2023年に幕張新駅が予定されているなど、幕張新都心は現在も成長を続ける街だ。
30年前の未来都市は今も先へ先へと進んでいる。
部外者としては、そんな街にときおり垣間見える懐かしさを楽しみたいものである。
「近未来へのキーワード、マ・ク・ハ・リ。」
「21世紀をリードする房総新時代の幕開け」
『片田舎だった千葉が、「首都圏の中心」になるばかりでなく、世界に通じる半島になる。いま、“国際経済文化県”千葉が誕生する。』
1989年、バブルの真っ只中に街びらきした幕張新都心のキャッチコピーである。
千葉市、東京湾臨海部にまったくのゼロから作られた幕張新都心。
今歩いてみると、平成初期の雰囲気を色濃く残しており、その時代特有のかっこよさと懐かしさが混在する魅力的な場所だった。
幕張新都心と聞いても、あまりピンとこない方もいるかもしれない。
実際に歩いてみる前に、まずは幕張新都心の成り立ちについて軽く紹介したい。
21世紀がすぐそばまで迫っていた80年代~90年代。
冷戦の終結と情報技術の発展により、ボーダーレスな国際化社会が予見されていた。
日本でも、そんな新しい時代に向けてこぞってハイテクな未来都市が計画されていた。
横浜みなとみらい21、さいたま新都心、臨海副都心、そして幕張新都心がその代表だ。
より現実的な事情としては、当時は東京都心の異常な地価上昇・オフィス不足に対応するため、周辺部の開発・業務分散が急務だったのだ。
その中で後発ながら、ライバルたちに比べていち早くつくられたのが幕張新都心である。
そのきっかけは1978年の成田空港開業だ。
何もない葦原だった幕張の埋立地が、東京都心・国際空港のちょうど真ん中にある好立地へと一気に生まれ変わった。
そして、1983年に発表された当時日本最大級の国際展示場「幕張メッセ構想」を機に計画は急速に現実化していく。
バブル崩壊前の1989年には、幕張メッセ開業とともに幕張新都心の街びらきにまでこぎつけるのだ。
その理由は何だろうか。
『幕張メッセの全貌 : 「幕張新都心」・世界をターゲットに』(梅沢忠雄・UG都市設計著、ダイヤモンド社、1989年)によると、計画を担った都市計画家・梅沢忠雄は、都や国の思惑を受けて計画が膨れ上がった臨海副都心と比較して、千葉県が意思決定の早い“小さなガバメント”だったことを挙げている。
お偉いさんに振り回されることなく、現場の情熱のままに走り抜けることができたそうだ。
それゆえ、バブル崩壊の煽りをもろに受けた臨海副都心(計画が頓挫し東京オリンピック2020まで手つかずだったところもあるくらいだ)に比べて、幕張は比較的影響少なくなんとか逃げ切ることができた。
だからこそ、純度の高い平成初期の街並みが今もみられるのである。
幕張新都心で最初につくられた記念すべきオフィスビル・幕張テクノガーデン。
冒頭の「近未来へのキーワード、マ・ク・ハ・リ。」というコピーは、このビルの開業当時のパンフレットによるものだ(『幕張テクノガーデンのご案内 Information‐2』1987年)。
その他にも「ハイテクが集中する街」「近未来へのプロローグ。ここから21世紀がよく見えます」など、イケイケの文章が並ぶ。
にしてはふつうのビルに見えるが…
当時は「例えば東京と大阪でテレビ会議が可能」な、最先端の情報通信設備を完備したインテリジェントビルだったそうだ。
このビルの売りであるアーバンなショッピング街やアトリウムも、現代からするとこじんまりとして、そのギャップになんとも愛着わく空間である。
これは幕張新都心全体にいえることだが、シンボリックな巨大建造物が立ち並ぶお台場や横浜に比べて、幕張は無理をしていない等身大の感じが心地よい。
それも、幕張が比較的当初の計画通りに作られたからなのかもしれない。
幕張新都心といえば、一番の見どころはこのハイテク通り…だと思う。
この直球すぎるネーミングセンスである。
当時のハイテクと今のハイテク、イメージするものは全然違うのだろう。
そんなハイテク通りを歩いていると、さわさわと涼し気な音が聞こえてくる。
