関宿城博物館で関宿城と利根川東遷事業に思いを馳せる
関宿にある「関宿城博物館」は、城である。
とはいえ、これは模擬天守というやつで、鉄筋コンクリート造である。1995(平成7)年に完成した千葉県立の博物館だ。
かつて関宿城の天守閣があった場所は、実はここではない。真の関宿城跡は、現在の模擬天守がある場所から少し南に行ったヤブのなかにあるのだが、そこはうっかり行きそびれてしまった
代わりに、関宿城の関所跡の写真は撮影したので、掲載しておきたい。石だが。
この城の重要な機能として、この関所の役割もおおきかった。だから、ここも城跡といってもさしつかえはないだろう。
関宿の関所は、箱根などとならんで「最重要関所五十三」として重要視されており「入鉄炮出女(いりでっぽうでおんな)」という、小学校のときに歴史の授業でならった取締りも、もちろんおこなわれていた。
さらに、関宿は、通行する舟から徴収する「舟役」とよばれる通行税収入があったため、きわめて重要な拠点であった。
関宿城は、室町時代に古河公方足利晴氏家臣の梁田成助が城を築いたとされている。
そして戦国時代には成助の孫、簗田晴助が城主で、関宿城をめぐって北条氏とはげしい合戦がいくどもおこなわれた。
足利晴氏も簗田晴助もゲームの『信長の野望』に登場する武将なのでぼんやりと名前だけは知っていたが、関宿城が簗田氏の城だったと知り「あの、ぱっとしない能力値の簗田晴助が……」と妙な感慨を抱いてしまう。今度は、配下にしてもほったらかしにせず、もっと丁重にあつかってやろう。
簗田晴助は北条氏に破れ、関宿城は北条氏が支配することになるが、豊臣秀吉に北条氏が滅ぼされたあとは、徳川家康の異父弟、松平康元が入城し関宿藩が立藩する。
自らの弟を入城させるということは、家康は関宿を重視していた、ということだろう。関宿藩はその後、色々と城主が代わって、幕末には久世氏が藩主を勤めていた。
館内では、利根川と江戸川の治水の歴史がこれでもかというほど勉強できるようになっている。
関東平野の歴史は、治水の歴史といってもいいかもしれない。
平らなところを流れる川は、ひとたび氾濫をおこすと、水が一面に広がってしまうため、被害が甚大なものになる。かつては、長年かけて開墾した農地がひとばんで流されてしまうようなことが幾度もあっただろう。
昔の関東平野には、香取海と呼ばれるかなり巨大な湖が存在し、幾筋もの河川が網の目のように流れていた。
その頃の利根川は、現在の江戸川よりももっと西側を流れており、そのまま南に下って荒川や中川と合流し、江戸湾に注いでいた。つまり利根川は太平洋につながってなかった。
関東平野における大規模な治水工事は、徳川家康の江戸入府とともに始まった。利根川の流れを、別の川に移す「瀬替え」と呼ばれる工事が、江戸時代初期から開始されたのだ。
1594(文禄3)年、会の川(図のA地点)が締め切られ、利根川の流れは太日川へと瀬替えされた。(図の①)その後、逆川や赤堀川の開削(図のB地点あたり)、などを経て、太平洋に注ぎ込む常陸川(図の②)へ利根川を接続し、利根川の流路をおおきくかえた。
※2020/12/09 13:30追記 読者の方から「太白川」は「太日川」の誤りではとご連絡をいただき修正しました。ありがとうございます!
