塩漬けしていたネタを出した
お気づきの方もいるかも知れないが、このネタ、2011年に取材したものである。なんとなーく記事にしそびれたまま8年経った。8年越しでついに記事化できた。
今、実際に行くと変わっているところがあるかもしれない、その点ご了解いただきたい。
参考資料
『角川日本地名大辞典 26 京都府』(角川書店)
『日本歴史地名大系 京都府の地名』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
京都市伏見区といえば、日本酒の酒蔵や、伏見稲荷大社などで有名な町だけれど、我々のような地名好きにとってたまらない町でもある。
「武蔵」「長門」といった、旧国名のついた町名がたくさんあるのだ。
伏見区を一日中ぶらぶらして旧国名の地名を集めたら、天下統一できるかもしれない。
伏見にやってきた。
伏見桃山駅を出ると、アーケードの商店街がまっすぐ続いている。
日本各地には、もはや息も絶え絶えといったアーケード商店街がたくさんあるなか、それなりの賑わいが感じられる。
今回は、旧国名の町名を探すのが目的だ。
街角にある住居表示の看板や街の掲示板など、旧国名の町名が書いてあるものを発見すれば、その国を盗ったということにして、最終的に、どこまで国盗りできるのか……というのが今回のさんぽの目的である。
そうこうするうちにさっそく町名を発見。
「東大手町」これは、残念ながら旧国名ではない。が、伏見に城があったことを伝える、貴重な地名のひとつでもある。
伏見に城を築いたのは豊臣秀吉である。百姓の身分から身を起こし、草履を懐に入れたり、城を水攻めしたりして、うっかり死んだ主人の仇を討って、なんやかんやあったのち、関白の地位にまでのぼりつめ、その位を養子の秀次に譲り、隠居後の屋敷として整備したのが伏見城である。
このアーケード商店街は大手筋という道であり、南北に走る京阪電車の線路と直交するように東西に伸びている。かつては、秀吉の築城した伏見城の大手門に続いていたため、大手筋と呼ばれるようになったようだ。
大手筋を曲がると、最初の旧国名を発見。
伯耆町、伯耆(ほうき)国だ。現在の鳥取県の西半分である。
伏見城があった頃は、杉原伯耆守(ほうきのかみ)長房の屋敷があり、さらに青山伯耆守の屋敷もあったため、伯耆町と名付けられたらしい。
杉原長房は、秀吉の妻、北政所(おね)のいとこで、関ケ原では西軍に属するも東軍に内通し所領を安堵され、後に豊岡藩(兵庫県豊岡市)の初代藩主になった人だ。親戚(秀吉)の出世のついでに出世して、大名になったような人である。
青山伯耆守は、青山忠俊のことだ。名前だけきいても誰それ? といったところだが、忠俊の父(忠成)は家康の側近で、家康が江戸に移封されたさい、家康に「馬でひと回りしてきたところの土地をやろう」と言われ、原宿から赤坂にかけての広大な土地をもらった逸話で有名である。つまり、東京の「青山」の地名の由来のひとだ。
鳥取県と、東京の青山は、ルーツが一緒と考えてもさしつかえないだろう。
続いて発見したのは村上町である。
村上町は、残念ながら旧国名……ではない。
この町名は、村上周防守(すおうのかみ)の屋敷があったため、この名がついたという。町名に周防(山口県の東半分)が入っていればカウントしたのだが。
なお、この村上町の隣に周防町というのがあるはずなのだが、残念ながら「周防町」という住居表示を発見することができなかった。
村上周防守は、村上頼勝のことだ。頼勝は1589年、越後本庄に移封され、村上藩を立藩した。現在の新潟県村上市である。現在は鮭で有名な村上市である。数年前、取材したことを思い出した。
ところで、さきほどから、伯耆守とか、周防守とかいうくせに、実際の所領は豊岡だとか、越後村上でぜんぜんちがうじゃないか、どうしてくれるんだこの野郎、という疑問をお持ちの方も多いかもしれない。なぜか。
