下車の定義をはっきりさせときます
さて、まずは「全駅下車」の定義についてハッキリさせておきたい。
鉄道趣味界隈で「乗りつぶし」とか「鉄道完乗」という趣味がある。これはつまり「その鉄道路線に全て乗る」という趣味だ。
例えば、山手線の電車に乗って、山手線を一周すれば「山手線完乗」ということになる。
※詳しくはこちらを御覧ください→(「JR全線乗りつぶし」ってどんな趣味?)
そして「完乗」のバリエーション(?)として「全駅下車」というものもある。これは「すべての駅で下車する」というやつだ。
全駅下車は、文字通りすべての駅でいちど列車を降りなければいけないため、めちゃくちゃ大変で面倒くさい。
めちゃくちゃ大変で面倒くさいので、日本全国のJR、あるいは全ての鉄道事業者の駅で「全駅下車した人」というのは非常に少なく、達成すればギネスブックに登録されるほどの偉業となる。
しかしながら「鶴見線だけ」ならば一日で、なんなら半日ぐらいで、全駅下車が達成できるのではないか? 全部はできなくとも、一部だけなら楽に達成できるのでは。という、横着なアイデアである。
以上を踏まえ、とりあえず今回の全駅下車のルールは以下の通りに決めた。
① 鶴見線13駅のうち、全ての駅で改札を通過する
② スイカを利用して、使用履歴を残す
③ 途中、駅間を徒歩、バスなどで移動するのもOK
※実は「改札を通過」の部分が「乗車のみでもOK」にするかどうかで、スイカの使用履歴の記録に影響してくるので、ちょっと矛盾してしまうのだが、それは後ほど……。
今回の全駅下車は、IC乗車券(スイカ)で、この13駅すべての改札を通過すれば、駅名が記録されるので、駅に行ったということが証明できるだろうという目論見だ。
本当は、1日乗車券のようなフリー乗車券などがあればよいのだけど、鶴見線をめぐることができるそういったたぐいの切符は、無いか価格が高かったため、乗車料金をその都度払って乗るストロングスタイルで行くことにした。
鶴見線ってなに?
さて、横着をするために鶴見駅にやってきた。
ここで、鶴見線についてざっくり説明しておきたい。
冒頭でも述べたように、鶴見線は横浜市と川崎市の海沿いの埋立地を走っている。
総延長は9.7キロほどだが、駅(旅客駅)は13駅あり、鶴見線本線の他に、大川支線と海芝浦支線という枝分かれした支線が存在している。
鶴見駅が始発駅となっているが、終点が複数あるため、ややこしい。
JR時刻表の路線図をみてほしい。
どこまでが鶴見線で、列車がどんなふうに走っているのか、この路線図からは読み取りづらい。
しかし、鶴見駅の鶴見線ホームに行くと、その謎はすぐに氷解した。
鶴見駅から、海芝浦、大川、扇町の各終着駅までの3系統の列車が走っているということが一目瞭然でわかる。なんだ、こんなことだったのか。
7時12分鶴見駅発→大川駅
まず最初の目的駅、大川駅に向かう。が、その前に鶴見駅構内をじっくり観察しておこう。
鶴見線は、1926(大正15)年に、鶴見臨港鉄道という私鉄路線として、浜川崎−弁天橋間と大川支線が、まずは貨物線で開通した。この鶴見臨港鉄道が、鶴見駅(現在の場所ではなく、すこし離れた仮鶴見駅)まで乗り入れしたのは、それから遅れること、4年後、1930(昭和5)年である。
現在の位置に駅とホームができたのは、1934(昭和9)年で、鶴見線のホームはこのときのものがそのまま使われているようだ。
そう言われたうえで、よーく観察すると、年季の入り方が90年ぐらい経っているような気になってくる。
そんなことを考えながらホームを観察しているうちに、大川駅行きの電車が入ってきた。
駅舎のクラシックな雰囲気とはまた違った、夢に出てきそうなデザインの電車がやってきた。
鶴見線の車両は最近、このデザインの電車に置き換わったらしい。電車はしばらく停車したのち、定刻に鶴見駅を出発する。
さて、鶴見駅を出てしばらくすると、前方に訳ありげなコンクリートの構造物が一瞬だけ見えるが、これは廃駅跡だ。
いきなり鉄道遺跡が見られるのが鶴見線の魅力といえば魅力かもしれない。
本山駅は、1930(昭和5)年に、曹洞宗の本山である總持寺の門前駅として設けられたが、1942(昭和17)年に廃止された廃駅だ。
この本山駅跡を過ぎ、鶴見川をわたると、まちなみのトーンがだんだんと灰色と赤茶色になってくる。電車は武蔵白石駅横のカーブをガクガクゆれながら曲がり、あっという間に大川駅に到着した。
大川駅に到着
終着駅のため、乗客は全員下車していたが、土曜日の早朝にもかかわらず、意外と乗客は多く、ざっと20名ほどはいただろうか。
鉄道マニアと思しき乗客3割と、付近の施設への通勤客が7割といったところだった。
なぜ、最初に大川駅に来たのかというと、土曜のダイヤでは、大川駅までやってくる列車は1日に3本しかない。午前7時台に2本、そしてその次は17時台の終電で終わりである。
こういう行きづらい駅は、なるべく最初に潰しておきたかったのだ。
一旦改札を出て、駅周辺を見てみる。
大川駅は「製紙王」とも呼ばれた大川平三郎にちなんで名付けられた。
大川平三郎は、川越藩の剣術道場の家に生まれたが、渋沢栄一の玄関番となり、その後、設立されたばかりの王子製紙で職工として働き、働きながら学問を修めた。
その後、出世すると、数多の製紙会社の創業などに関わり、製紙会社だけでなく、札幌麦酒(現・サッポロビール)や東洋汽船(現・日本郵船)日本鋼管(現・JFEスチール)などの経営にも携わった。
この大川駅のある埋立地の島の町名である大川町も彼の名前からとられたものだ。
なお、テレビなどでもおなじみだった競馬評論家の大川慶次郎は平三郎の孫である。
折り返しの電車に乗って移動したいので、停車中の電車に乗り込む。
次の目的駅は国道駅である。