これらの工事をおこなったのが、徳川家の家臣であった伊奈忠次と忠治親子だ。伊奈忠次は、家康の元を2度も出奔したものの、2度とも許され、晩年は利根川の治水工事を担当するというかわった経歴のもちぬしである。
なんどもたとえに出して申し訳ないけれど、伊奈忠次も『信長の野望』に出てくる武将だったので、名前はだけは知っていた。政治力が高いのに、知略が異常に低い変な能力値の武将として印象に残っている。
伊奈忠次がおこなった赤堀川の工事は難工事であったという。赤堀川のあったあたりには、分水嶺が存在し、その分水嶺を超えるための河川を掘り出さなければいけない。ショベルカーやダンプカーといった重機はもちろんなく、コンクリートのような便利な資材もないなか、何万人といった人夫をやとって掘り進めた工事だった。
赤堀川の開削工事は2度失敗しており、地元民から「赤恥川」と呼ばれていたという。伊奈忠次、なぜか2回失敗する人生である。
とはいえ、これら治水工事の業績……かどうかはわからないが、伊奈忠次は町の名前にもなっている。埼玉県の伊奈町がそれだ。さらに息子の伊奈忠治にちなんだ伊奈町も、かつては茨城県にあったが、現在は合併でつくばみらい市となっている。
これらの治水工事は、ひとつに江戸の町を水害から守るための洪水対策、そして、新田開発、舟運整備などの目的があったと言われている。
伊奈忠次ぬきで、江戸、そして東京の繁栄は語ることができない、といえる。
千葉県と茨城県がはみ出しているところめぐり
さて「県境のみどころ」とのたまっておきながら、いまだに県境の話が出てない。うっかり関宿城の話に夢中になってしまった。
関宿の現在地から、東遷事業によって流れが変わった利根川に沿いつつ、銚子まで駆け抜けたい。
と、その前に、千葉県の県境についてすこしお話しておきたい。
現在、千葉県と茨城県の県境は、関宿から銚子まで利根川の真上に県境が引かれていると思ってもらえばおおむね正しい。ただし、いくつかの例外がある。
関宿から銚子までの間に、利根川を越えて向こう側の県に領土がはみ出している部分は3カ所ある。
西から順に、千葉県野田市木野崎の柳耕地(やなぎごうち)、茨城県取手市小堀(おおほり)、千葉県香取市石納(こくのう)と野間谷原(のまやわら)だ。(香取市新島地区は、ほぼ島なので除外します)
まず、野田市木野崎の柳耕地。
大正時代の河川改修で川筋がまっすぐなってしまったので、茨城県に飛び出してしまった千葉県だ。見ての通り、県境にそって、カーブしている川の跡がなんとなくわかるのがおもしろい。
また、地名も良い。水際に治水対策で植えることがおおい柳がはいっている。そしてその柳の耕地である。なんの説明もいらないだろう。
野田市のウェブサイトによると、ここは、千葉県の田んぼの持ち主が農作業をしに来るため、昭和50年ごろまで渡舟(木野崎の渡し)があったらしい。
で、ここまで言っといてなんだが、この地区は無人であるのと、行くためにかなり遠回りをしなければいけないので、今回は訪れずに通過させていただく。申し訳ない。
次は、茨城県取手市小堀。
小堀とかいて、おおほりと読む。意外と難読地名である。
ここは、千葉県の中に飛び出してしまった茨城県としては唯一の場所だ。ここも、河川改修の影響で、相手の領土内に取り残された飛地だ。地図で見ると、昔の河川の跡が沼としてそのまま残っているのがわかる。ここの話は後ほど述べたい。
そして最後は、千葉県香取市石納と野間谷原。
石納、野間谷原、どちらも微妙に意表をつく読み方の地名だ。ちなみに、石納は、茨城県稲敷市側にもある。
茨城県側に飛び出してしまった千葉県としては2つ目であるが、ここは人が住んでいる。ここも河川改修で取り残された飛地ということになる。こちらも後ほど述べたい。
千葉県の中にある茨城県「小堀」
水戸街道を北上し、利根川手前で右に折れ、利根川沿いの土手の道路をしばらく東にむかうと、茨城県の県境が現れる。
道をそれて小堀の集落に入ると、ひとけのないしずかな住宅地に入る。しずかな住宅地のなかに静かな寺院があったが、なぜか人が三々五々あつまってきた。
