たとえば谷中
ぼくは谷中という町が好きで、よく遊びに行く。具体的にどこが好きかというと、まず路地。
いいね!
いいでしょう
この井戸について26人がいいね!といっています
調べると、谷中や千駄木は空襲の被害を免れたそうだ。それで古い町並みが残っているらしい。
そういう話って、たとえば佃とか月島についても聞いたことがある。だからそういう場所が東京にいくつかあるのかなあと、なんとなく思っていた。
なんと被災地図があった
そんな折、先日行った地図展で、「戦災消失区域表示 帝都近傍図」という地図を見かけてしまったのです!
なんと!
このとき受けた衝撃はすごかった。まず、実際こんなに焼けたのか!という驚き。いまの東京でこの範囲の火事が起きたら、と思うと言葉が出ない。
そして、この地図が同時に「焼けなかった」範囲も示しているということ。いままで漠然と知っていたそれらの地域を一覧できるのだ。一体なんということでしょう!
その後、この地図がなんとか手に入らないかといくつかの書店に訊いてみたが、取扱いがないという。最後の砦、日本地図センターの「地図の店」でも訊いてみた。でもダメだった。
日本地図センターにないんじゃ、どこにもないんじゃないか・・。そう思いかけていたとき、江東区の「東京大空襲・戦災資料センター」にて、他ではもう売っていないという、より詳しい被災地図を特別に売ってもらえたのです!
じゃじゃーん!自慢
なかをちょっとだけ
いいでしょう。
これをもとに、焼け野原にならなかった東京をめぐるという本編がようやく始まるのです。
だけど、いまほとんどショックを受けながら告白すると、もともとの帝都近傍図がなんとネットで高精細で公開されていました。
国際日本文化研究センターの、
こちらのページです。たいへん貴重な地図なので、みんな穴が空くほど見ればいいと思います。
中央区 佃一丁目
最初に、佃へ行ってみた。
被災地図でも、佃や月島近辺はなぜかぽっかり空いているし、この付近に古い町並みが残るということをよく聞くので、一度行ってみたかったのだ。
アバウト被災地図。なんでか空いてる。
(ご注意:この地図は見えている範囲だけの、しかも不正確なものです。以下同様です。)
有楽町線の月島駅を降りて、佃方面へ。
地図を見ると家が細かく密集しているようだったので、駅前からいい感じの町並みなんだろうと思ったら、全然そんなことはなかった。
どーんとタワーマンション
道行く人に聞いてみたら、もっと隅田川沿いに行かないとダメだということだった。
この路地の向こうのほうが怪しい
これは!
進んでいくと、見るからに古そうな家が建っていた。近所の人によるとこの家は戦争の前からあるということで、つまり空襲を生き延びたのだ。
井戸もあった
周りを歩くと、木造の建物をいくつか見つけることができた。ただ、通りに集っているのではなくて、ポツンポツンと散らばっている感じだ。
左下に防火水槽が見える
景色になじむトタンの青
佃煮の名前のとおり、古くからここで佃煮をやっているお店があると聞いていたので、探してみた。
ちいさいおうち的なことになっている
あみの佃煮をいただきました
天安さんのように、屋根の張り出した立派な家の様式を出桁(だしげた)造りというらしい。江戸時代からの様式だそうで、だから佃には平成のタワーマンションから江戸の出桁造りまで、建物が地層のように重なっているのだ。
地層
地層の場合、古いものはいつまでも残るけど、建物はそうはいかない。非戦災地区にくれば一見して雰囲気が違うんだろうかと、のほほんと考えていたんだけど、そんな訳には行かないようだった。
墨田区 京島三丁目
東京スカイツリーのお膝元、曳舟駅周辺も戦火を逃れた町だ。
アバウト被災地図。
曳舟駅から小村井駅あたりまでがぽっかりと空いてる
3月10日の、一番大きな空襲は下町を狙ったものだった。だから下町がほとんど燃えてしまうなか、ここだけが助かったのは奇跡のように感じる。たぶん理由はなくて、ほんとうに偶然なんだろう。
さっきの佃や月島や築地に関しても、わざと標的から外したというような説もあるそうだけど、戦災資料センターの方によると、一概にどの説が正しいということはなかなかできないとのことだった。
とりあえず見上げちゃう
東京スカイツリー駅を降りて、京島二丁目方面へ歩いていく。
通り沿いには看板建築(昭和の始めに多く見られた)もあり、なかなかいい雰囲気だ。
和風建築を正面だけ洋風にした、看板建築。一番左側の側面に和風が覗く。
ネコはたくさんいた
「小村井駅に近い方がすごいよー」とアドバイス
もらった助言によると、通り沿いはもうほとんど開発されているらしい。また、京島二丁目よりは三丁目のほうがいいらしい。なので、三丁目の小さな路地をひたすら歩き回った。
だんだんいい感じになってくる
そしてこの通り!