律令時代は、国司(県知事みたいな役職)に任じられると「伯耆守」だとか「周防守」の官職を朝廷から賜ってその任地に赴き、国司を務めた。今でいうと、政府が官僚の中から県知事を選んで派遣するようなものだ。
時代が下って、鎌倉時代になると、各地方を武士が治めるようになり、国司は有名無実化したが、国司の名称自体は、称号として盛んに用いられることになった。
さらに、室町時代ぐらいになってくると、朝廷から正式に賜るもの以外に、かってに名乗るのもアリということになってくる。これを「武家官位」という。
アメリカでは法的な裏付けがあるCEOとかCOOみたいな役職名を、法的な裏付けがない日本の会社が、かっこいいからマネして名乗るのと似ている。
秀吉の筑前守(ちくぜんのかみ)や明智光秀の日向守(ひゅうがのかみ)は、九州を平定したあかつきには、お前らにそこを所領としてくれてやるという意味で、織田信長が勝手にやったものだ。(筑前=福岡県北部、日向=宮崎県)
そのため、実際に治めた土地と、名乗っていた地名が違うというのはよくあることである。
うっかり長くなってしまった。国盗りとしてはまだ伯耆国しか盗ってない。
本来ならば、酒蔵めぐりみたいなことを、してみたいきもするが、今回の目的は旧国名集めである。国盗り最優先で事にあたっていきたい。
隣の町に歩を進める。
阿波橋町が出現した。阿波(徳島県)旧国名だ。
阿波橋町は、もともと蜂須賀阿波守の屋敷があったことからついた。
蜂須賀阿波守は初代徳島藩主、蜂須賀家政のことで、蜂須賀小六と呼ばれた蜂須賀正勝の息子だ。
蜂須賀正勝は、野盗から、秀吉につきしたがい出世して阿波一国を手に入れた(藩主になったのは息子の家政から)という話が有名だが、蜂須賀家は尾張と美濃を結ぶ流通路などを抑えた土豪のひとつだった……というのが、実際のところではないか。
野盗まがいのこともたしかにしたかもしれないが、幕府の統治が機能せず、移動や物流が今よりはるかに困難な時代にあっては仕方のなかったことかもしれない。
蜂須賀家政は、阿波18万石の大名になったが、官位も阿波守で、所領と官位が一致している。この官位は勝手に名乗ったものではなく、朝廷から正式に叙任されたものかもしれない。(調べてないので間違っているかもしれません)
さて、この記事はすでに2500文字を超えている。これ以上ダラダラ続けていても仕方ないので、発見した旧国名をいっきにみてみたい。
町名は細川越中守の屋敷があったことにちなむ。官名ではなく、所領の肥後国(熊本県)の方が由来になっている。細川越中守は、細川忠興のことだ。細川ガラシャの夫で、細川護熙元総理のご先祖さまである。
資料によると、丹波橋町は、桑山丹波守の屋敷の近くにあった橋を丹波橋と呼んだのが町名の由来のようだが、桑山丹波守という人物が誰なのか、詳細はよくわからなかった。
なお、この丹波橋町は、京阪と近鉄の丹波橋駅からは500メートルほど離れている。台東区秋葉原が、秋葉原駅からちょっと離れているのに似ている。
加賀屋町、前田中納言の屋敷があったので、加賀(石川県南部)。加賀前田家だ。
越前町、近くに越前橋があるのは確認したものの、町名の由来についてはよくわからなかった。なお、越前は現在の福井県東部。「嶺北」と呼ばれる地域のことだ。
大和町も、資料をみてみたものの、家にある資料をざっと読んだだけでは、由来がはっきりしない。大和街道が関係しているのかな、と思ったが、大和街道とされる京町通りからはずいぶん離れている。
伏見城の城下町でも、わりと周縁部の方をグルグル歩いたので、かなりヘトヘトになってしまった。
昼前にスタートし、濠川の橋の上でたそがれているときですでに3時過ぎである。これだけ歩いて、7カ国。かなり効率がわるい。
もうちょっと旧町名を冠した町が集中しているところに向かうことにしたい。
