千代田区三崎町
個人的な話になるが、以前、自分が出したゴミがどういう経路で運ばれていくのが気になって、ゴミ収集の作業の人に聞いてみたことがある。
答えは「いったんミサキに集めるんだよ」だった。
「ミサキに集めるんだよ」
ミサキっていうから海辺の岬に持っていくのかなと思ったら、そうじゃなくて千代田区の水道橋駅の近くにある三崎町っていうところにあるゴミ処理施設に運ぶという話だった。そこから船で神田川を通ってお台場までもって行くんだそうだ。
こうやって船で運ぶんだねえ
ここで集めてるのは主に千代田区の燃えないゴミ
このときは、水道橋にそういう町があるんだ、岬じゃないんだとだけ思っていた。
なんと岬でした
ところが最近、通勤途中にある町名由来板を見てびっくりした。
『三崎村は、日比谷入江に突き出した「ミサキ(岬)」だったため、この名が付いたと伝わっています』とかろやかに書いてあるのだ。なに、やっぱり岬だったの!?
三崎町の町名由来板ガイド
ここで一回地図を見てみよう。三崎町は水道橋の近くだ。こんなところまで海だったとはとうてい信じられない。
次に地形図を見てみる。これは土地の高さに応じて色を塗り分けた地図だ。
陰影段彩図。日本地図センター発行の1:25000デジタル標高地形図より
話が急に飛ぶが、大昔(六千年くらい前)はこのあたりの海が2~3メートルほど高かったらしい。そこで、ためしに海を3メートルほど高くしてみよう。この図だと、ごく薄い緑になっているところを海の色に塗ってみる。
おっ!海辺になったよ
なるほど。
ただし上の図は、大昔の海岸線がこうだったというわけでは全然ないですのでご注意を。現在の地形図を目で見て、色の薄いところをえいやっと塗ったらこうなったという遊びです。でも少なくとも三崎町は岬っぽいところだったのかもしれないなという気はする。
実際、江戸時代の前までは日比谷までまだ入り江だったし、神田川はなんと日比谷に注いでたので、神保町のあたりは神田川流域の湿地のまま、三崎町はそこに突き出た岬になっていたのかもしれない。
この町がねえ
今では信じられないけど、ここがかつて海沿いだったらしいっていうことを、町の名前が教えてくれているのだ。
川はないのに橋はある
こういうふうに、地名からその土地の過去が分かる例はけっこうある。
その中でも外せないのは、川がないのになんとか橋という名前だけ残ってるパターンだろう。
これは大阪の地図。真ん中の「心斎橋」をはじめ、「四ツ橋」「西大橋」「長堀橋」と橋のつく駅が並んでいる。でも辺りには橋もなければ川もない。
こんな場所があったら、そこはもう間違いなく川跡だ。しかも、橋の並びを見るとかつての川筋もおぼろげに浮かびあがってくる。
ここを流れていたのは、長堀川という運河だった。大阪も江戸と同じく運河の町で、もうあちらこちらに堀があった。いまでも道頓堀川が残っていて、周辺は繁華街として有名だ。長堀川は昭和40年ごろに埋め立てられた
南北に走る阪神高速道路の下も西横堀川という川だった。ここが怪しい!とピンと来た人は免許皆伝であります。東京でも
中央区で頻出のパターンだよね。
新橋にも川はなし
東京の例として新橋をとり上げよう。
東京駅から新橋駅まで外堀通り沿いを歩くと、鍛冶橋、数寄屋橋、土橋をへて新橋にいたる。でもどこを見ても川もないしそれらしい橋もない。
鍛冶橋(橋なし)
数寄屋橋(川なし)
土橋(この首都高が土橋?)
新橋(川なし)
おぼろげに見えてくる通り、そして「外堀通り」という名前が示すとおり、ここは昔は「外濠川」という運河で、江戸城の外濠の一部だった。江戸も運河の町で、いまの中央区から江東区にかけて運河だらけだった。
なんと東京駅の前が川だったとは!
