多摩ニュータウンという巨大な街をひとつの記事にしたかったのだが、やはりどうしてもキャッチーな部分の切り貼りになってしまうものだなと思う。
そこらへん、部外者としてはいつも悩むところだ。
街の行く末を案ずるのは楽しいけれど、おそらくほとんどの街は自分よりも長生きするだろうと思う。
多摩ニュータウンの50年後を元気にみられるよう、健康に生きたいな、と思った。
多摩ニュータウンができて50年以上。総面積約3000ha、計画人口34万人という日本最大のニュータウン計画だったがゆえに、「第四の山の手」から「陸の孤島」「オールドタウン」まで、よくも悪くも世間の注目を浴び続けてきた街だ。
現代の東京に住んでいると当たり前の存在になっているが、「巨大な実験都市」とも言われるように、実は日本史上でも二度とあらわれない、貴重な場所なのかもしれない。
建造物は50年たつと文化財の仲間入りできるというけれど、一方で多摩ニュータウンは生きた街である。東京都は2040年代を見据えた都市計画を立てているらしい。
多摩ニュータウンの過去から未来へ。
これを機に、ニュータウン以前の多摩丘陵の面影、多摩ニュータウン黎明期、バブル~平成の多摩ニュータウン、そして未来の多摩ニュータウンについて…四世代にわけて、実際に歩いてみたい。
東京オリンピックの翌年の1965年に計画がまとまり、大阪万博の翌年1971年に入居開始した多摩ニュータウン。多摩市・稲城市・八王子市・町田市にまたがる巨大な計画都市だ。
かんたんな紹介もかねて、まずはその特徴を4つにわけて説明したい。
もともとは丘陵の谷間に点在する2000世帯ほどの小規模な農村地帯であった多摩丘陵に、計画人口34万人の巨大ニュータウン計画が立ち上がった。
当時の東京は上京する若者で溢れとにかく住宅不足だったそうだ。
そんな中、多摩丘陵も民間業者による虫食い状の乱開発が問題視されていた。
それらの解消が急務とされる中で1963年に施行された「新住宅市街地開発法」は、都市計画に基づいた健全な住宅市街地を建設するためのもので、行政による土地の強制収用を可能とするものだった。
つまり、3000haを全面的に買収し、まったく新しいニュータウンを作るという壮大な計画だったのだ(その後地元住民の反対もあり、谷間の既存集落などは土地区画整理事業という別の法律による開発となった)。
多摩丘陵を削ってつくられたニュータウンは、それまでの自然発生的な街とはまったく異なる計画都市なのである。
実際には22万人前後がピークとなったが、それでもどこを歩いてもスケールの大きさを感じる街並みである。
この開発のダイナミックさは、良くも悪くももう二度と味わえないのだろうなと思う。
1971年の入居開始から、2006年の新住宅市街地開発事業完了まで、30年以上にもわたって開発が続けられた多摩ニュータウン。その後も民間業者による開発は今も続いている。
先発の大阪・千里ニュータウンが1962年~1969年の8年間で開発されたことを考えると、その開発史の長さもすごいのである。
日本人の生活がどんどん豊かになっていく中で、その時々において理想とされた住宅建築が多種多様に残っており、日本の住宅史そのものともいえるそうだ。
巨大な計画都市ゆえに、公園緑地率が19%と余裕のある街づくりがなされている多摩ニュータウン。
どこを歩いてもすぐに緑地・公園にぶつかる印象を受ける。
駅の近くに広々とした公園があってびっくりすることが多い。
ジブリ映画「平成狸合戦ぽんぽこ」の影響もあり、山を切りひらき自然破壊を破壊してつくったという印象が強い多摩ニュータウン。
それも事実だろうが、東京中が開発されすぎた今から考えると、よくこれだけまとまった緑が残っているなとびっくりすると思う。
まさに、公園だらけ。
ただ、計画都市ゆえの綺麗な並木道も、夜道としては死角が多く怖いという一面もあるようだ。なかなか都市計画とは難しいものだなと思う。
多摩ニュータウンは多くの場所で、高低差をいかした歩車道分離式の街づくりが行われている。
多摩ニュータウンの都市計画は「近隣住区論」という理論に基づいており、1中学校2小学校・人口1万2千~2万人という大きさの住区が基本となっている。
