特集 2023年4月12日

たった1年だけ存在した北海道と青森県の県境へ〜北海道に県境を見に行く

北海道に県境があった

県境の話をすると、北海道の人に「北海道には県境が無いから……」というふうに言われることがしばしばあった。

いやいや、見方を変えれば、北海道にも県境ありますよ。ということを証明したく、北海道に見に行った。

鳥取県出身。東京都中央区在住。フリーライター(自称)。境界や境目がとてもきになる。尊敬する人はバッハ。(動画インタビュー)

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青函トンネルの県境

北海道の県境について話をする前に、まず、県境とはなにかという、県境の定義をしないといけないかもしれない。

ぼくのような、境界好きが県境、県境などと適当にほざいているわけだけれど、そもそも、国とかオフィシャルな機関が「県境とは……」みたいな県境の定義をしているわけではない。

自治体の境界は、各自治体が周りの自治体とそれぞれ話し合って決めており、その線がたまたま県と県の境目になっているところが「県境」とされている……という程度のものでしかない。

そしてこの境界は、基本的に陸上(川や湖といった内水面を含む)に引かれるものであり、海の上(や海底)には引かれない。(例外あり)

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海(中海)の上にある例外の県境

以上の定義を踏まえて、北海道の県境を検討すると、青函トンネルの中にあるといわれる「青函ずい道境界点」は、青森県と北海道の県境になるのではないかという気がする。

青函トンネルの中には、1988(昭和63)年に自治省が定めた、青函ずい道境界点という境界があり、実質的にはそこが北海道と青森県の県境のようなものになっている。

繰り返しになるが、基本的に、必要がない場合は海の上や海底に県境が引かれることはない。

しかし、海底トンネルや海上橋でつながった場合など、例外的に橋やトンネル内に管理境界が設けられ、そこを「県境」と呼ぶことがあるので、青函ずい道境界点も県境のひとつと言ってもいいかもしれない。

津軽海峡の真ん中あたりは、特別にどこの国にも属さない公海となっている。そのため、中国やロシアの船舶が航行しても問題はない。

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津軽海峡の公海(特定海域)(出典:国土交通省

どこの国の領海でもない公海の真下に、県境ともいえる境界を設定しているのは、日本では青函トンネルが初めての例であり、唯一の場所といえる。

青函トンネル内には、かつては海底駅が2つあり、一般向けの見学ツアーも度々開催されていたようだが、新幹線(と貨物列車)専用のトンネルとなって以降は立ち入ることができなくなった。そのため、現在、その境界を示すプレートを現地で拝むことは叶わない。

ただし、プレートのレプリカは、竜飛岬の青函トンネル資料館で見ることができる。

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北海道と青森県の「県境」は他にもあった

北海道と青森県の県境(にあたるずい道境界点)は青函トンネル内にあるということがわかった。これで「北海道に県境がない」というのが、大きな誤解であることは、わかってもらえたかもしれない。

しかしながら、こういう特殊な県境じゃなくて、土地の上にズバ−っと引かれている県境は、北海道にないだろうと強弁する強情な道産子もいるかもしれない。

確かに、いまはそういった県境はないかもしれないが、過去の歴史をひもとくと、その期間はわずか1年ほどだが、実は北海道内に青森県との県境があった時期がある。

明治4年に廃藩置県が行われた際に配置された県の地図をみて欲しい。

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吉田東伍『大日本読史地図』

渡島半島の左側に「青森ノ中」と書いてあるのが見えると思う。これが北海道の島内にあった青森県だ。

なお当時、北海道のほぼ全域を「開拓使」という政府の機関が司っていたので、正しくは開拓使と青森県の県境ということになるが、ややこしいので、適宜「北海道と青森県の県境」と言うことをお断りしておきたい。

この北海道の中にあった青森県は、1871(明治4)年7月に廃藩置県で誕生した館県と呼ばれる県が、同年9月に津軽海峡を挟んだ対岸で成立した弘前県(後の青森県)と合併して成立した。しかし、翌1872(明治5)年に開拓使(北海道)へ編入された。わずか、1年ほどのことだ。 