ぼくはこれを見て「伝建(でんけん)か!」と思った。
説明しよう。伝統的建造物群保存地区(伝建)とは、まあ、古い町並みを残そうとする地区のことだ。たとえば川越の旧市街地は、伝建の一つ上の重伝建というやつに指定されている。そういう本気の町並みはどんな感じかというと、こんなだ。
川越重伝建、かっこいいじゃないか。はっきりいってしびれるぞ。
でも京島も負けてないと思うのだ。行け!京島重伝建。
ゴゴゴゴゴ・・・
まあ、川越と比較したのは若干うかつだったが、それほどまでに、この連続した町並みがうれしかったということなのだ。
実際、京島の町といえども、ふつうの道はふつうの町並みだ。
うん、ふつうだね
ここ入れるの?
古そうなお家発見!
こんなふうに、いい雰囲気の建物をたまに見かける。
このときは、嬉しさのあまりパシャパシャと写真を撮っていたら、「カメラマンだ!撮って!」といって少年たちがやってきた。
「カメラマンなの?」
彼らによると、この家はもう人が住んでいないそうだ。「もうすぐ壊しちゃうんだ」と言っていた。
なるほど。町並みもただ消え去るのみってことかね。
地元、巣鴨へ
最後に、地元を見てみたいと思った。
ぼくの場合、住んでいる巣鴨駅の周辺は焼けてしまっていて、最寄りの非被災地区は、いまでいう千石のあたりだった。
たいへんふつうの町であります
まったくもって、いつもどおりの千石だ。「戦災をくぐり抜けた」という感じはない。
近くにいた年配の方に話を訊いてみた。
当時は20代だったかしらね
3月10日の当日は、確かにこのあたりに被害はなかったという。
「でも空から焼夷弾がふってくるのが見えたから、慌てて東大植物園のほうに逃げましたよ」
いわれてみるまでもなく、空から弾が降ってきて家が燃えるなんて、非日常にもほどがある。地図によると植物園は無事だったから、この方の選択は正しかったことになる。
ぼくだったらどうしただろう、とか考えると急に実感がわいてくる。
みんな落ち着いてたよ
当時は中学2年生だったそうだ。
燃えてるのは遠くのほうだったから、みんな落ち着いてたとのこと。胆がすわってるなあ。
当時から残っているような建物を訊いたところ、お米屋さんを教えてくれた。
伊勢五さん
江戸時代から続いているというお米屋さん。
明治前期の建築で、なんと国の文化財に指定されているそうだ。たしかに、ここらへんたまに古い家があるなあとは思っていたけど、そういうことだったのか。
「あっちもそうだよ」と、もういくつかの建物を教えてくれた。
いまは一階はおしゃれな雑貨屋になっている
こちらは住居
いずれも当時から残っているそうだ。言われなきゃ分からない。でもやっぱり残ってるものなんだなと思った。
雰囲気は消えつつある。でも、ある。
非被災地区は、そうと知って歩き回らない限り、それらしい雰囲気はあまりない。
でも、ポツンポツンと、当時の面影を残した場所なり建物なりがある。そして人もいる。
残っている間は見てみたいけど、もうすぐなくなる予感もびしびしとあります。