もともと1920年代のアメリカにおいて、急速な車社会化に対抗する形でつくられた理論なので、住区内を幹線道路が通らないようになっており、徒歩圏内で完結する生活・人間的なスケールの住区によるコミュニティづくりなどが目指されている。
現実には、その後の多摩ニュータウンも車社会化していったがゆえに不便さも出てくるのだが、体が健康な人が散歩する分にはいい街だと思う。
多摩丘陵のアップダウンの激しい地形を解消しようとすごく頑張ってはいるのだが、それでもお年寄りや体の不自由な方には負担のかかる街となっているのは確かだろう。
さて、ここからは冒頭で話した通り、そんな多摩ニュータウンの歴史を以下の4つの世代にわけて歩いてみたい。
縄文時代より人が連綿と住み続けた場所であった多摩丘陵。
多摩ニュータウンの開発時、千近い遺跡を発掘調査したそうだ。
弥生時代以降は、周辺の里山から堆肥や薪を取り、谷戸(やと)と呼ばれる丘陵の合間の小河川流域において小規模な稲作や畑作を行う生活がながらく続けられてきた。
多摩ニュータウン以前の1950年代くらいまで、農業、養蚕、酪農など、多摩丘陵の暮らしぶりは自然とともにあったのである。
そんな過去の雰囲気を残すスポットを歩いてみた。
◆里山すぎる一本杉公園
ここは昔の生業を再現している公園で、2棟の江戸時代の古民家が移築されている。
農業のできない冬場は、山に入り薪や木炭をつくっていた。里山は、単なる自然ではなく重要な仕事場だったのだ。
だが戦後、エネルギー利用の変化により木炭の需要は急速に落ちる。里山がお金にならない場所になってしまった。これが多摩ニュータウン前史である。
一本杉公園を南にくだると、多摩ニュータウンからはすこし外になるが昔ながらの宿場町がある。
◆大山道の宿場町、小野路宿
多摩ニュータウンは、もともと鎌倉街道や大山道などの古道が通る地域でもあるのだ。多摩ニュータウン内にも、いくつもの宿場があったそうだ。
丘陵の上が切り開かれる前は、いたるところにこのような谷戸と小規模な集落が散らばっていたそうだ。
北海道のような広大な平野と違い、この谷間では戦後になってもなかなか農業の近代化ができずにいた。これもニュータウン前史である。
◆都の文化財になっている茅葺の小泉家屋敷
多摩丘陵のもうひとつの生業が、明治の近代化で特に盛んとなった養蚕である。
多摩でも裕福な養蚕農家があらわれ、生糸として横浜から世界へと出荷されていった。
これだけ立派な屋敷だ。もともとはこのあたり一帯を所有していたのかもしれない。多摩丘陵は、どこをとっても地元住民たちのものだった。
だが、戦後になって化学繊維の普及により養蚕も急速に廃れていく。養蚕も木炭も衰退…となると、他のことで食べていく必要が出てきたのだ。酪農を始めたり、土地の一部を売ったお金で農業の近代化を目指したり、地元住民たちは生き残りをかけていたそうだ。
そんな背景があり、多摩ニュータウン計画の広大な用地取得は大部分において"比較的"短期間で完了することになった。
しかしそれは、先祖代々住んできた土地をまったく別の「ニュータウン」にすることでもあった。
その思いを伝えるエピソードがある。貝取地区の大地主であった伊野氏が長い話し合いのすえ、買収の契約をしたという日は8月15日だった。担当者も含めて盆棚の仏さまに線香をあげたあと、確認の計算をしているときに盆棚の掛け軸が落ちたそうだ。
伊野氏はご先祖様が怒っているのかなとつぶやいて掛け軸を直したあと、契約書にサインをしたという。
多摩ニュータウンでは、開発によって行き場を失った石仏などが神社や寺に集められていることも多い。
よく、多摩ニュータウンを多摩オールドタウンと揶揄する言葉があるが、本当のオールドタウンはこの悠久の農村地帯なのだろう。
1965年、増え続ける東京の人口に対処するために、多摩ニュータウン計画ができる。それから6年後に最初の入居がはじまった。
急ピッチで作られたゆえに、1974年になるまで鉄道が来ず40分かけてバスに乗る必要があった。しかし、当時は約40倍の入居倍率だったという。