梅沢忠雄によると、幕張が国際都市となるためにはどうしても欠かせない三つの条件があったという。
幕張メッセ、国際一流ホテル、そしてこのIBM誘致である。
ゼロから街を作ろうとしていたのだ。
何の実績もない中、国際的なビジネスセンターを作ると言っても企業は信用してくれない。
IBMを誘致できれば、他の企業も続々と進出してくれるだろうという算段があった。
最初は日本IBMに打診するも一笑に付されたが、それでもあきらめず梅沢らが直接アメリカのIBM本部に交渉にいき、幕張新都心構想をプレゼンした結果、IBM誘致に成功する。
1万人規模のSEを配置する、当時としては極東最大のソフトウェア開発センターとして計画されたそうだ。
さて、そんなIBMビルだ。これが非常にカッコいい90sビルなのだ。
ハイテク×和風である。
しかも今時の建築(例えば新国立競技場)みたいに両者を馴染ませるのではなく、はっきりとコントラストをつけるのがこの時代の特徴だと思う。
以前、同時期の東京都立大学のキャンパスを記事にした際にも言ったが、なんというかハリウッド映画に出てくる、アメリカ企業を買収してそうな日本企業の本社っぽいというか…。
超然とした佇まいが凛々しい。
そういえば、幕張新都心には同じように和風×ハイテク感のあるスポットがある。
やはり90年代初期といえばこの感じである。
話を戻してハイテク通りだが、セイコーのビルを過ぎたあたりから浜田川通りと名前が変わり終了する。
竣工当時日本最大のコンベンションセンター(国際会議場・国際展示場)であった幕張メッセ。
当時の想像する21世紀とはどんなものだったか。冷戦が終結へとすすむなかでボーダーレスな社会が達成され、超大型通信衛星による全地球規模での情報化社会が期待されていたそうだ。
だからこそ、どの都市もコンベンションセンターを作ろうとしていたのである。
だが、見どころはそれだけではない。
また、京葉線高架下を通るスロープもおすすめのスポットだ。
最後に歩いたのは複合機能都市・幕張の住を担当する幕張ベイタウンだ。ここは写真を見ればそのユニークさが一目瞭然だろう。
無電柱、きっちりと高さが揃った街並み、統一感がありながら一つ一つ違うデザイン。ありそうで日本のどこにもなかった場所である。
平成初期から中期にかけて各地に作られた「ヨーロッパっぽさ」を感じさせる建物群の中で、その最たるものだろう。
ユニークなのは見た目だけでない。
それぞれのマンションにはゴミの真空輸送システムがあるそうだ。
この臆面ないオシャレさよ…と思ったら、由来はあのボビー・バレンタイン監督が千葉ロッテマリーンズの優勝パレードで通ったことだそうだ。
急におじさんの笑顔が浮かんできてほっこりする。
あとで知ったがバレンタイン通りの2丁目14番地にはチョコレート屋があるらしい。
メインストリートである美浜プロムナードでは、1階部分が商店街となっている。
さすが平成の分譲住宅なだけあり、まだまだ子供向けの教室が多い。
ホームページをみると、国語が全科目の基礎になるという考えのもと、今は国語を中心に全科目対応しているそうだ。わかるけど国語って難しい。
昭和レトロが団地だとすると、あと10年、20年するうちにここは"平成レトロ"な町並みとして、人気が出るんじゃないかと思う。
ベイタウンという名の通り、ちょっと散歩をすれば東京湾だ。
横浜やお台場にはない、広々とした砂浜がある。
もともとこのホテルは、バブルの象徴・東京都庁舎や赤坂プリンスホテルをつくった丹下健三設計の幕張プリンスホテルだったそうだ。
2006年からアパホテルになっている。
建物は残っても、時代は移り変わるものである。
2023年に幕張新駅が予定されているなど、幕張新都心は現在も成長を続ける街だ。
30年前の未来都市は今も先へ先へと進んでいる。
部外者としては、そんな街にときおり垣間見える懐かしさを楽しみたいものである。
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