かつて、伏見城があった桃山丘陵のある方面にむかう。町名に「桃山」がつくのは、旧堀内村の町名である。このあたりの町名は、かつての大名屋敷にちなんで、明治22年に命名された比較的新しい町名だ。
惜しい、旧国名でない。井伊掃部(かもん)東町。井伊家といえば、一昨年の大河ドラマ、『おんな城主直虎』の井伊家だが、彦根藩の大名であった井伊家の当主が掃部頭(かもんのかみ)を名乗り始めたのは、二代目藩主の井伊直孝以降である。なお、掃部頭とは、殿中の掃除担当の役職である。
ちなみに、世田谷にある豪徳寺は招き猫発祥の寺として有名だが、これは直孝のエピソードであり、彦根のゆるキャラが『ひこにゃん』であるのも、井伊直孝のおかげである。
桃山長岡越中南町。この長岡越中というのは、細川忠興のことである。さきほど、肥後町で出てきた人物だが、再登場である。なぜ、細川なのに長岡なのか。
実は、細川忠興は、父の細川藤孝が、信長から山城国の長岡(現在の長岡京市周辺)あたりの所領を与えられたため、一時期、長岡と姓を改めていたことがある。そのため、こんな地名となっているらしい。
筒井伊賀。「洞ヶ峠を決め込む」ということわざのゆらいとなった筒井順慶……ではなく、その従兄弟、筒井定次のことらしい。
筒井定次は、関が原で東軍に与し、戦後は伊賀一国の国持大名となって、伊賀守にも叙任されたが、キリスト教の洗礼を受けていたことや、豊臣恩顧の大名でかつ、大坂に近い所領を持っていたことが徳川方に危険視され、なんやかんや(筒井騒動)があってお家おとりつぶしと相成り、ついには切腹することになってしまった。
毛利長門。もう、これは説明不要だろう。毛利輝元である。毛利元就の孫である。さっさと次にいきたい。
松平筑前という名称からは全く連想できないが、前田利常のことだ。加賀前田藩の藩祖、前田利家の子で、二代目藩主である。利常は、徳川秀忠の娘を正室に迎えたため、外様大名でありながら、徳川家の親戚、御家門と同様の扱いを受けることになり、松平の名乗りを許されたため、松平筑前と呼ばれるようになった。ややこしい。
前田家は、加賀百万石と言われるほどの大きな国力をもっていたため、徳川家から常に疑いの目を向けられていた。しかし、前田利常は、わざと鼻毛を伸ばしてアホを装い、謀反の心がないということを示したという。
三河。これも説明不要だろう、この町名の由来は徳川家康である。もちろん、家康は最終的には征夷大将軍に任ぜられるわけだが、三河守でもあった。
家康は1566年に三河守に叙任されているが、この前後に姓を松平から「徳川」に改めている。このさい、家系図をごまかして三河守を叙任している。
松平武蔵。これは、あの姫路城を築城した池田輝政の長男で姫路藩の二代目藩主の池田利隆だ。利隆も、前田利常と同じく外様大名でありながら、徳川秀忠の養女を正室に迎え、松平の名乗りを許された人である。そのため、松平武蔵と呼ばれた。
板倉周防。ここの町名は板倉重宗が元になっている。重宗よりも父の板倉勝重や、幕末に活躍した板倉勝静の方が有名かもしれないが、どっちにしろ地味である。
本多上野。本多正純である。家康の腹心で、智謀に長けたイメージがある武将だ。
官位は上野介(こうずけのすけ)。上野守ではないところがポイントである。これは「親王任国」というルールである。
大国の上野国(群馬県)、上総国(千葉県中部)、常陸国(茨城県)の三カ国は、国司である「守(かみ)」は親王(天皇の男の子供)が務めることになっているため実質的な長官は、ナンバー2の「介(すけ)」である。
史上最も有名な上野介は、江戸城の廊下で斬りつけられて、寝込みを襲われてしまう吉良義央さんだろう。
桃山町美濃。住居表示看板がなかなか見つからず、個人宅の表札で申し訳ないが、美濃である。これは、本多忠勝の息子、本多忠政のことだ。