近隣住区論により都市計画がなされた多摩ニュータウンには、日常的な買い物の場である団地内の近隣センター、地区センター(駅前)、中央センター(多摩センター駅)という3つのおでかけスポットが用意され、
1日に1回近隣センターへ、1週間に1回地区センターへ、1ヶ月に1階中央センターへ行けば良い、というコンセプトで作られた。
農業を続けられなくなった地元住民たちへの転職支援として、「クワからレジへ」というキャッチフレーズとともに近隣センター商店街への優先出店をしていたそうだ。
もともと地元住民たちはニュータウン建設後も農業を続けるつもりだったのだが、実際に土地区画整理事業で残された土地は農家としてはやっていけない狭さだった。
土地を売ったお金で地方へ行って農業を続ける人もいれば、農家から商業へと転職した人もいる。その変化は壮絶なものだったろう。
近隣センターには車道におりることなく買い物ができる、という理想像があったのだが、実際にはまとまった買い物をするためには車を使う住民が多く、駐車場のない近隣センターよりも幹線道路沿いの商業施設へと客足はなびいていった。
この諏訪名店街、一時はシャッター街としてマスコミに取り上げられることもあったが、今実際に歩くとそんなことはない。
近所に幼稚園もあり、平日の午後だったからか子供の声がにぎやかな場所だった。
団地の建替も行われていることもあり、想像していたよりずっと栄えていて、やはり自分の目で確かめるのって大事だ。
しゃっきりと茹でられた蕎麦と、隣で売っている豆腐もピュアな味がして美味しかった。
もうひとつ、黎明期の団地として紹介したいのが給水塔が有名な愛宕団地(1976年)だ。
1973年のオイルショック後、それまでの住宅不足も解消され、多摩ニュータウンの住宅もスタンダードな団地スタイルから、ライフスタイルを追求したものへと変化していく。専有面積も50平米から80平米など、ゆとりのあるものへと変わっていった。
◆ドラマのロケ地になったタウンハウス落合(1983年)
その一つが、テラスハウス・タウンハウスと呼ばれる庭付きの住宅だ。もはや団地らしさはまったくなく、一軒家に近い間取りである。
ここは不倫を描き社会現象になったという80年代の大ヒットドラマ、「金曜日の妻たちへ」の舞台となった場所でもある。
◆プロムナード多摩中央(1987年)
◆とにかく見た目の美しさにこだわった向陽台地区(1988年)
時代の変化に合わせ、車でも、歩きでも来やすいようにしたのが向陽台の特徴だ。
◆有名建築家が設計したベルコリーヌ南大沢(1989年)
もはや団地らしさは皆無、見た目のかっこよさでは一番好きな場所だ。
同じ建築家が設計しているため、町全体が同じ南欧風のトーンでまとまっているのだ。
◆まだまだある、個性的な街並みや公共建築など
このあたりの建築は、本当にまあお金がかかっている感じがすごいのだ。
住宅供給を目的とした新住宅市街地開発法だが、1986年に緩和され、やっと多摩ニュータウンにも商業施設・オフィス街を集積できるようになる。
念願だった職住近接を目指すため、多摩センター駅前に10棟以上の超高層ビルを建てるなどの計画もニュースになるが…ほどなくしてバブルは崩壊する。
その後、延期をかさねた多摩都市モノレールの開通を経て開発もひと段落し、2006年に多摩ニュータウンは一応の事業完了をみるのである。今の多摩センター駅も十分栄えてると思うのだが、バブルの夢が実現した姿も見てみたい気もする。
2006年以降も、多摩ニュータウンは民間による開発がすすめられている。
多摩ニュータウンは、地区の開発年代によって、モザイク状に高齢化がすすんでいると言われている。
そんな課題に対応するため、東京都整備局は令和元年に多摩ニュータウン地域再生ガイドラインを策定した。
2040年代を見据えた都市像をしめしたのだ。
その都市像としては、「緑豊かで高質な住環境のストックや大学の集積、周辺地域と交流・連携しやすい立地などを生かし、新たな価値を生む拠点として多様なイノベーションを創出するとともに豊かな暮らしを支える機能が集積された持続可能な都市」ということになるようだ。