しばらくすると、集落の中心と思しき寺の広場に、移動スーパーがやってきた。買い物にやってきた、集落にお住まいのご婦人に伺うと、この移動スーパーは週二回ほどここにやってくるのだそうだ。
貴重な地上の県境を見るため、集落の外れに行ってみる。
特に県境を示すものは、道路側にある県境標以外はとくにない。マンホールの蓋を確認してみたところ、この地区の水道は千葉県我孫子市の水道を使用しているようだ。
集落をぬけ、土手を横切り、河川敷に出ると、小堀の渡しという渡船がある。関宿から銚子までの利根川下流における唯一の渡船である。
しばらく待つと、取手市側(こっちも取手市だが)から小さな舟がやってきた。
船がやたらきれいだなと思ったら、どうやら今年の3月に就航したばかりの新しいものだった。
この渡し船、飛び地である小堀と取手市本体を繋ぐ重要な渡し船である。そのため、県境を越えるわけではない。小堀の小学生や中学生は、この渡し船に乗って、取手市本体の方の学校へ通っていたのだ。
「いた」と、過去形なのは、近年、小堀の集落から取手の駅まで10数分ほどで行き来するコミュニティバスが運行を開始したため、通学、通勤の乗客はほぼいなくなったのだ。
とはいえ、船を新造しているところをみると、運営している取手市は、観光渡船として残していくという心づもりらしい。
取手市側の渡し場の待合室に小堀の渡船の100年の年表が張り出してあった。
小堀の渡し船は、1914(大正3)年、河川改修で行き来ができなくなった小堀の住民により渡船の運行が開始されたとある。
ここで、ひとつ本をひもときたい。
江戸時代末期の医師、赤松宗旦によって著された『利根川図志』をみる。この本は、利根川流域の名所・旧跡・名産品・風土・風習などを紹介した地誌だが、その中に「小堀河岸」という項目がある。
(小堀河岸は)利根川に臨みたる地にして、船宿五家皆寺田氏なり。(徳基が家あり、今も勘兵衛という)。水神を産神とす。例祭六月廿日、夜に入りて神輿(しんよ)を船にて利根川に浮かべ、流れに隋(したが)い静かに下る。船には幕を張り鉾を立て、夥しく挑燈(ちょうちん)を掛け、笛太鼓囃物の声高欄の内に起る。この時後舟より烟火(はなび)挙ぐ。その数甚多し。これを看る人両岸に雲集し、持連ねたる燈(ともしび)は月の如く、水中に倒映して金波を生じ、傍涼風に暑を消し、酒食の興を添えて、實(まこと)にこの地の壮観なり。
とある。
小堀では、毎年6月20日に、かなり盛大な花火大会を行っていたようだ。が、それより注目したいのはそのまえ、小堀河岸には船宿が5軒あり……というところだ。
これをみると、小堀河岸にはもともと水運を生業にする人たちが多く住んでいたようだ。渡船を、自分たちで運行することができたのもそのためだろう。
香取市の飛地はめちゃくちゃ空がひろい
さて、小堀を出発し、ひたすら東に進み、バイクを飛ばして1時間30分ほど、佐原の町に到着。水郷大橋を渡り、石納・野間谷原の集落に向かう。
この集落も、ひとけがない。というか、立派な屋敷が数件づつあちこちに密集するものの、それらの間隔が広く、間にはただただ田んぼしかない。人の気配がしないのもしかたがない。
先にも述べたが、石納、野間谷原の飛地は、河川改修が原因である。
集落を通り抜けて、利根川沿いの道路へ行くことを控えるよう呼びかける看板と反射板のゲートのようなものがちょうど、県境の目印のようになっている。
こちらは、おそらく田んぼの用水路が県境となっている。田んぼ以外はなにもないところではあるが、空がめちゃくちゃひろくて気持ちよさしかない。県境の最果て感としては申し分ない。よい最果てだ。
集落に戻ると、水神社があったので寄ってみた。
水神社、茨城、千葉にとにかく無数にある。
小堀のところで引用した『利根川図志』にも各地の水神社がたびたびでてくる。小堀の産土神も水神とあったが、おそらく水神社だろう。
これらの水神社の信仰は、川とともに生きてきたひとたちの証である。
ただ、とくにこのあたりの水神社は、船を逆さまに伏せたような不思議な形をしている。もうしわけないけれど、これはダース・ベイダーにしかみえなくて困った。