家康の家臣には、本多正信、正純親子の本多と、本多忠勝、忠政親子の本多があり、親戚というわけでもない。たんに三河地方に多い名字ということらしい。堂本光一と堂本剛が、たまたま名字が同じだっただけというのと同じである。
桃山町丹後。西尾丹後守忠永という武将が由来らしい。西尾さんについて語れるほどのウンチクが、ぼくにはないのでスルーしておきたい。
さて、このへんでいったん地図をまとめてみたい。
一気に増えて17カ国。
しかし、すでに、4時間以上歩きっぱなしである。このあたりで一気にラストスパートをかけたい。
橋に出た。
かつては、巨椋池という巨大な池に続く橋だ。観月橋ともいうらしいが、正式名称は豊後橋というらしい。
豊後橋。大友豊後守義統の屋敷が近くにあったからこの名称と言われている。大友義統(よしむね)は大友宗麟の息子である。(豊後=現在の大分県)
大友氏は、九州の戦国大名の中では、早い段階で秀吉の軍門に降った大名だったが、義統が朝鮮出兵のさいに下手をこいてしまい、秀吉に激怒され、所領をまるごと取り上げられるというひどい仕打ちを受ける。
義統はその後、関ケ原の合戦で汚名返上とお家の再興を賭けて西軍に味方し、毛利輝元の力を借り、元の所領であった豊後国を侵攻する。しかし、最初の勢いはよかったものの、関ケ原の結果は御存知のとおり東軍の勝利で、さらに義統は城を奪還しにきた東軍の軍勢に破れ、降伏し、流刑に処される。
やることなすことすべてが裏目にでてしまう、気の毒な戦国大名である。
そんなことを考えつつ、観月橋駅から電車に乗る。
駅を降りて発見したのは、桃山町和泉だ。
ここの和泉(いずみ、現在の大阪府南部)は、藤堂和泉守高虎のことらしい。
藤堂高虎は当初、浅井長政に仕えていたものの、なんやかんやあって、織田家の家臣、秀吉の家臣と渡り歩き、7人も主人を変えたということで有名だ。今でも、7回も転職するひとって、けっこう珍しいと思うが、戦国時代である。
豊臣恩顧の大名でありながら、秀吉が亡くなると豊臣家にさっさと見切りをつけ、率先して徳川方と通じ、関ケ原の合戦後は伊賀一国をもらうという、大友義統とは真逆の世渡りの上手さである。
さて、もう日も沈みかけてきた。いよいよ最後の国だ。
桃山町因幡。これは、本多因幡守政武というひとが由来らしい。徳川の家臣である本多忠勝や本多正信といった人たちとは違い、秀吉の家臣だった人だが、あまり詳しくは知らないので、スルーしておきたい。もうしわけない。
すでに日も落ちつつある夕方である。昼前から歩きっぱなしなので、6時間以上ブラブラあるいている。さすがのタモリも6時間ぶっ通しであるくと死ぬかもしれない。ぼくはまだ若いので大丈夫だったが。
目的の国盗りはどうなったか、最終的な結果をごらんいただきたい。
上野、武蔵、越中、加賀、越前、美濃、三河、丹後、丹波、伊賀、大和、和泉、伯耆、因幡、阿波、周防、長門、越前、豊後、肥後。以上、20カ国。
おそらく、ほかにも、日向、出雲、石見あたりの町名があったはずだが、今回は回れなかった。伏見区は広大だわ。
信長も、本能寺直前のころの勢力範囲はおそらく20カ国程度だったのではないだろうか。これだけ国盗りすれば、ほぼ天下統一できたも同然だろう。
満足である。
お気づきの方もいるかも知れないが、このネタ、2011年に取材したものである。なんとなーく記事にしそびれたまま8年経った。8年越しでついに記事化できた。
今、実際に行くと変わっているところがあるかもしれない、その点ご了解いただきたい。
参考資料
『角川日本地名大辞典 26 京都府』(角川書店)
『日本歴史地名大系 京都府の地名』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
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