山の堀切家も合流)は合同し、株式会社を設立する。野田醤油株式会社、のちのキッコーマンだ。
野田、それも川に近い上花輪で醤油の醸造が盛んに行われていたのは、やはり水運の利がよかったためだ。
醤油の醸造に必要な材料は、大豆、小麦、塩。
関東平野で作られた大豆や小麦は、船を使って上花輪まで運ばれ、塩は江戸川河口の行徳の塩や、播州赤穂の塩を船で運び、できあがった醤油は、川をつたって、大消費地の江戸まで出荷していた。
まさに、川があったため、必然的に醤油の産地になったともいえる。
しかし、江戸時代に水運で栄えた野田の醤油産業だが、明治に入ると、鉄道が敷かれるようになった。
千葉県が経営していた千葉県営鉄道、のちの東武野田線が、野田町駅(現在の野田市駅)を開業したのが1911(明治44)年。鉄道ができると、醤油の原料や出荷は鉄道で行うようになり、次第に水運での輸送は廃れていった。
川による水運は、野田の産業を発展させたものの、現代に残ることはなかった。
千葉県最北端の県境
本来であれば、野田の醤油遺産などもじっくり見て回りたいところだが、この旅はもともと千葉の県境をたどるという目的であるため、次の目的地である関宿城博物館に向かう。
関宿城博物館の展示自体に関しては後ほど述べることとして、ここは千葉最北端の県境を見ていただきたい。
千葉県と茨城県の県境標だ。
県境は、現地に行ってもなにもない場合が多いけれど、こうやって、県境好きのために境界を書いてくれてる場所は、とっても貴重なうえにうれしいものがある。
はしゃぎすぎてなんとか記念写真を撮ろうとするものの、でかくておさまらない。
さて、突然だけれど、ここが千葉県最北端の県境というのはうそだ。申し訳ない。
これだけビビッドでわかりやすい県境が、千葉県最北端の県境だったおもしろいけれど、本当の最北端の県境はもうちょっと先の川の中だ。
下の写真の右側の川の中に、本当の最北端の県境はあるはずだ。
とはいえ、最北端にとてもちかい県境であることに変わりはない。
千葉県を千葉県たらしめている県境は、この最北端から二股にわかれて、一方は銚子に、もう一方は浦安につながっているわけだ。
そしてもうひとつ重要なことがある。
この関宿城博物館にある県境標は、地面に書かれている。ということは、千葉の県境には地続きの県境があるということだ。
それはつまり、千葉の県境がすべて川の中にある……わけでは無いということの証拠になる。
つまり、この写真は、千葉が島でない証拠の写真である。
なんと、続きは次回に……
利根運河、バイクで訪れたさいは、本当になにもないただの川にしか見えなかったのだが、後日、資料を集めて調べだすと、めちゃくちゃ面白い話がもりもり出てきて、とても長くなってしまった……。
次回は、利根川東遷事業と「千葉県にある茨城県と茨城県にある千葉県」に行った話をしたい、乞うご期待。
参考図書
青木更吉『歴史ロマン 利根運河』たけしま出版 2018年
川蒸気合同展実行委員会『図説 川の上の近代 通運丸と関東の川蒸気船交通史』2007年
キッコーマン株式会社100年史編纂委員会 『キッコーマン株式会社百年史』2020年