初めて知ったときはもう驚いてなんとか痕跡がないかと探したんだけど、いままで見つけたことはない。なにせ完全に埋め立てちゃったからねえ。
鍛冶橋には由来の説明板が立ってました。
新宿にも築地があった
新宿区の、神楽坂のちょっと北に「築地町」という町がある。
こういう町です
ここは、市場で有名な築地とは直接は関係ない。でも間接的に関係がある。土地の成り立ちが一緒なのだ。
ここは昔は沼地だった。でも江戸に人が増えると、沼地にも町家を建てなきゃいけない。だから土で埋めて土地を築いたというので「築地町」となった。
こちらは市場や本願寺のあるほうの築地
市場のほうの築地も事情は同じだ。
もともとこのあたりは海だった。江戸初期に起きた大きな火事のせいで、浅草にあった本願寺も焼けてしまった。でも区画整理のために再建ができなかった。そこで門徒たちががんばって佃島の先に土地を築き、築地本願寺を作ったのだ。すごいとしかいいようがない。
この築地本願寺のためにがんばった
ちなみにもんじゃ焼きの「月島」も成り立ちとしては同じで、「築き島」だったのがあとで字を変えたのだった。
「宮の前」は神社の前
宮前っていう町も各地にある。東京だと都電に「宮ノ前駅」があるし、杉並区に宮前っていう町がある。これは神社のお宮の前っていうことなので、この町の近くには神社がある。
それでこの前はっとしたのは、本郷の東大正門ちかくの「宮前」だ。
東大の正門前から続く道に
八百屋の「宮前商事」
その先には謎のスペースと「宮前青果店」
この謎のスペースは、かつてここにあった映世(えいせい)神社の跡だ。以前ここを訪れたときに、どこかに
神社の痕跡がないかなと探したんだけど、「宮前」の名前そのものが、ここに神社があったことの証拠なんだってことに気がついてはっとした。
最近取り壊された
残念ながら宮前青果店は、つい最近取り壊されてしまった。空いた土地は建て売りになるという。
でもこの謎のぽっかりスペースは残るようだ。「宮前商店」や「宮前通り商栄会」の名前とともに残ってほしいと思う。
木更津や沼津の「津」って何?
町の名前に「津」がつくところもよくある。焼津、大津、木更津、沼津に唐津。三重の津市もそうだ。
その意味をさぐる前に、それらを地図上に配置してみると面白い。
なんと全部海岸線沿いにある。
それもそのはずで、津は「港」っていう意味だからだ。ちなみに「津波」は、沖にいる船には被害がないのに港では被害が大きい波という意味だ。
松戸や水戸の「戸」って何?
亀戸に登戸、松戸に水戸、江戸みたいに、「戸」がつく場合も多い。
「戸」がつくから全部同じ由来っていうわけじゃないけど、多くは「入口」という意味で、水辺の場合には「入り江」という意味だったりもするそうだ。
でも、松戸も水戸も海から遠くはなれて全然入り江じゃない。
松戸の語源についてはいろんな説があって、どうも入口という意味じゃないっぽい。
でもぼくは地形大好きなので、松戸に関してちょっと面白いことを紹介したいと思う。
松戸と上野の位置関係
これは土地の高さを色で塗り分けたもので、赤いところが高い。なんだか松戸と上野の間が青く(低く)なってる。
だから縄文時代とかには、海はこんなだったはずだ。
松戸が海辺になって上野の対岸に!
まさか6000年前に地名がつけられたはずもなく、渡し船を「待つ里」から「まつど」に転じたという説が有力そうに感じるのだが、かつては上野の対岸に松戸があって海の入口だったと想像するとなんだか楽しい。
由来はたのしい
どんな町の名前もかならずその町の背景を反映している。なので調べてみると面白い。
大塚って大きな塚があったのか、とか、大久保って大きく窪んでるってことか、とか。いままで考えなかった意味に気づくのって楽しいと思う。