下総はなぜ2つにわかれたのか
ところで、千葉県の県境について、そもそもの話をしたいと思う。
廃藩置県のさい、県境は旧国境をや藩の境目を基準に決めているところが多い、しかし、現在千葉県と茨城県の県境となっている利根川(常陸川)はそもそも国境ではなかった。
江戸時代の地図をみてみる。
千葉県は、安房国、上総国、下総国の三カ国が合体してできている県だが、下総国の三分の一ぐらいが、茨城県に編入されているのがわかるだろう。下野国や上野国が、それぞれ一国で栃木県、群馬県となっているのとはずいぶんようすがちがう。
1871(明治4)年7月の廃藩置県では、現在の千葉県域に26県が誕生した。これは藩がそのまま県になったもだが、それにしても多い。千葉県のホームページをみると、このときの26県が全て書いてあるが、宮谷(みやざく)県や、生実(おゆみ)県といった、なんかうまそうな名前の県があっておもしろい。
ただし、この26の県は数ヶ月で統廃合が行われ、1871(明治4)年11月には新治県、印旛県、木更津県の3つに集約された。
1873(明治6)年、印旛県と木更津県が合併し、千葉県が誕生する。「千葉県」という名称はこのときできる。しかし、この頃の千葉県は、現在の千葉県とは全くことなる形をしている。
そして、1875年(明治8)年、新治県が廃止され、銚子や香取郡、匝瑳郡などが千葉県に編入され、旧印旛県の一部地域が茨城県に割譲されて、チーバくんでおなじみのいまの千葉県の形となった。
利根川の上に引かれた県境は1875(明治8)年の県再編時にほぼ確定した。このとき、明治政府はなぜ川の上に県境を引いたのか。
一説によると、財政難だった明治政府が、河川の管理を地方=県にまかせるにあたり、利根川両岸をそれぞれ別の県にまかせ、堤防や治水の費用を折半できるように川を県境にしたのではないかといわれている。
つまり、千葉県がほぼ島みたいになっているのは、明治政府にお金がなかったから。である。
チコちゃんなみのこじつけかもしれないが、もとをたどればそういうことになるだろう。
しかし、このとき利根川でスパッと県境を引けたかというとそういうわけにはいかなかった。
水運で栄えた佐原の町には裕福な商家が多く、そういった商家は江戸時代に利根川を越えた先にある土地の新田開発をおこなっていた。県境を確定させるさい、佐原は千葉県となったため、川の先にある新田も千葉県に編入された。
佐原の町と利根川対岸の地域は千葉県の飛地となったが、問題が発生する。飛地側の堤防がたびたび決壊し、茨城県側の農地に被害が出たのだ。
茨城県は、千葉県が飛地側の堤防の管理を怠っているとして、県境を利根川上に引き直すよう要求した。自分の側の堤防は自分で管理したいということだ。
飛地側の住民は大騒ぎになり、住民は千葉県に残るようさまざまな運動をおこしている。そこで、妥協案として新島地区は横利根川を境にして東西に分割し、東は千葉県、西は茨城県にするということが決定する。
そして1899(明治32)年、利根川を挟んで千葉県の飛地となっていた大部分の村が茨城県に編入され、ようやく、チーバくんの形が完成した……ということになる。
千葉の県境走りきったぞ(バイクで)
というわけで、すったもんだのあった県境・横利根川を眺めつつ、佐原から銚子までバイクで飛ばして2時間ほど。ついに利根川河口の銚子に到着した。
犬吠埼の到着をもって、ひとまず、千葉県の気になる県境をめぐる旅は終わりとしたい。
ご清聴ありがとうございました!
参考文献
赤岩州五・北吉洋一(2019)『藩と県』草思社文庫
千葉県高等学校教育研究会歴史部会(1987)『千葉県の歴史散歩』山川出版社
赤松宗旦・柳田国男『利根川図志』岩波書店
昭文社編集部(2020)『千葉のトリセツ』昭文社
味澤由妃「房総半島を探求する利根川北岸茨城側に「千葉県香取市」水郷の民が守った飛地」『毎日新聞』2012.9.26
新井宿駅と地域まちづくり協議会『水を治め、水を利する伊奈忠次・忠治父子の物語』
国土交通省関東地方整備局利根川上流河川事務所『利根川の東遷』