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北海道の青森県(地理院地図)

館県は、旧松前藩領であった北海道の檜山郡、爾志郡、津軽郡、福島郡をもって成立し、その4郡がそのまま北海道の青森県となった。ここで出てくる津軽郡は、北海道の渡島半島の中にある津軽郡のことだ、ややこしい。

津軽海峡に面している県境はどこにあったのか調べると、現在は知内町と木古内町の町境となっているところが、そうではないかと思われる。

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たった1年だけ存在した北海道と青森県の県境 

北海道と青森の県境だったところには、いったいなにがあるのか。行ってみた。 

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走行風景を録画していたカメラの位置がおかしくなっているのに気づかず、1時間ちかく空ばかりを写していた
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ただただ海が続く。感情のない顔をしているが、ワクワクしています

函館から西に向かって、津軽海峡を左手に国道228号をひたすら走ること約1時間。知内町と木古内町の境界となっている建有川にやってきた。

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建有川と津軽海峡

今は、知内町と木古内町の町境ではあるけれど、たぶんここが、北海道と青森県の県境(だったところ)だ。

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かつての青森県側(知内町)から、函館方面を望む

建有川付近は、見渡す限りの農地の中に民家がまばらに建っており、国道をビュンビュン走る車以外はひと気がない。潮騒と自動車の走行音しか聞こえず、ふしぎなほど静かだ。

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しつこいけれど、建有川と津軽海峡

建有川橋からすこし西に行ったところに、小さな駐車場があり、そこには建有川寨門跡という記念碑が建てられている。

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寨門とはなにか?

記念碑の能書きによると、1855(安政2)年、徳川幕府は、蝦夷地のうち、建有川から乙部にかけての地域を松前藩領として残し、ほかを幕府の所領として箱館奉行所の管轄とした。そのため、接点となったこの地に境界柱がたてられ、警備のための寨門がおかれた。とある。

1855年は、日露和親条約が締結された年でもある。蝦夷周辺に頻繁に出没するようになった外国船などに対し、幕府は蝦夷の警備と開拓を自ら直轄して行おうとしていた。そこで、今まで蝦夷を所領としてきた松前藩と、幕府直轄領の境界を建有川に定め、国境検問所を設けたということらしい。

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このあたりに幕府と松前藩の境界があった

その後、幕府は倒れ、版籍奉還やら廃藩置県やらの改革が行われ、そのなかで、松前藩の所領は館藩となった後に館県となり、青森県に1年だけ吸収合併され、そののち開拓使(北海道)の一部となった。

このあたりは、幕末頃は松前藩→館藩→館県→弘前県→青森県→開拓使という流れで所属がコロコロと変わっていった。松前藩が館藩となってから開拓使に入るまでおよそ3年ほどしかない。実に変化が目まぐるしい。

しかしなぜ、旧松前藩領であった館県は、廃藩置県で開拓使の中にすんなり入らなかったのか。

これには様々な理由があるようだが、その中のひとつとして、米作に頼らない西洋式農業により、北海道を開発しようとしていた開拓使に対し、松前藩はアイヌ交易とニシン漁に頼った藩経営を行っていたため、松前藩の存在は開拓使にとって負担になると考え、館県として独立させたのではないかという説がある。

当時はニシン漁の不振なども続き、松前藩の財政は行き詰まっていた。濫発した藩札により、藩の経済がガタガタになったうえ「庚午事件」(※)と呼ばれる抗議運動などが起きていたため、開拓使もすんなりと館県を編入するわけにもいかなかったのかもしれない。
※ 淡路島の「庚午事変」とは別の事件

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これが北海道か……

最終的に青森県に編入された館県だが、今よりも通信や交通の発達していない時代に、海を越えた土地の行政を行うのは、青森県だけでなく住民にとってもかなりの負担だったようだ。
その後、やはり開拓使が管理するほかないということになり、最終的に北海道の一部となった……というわけだ。

⏩ かつて北海道に2本の県境があった

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