これだけだとすこしふわっとした印象を受けるが、具体的には住宅やインフラのリニューアル、未利用地の有効活用、南尾根幹線道路の整備による交通・商業の促進ということになる。
バブルの頃と比べると、20年後の未来としてはあまりにも実直な目標が並んでいるように思えるが、それこそが大人になるということかもしれない。
そんな目標のひとつ、団地の建替えを一足先に実現したのが諏訪二丁目住宅である。
630戸の団地が、1249戸の高層住宅へと建替えられた。
半数近い新規住民の購入費用によって、既存住民は追加費用を出さずに建替えることができたそうだ。
しかし、それでも630戸の団地をまるごと建替えるのには大きな困難が伴ったという。
度重なる話し合いによる根気強い合意形成によって、多世代のコミュニティが生まれたのだ。バブルの頃のイケイケドンドンな開発とどちらが難しいかはわからないな、と思った。
永山三丁目団地と呼ばれる築3年の団地は、手前側に福祉施設が併設されている。
多摩ニュータウンで最初につくられた諏訪・永山地区では、順繰りに建て替え・転居が進んでいる。この真新しい団地をみて、昔の人がモダンな団地にあこがれた理由がわかったような気がした。
このような、豊富なストックを利用した持続可能な街づくりが今後の目標だそうだ。
一方で、未来の話題として多少キャッチーなものもある。
京王相模原線の終点である橋本駅に、リニアモーターカーの新駅ができるのだ。多摩ニュータウンの各街のパンフレットにも、リニアは希望として語られている。
多摩ニュータウンの西の端にあり、いまだ未利用地が多い多摩境。
「本当に住みやすい街大賞2022」でいきなり第三位になるなど、地味に今をときめく場所である。今後、リニアへのアクセスの良さを利用して、さらなる商業施設の集積が見込まれているらしい。
実は筆者はこの多摩境と橋本の間が地元なのだ。
ちょうど県境となっており、多摩ニュータウンではない相模原市側で育ったのではあるが、自分の生まれた1990年前後にできた街である多摩境や南大沢は同い年の街という印象がある。
なので、どうしても身内意識から辛口になってしまうのだが、この多摩境という場所は多摩ニュータウンバブル期の素敵イメージと、町田のロードサイドの実利的な雰囲気が、はずれの方で変に混ざった場所なのだ。
他にも、グランモンゼの丘やベルンの森など、そういう感じのネーミングが散見される。
そういう意味では、今後も発展を続ける住みやすい街なのは間違いないだろう。
ちなみに、橋本側の自分の肌感覚からすると、リニアはくるけどJRが商業施設を作ってくれるわけでもないらしいし、1時間に1本しかないらしいし、そんなに…って感じだったのだが、この記事を書いていくなかで、リニアってやっぱりすごいことなのかもしれないという気分になってきた。がんばれリニア。
縄文から弥生へ、農村地帯から南欧風の町並みへ。
街のイメージなんて、いくらでも変わっていくものだ。
多摩ニュータウンという巨大な街をひとつの記事にしたかったのだが、やはりどうしてもキャッチーな部分の切り貼りになってしまうものだなと思う。
そこらへん、部外者としてはいつも悩むところだ。
街の行く末を案ずるのは楽しいけれど、おそらくほとんどの街は自分よりも長生きするだろうと思う。
多摩ニュータウンの50年後を元気にみられるよう、健康に生きたいな、と思った。
参考図書:細野 助博 (著), 中庭 光彦 (著)『オーラル・ヒストリー多摩ニュータウン (中央大学政策文化総合研究所研究叢書) 』2010,中央大学出版部
上野 淳 (著), 松本 真澄 (著)『多摩ニュータウン物語―オールドタウンと呼ばせない』2012,鹿島出版会
福原 正弘 (著)『ニュータウンは今』1998,東京新聞出版局
パルテノン多摩(編)『多摩ニュータウン開発の軌跡 : 「巨大な実験都市」の誕生と変容』1998
横倉舜三(著)『多摩丘陵のあけぼの』1988,多摩ニュータウンタイムズ社
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