江戸城とは?
江戸城は、現在、天皇の住まいとなっているため、皇居とも呼ばれるが、江戸時代までは徳川家の居城であり、江戸幕府の本拠地だった。
ふつう、テレビなどのメディアで紹介されるばあい、皇居前広場から伏見櫓をのぞむ下の写真のような風景をさして「江戸城(皇居)二重橋前」とされることが多い。
しかし、上の写真にうつっている手前の橋は、厳密にいうと『二重橋』ではない。ただしくは『正門石橋』と呼ばれる橋であり、真の『二重橋』はこの位置からだと正門石橋の奥に隠れてほとんど見えていない。
江戸城は、現在、多くの部分が立入禁止になっており『正門石橋』より先も、許可がないと立ち入ることはできない。
しかし、江戸時代に天守閣や、大奥などの御殿があった本丸にあたる東御苑は、なかに入って見学することができる。
東御苑のだいたいの範囲(立ち入り禁止の場所もあります)
今回、石垣を鑑賞するにあたり、お城マニアでライターのいなもとかおりさんと一緒に、東御苑などをめぐりつつ、江戸城の石垣のすごさについて話をきいてみたい。
実は石垣鑑賞にうってつけの江戸城
西村:江戸城、東京に住んでいてもなかなか「行こうか」ということにならないですし、ましてや石垣に注目して見てみようかという気にはそうならないですよね。
古賀:私は子供の頃に行ったことがなければ……東御苑に入るのは初めてかもしれないです。
いなもとさん(以下敬称略):そうですよね。でも、石垣を見るには、江戸城はうってつけなんです。江戸城は、幕府の威信をかけてつくられた城なので、石垣も他の城に比べると格段に立派なものが多いんですよ。
西村:東京近辺でこれほど石垣を見られる城って、江戸城ぐらいですか?
いなもと:そうですね、これほど立派なのは江戸城ぐらいです。全国的にみても江戸城レベルの石垣は、大坂城や名古屋城みたいな徳川家の重要な拠点だった城ぐらいです。
石垣鑑賞、3つのポイント
いなもとさんによると、江戸城の石垣の注目ポイントは「刻印」「矢穴」「化粧」の3つがあるという。いったいどういうことか。ひとつずつ見ていきたい。
刻印とは、石垣の石に刻印されている印だ。
江戸城の石垣の石をよく見てみると、まれに何らかの模様やマークが彫られた石がみつかることがある。これは、この石を切り出した丁場(石を切り出す現場)を担当した大名、あるいはこの石を運んだ大名を示す刻印だ。
徳川家康が征夷大将軍となり、天下を取ったあと、徳川家は諸大名を動員し、江戸城や大坂城など徳川家の主要な城の整備にとりかかった。これを「天下普請」というが、その普請で全国の大名が工事を分担し石垣を築いたため、江戸城や大坂城などの石垣にはよく見られる。
西村:これ、この印はその大名家の家紋だったりするんですか?
いなもと:そうとは限らないです。家紋とは全く関係ない印であることも多いですし、さらに同じ大名家でも、何種類か印があったりします。おそらく、石工のグループごとに印があったんだと思います。
西村:なるほど、どの印がどの大名の印かの一覧表がほしいですね……。
いなもと:『皇居と江戸城重ね絵図』(木下栄三・2012・エク−)というマップがあるんですが、それに印と大名がけっこう詳しくかいてあります。
『皇居と江戸城重ね絵図』に載っている印と、江戸城で見つかった石垣の印をいくつか照合してみたい。
西村:しかし、わざわざ石に印をつける必要あったんですかね。丁場や現場の担当って決まってたわけですよね?
いなもと:江戸城の石は、伊豆あたりとか、遠くは瀬戸内海のへんからわざわざ持ってきたりするんですけど、もちろん、石ですから持ってくるのが大変なんです。で、苦労して持って来た石を、盗まれたりすることがあったらしいんです、それで、印をつけたりするようになったらしいですね。あとは、石を運ぶ過程で他の班と混ざらないように、採石場(石丁場という)で刻んだりもしたようです。
西村:石を盗むやつがいるのか……。治安の悪さ……。
続いての鑑賞ポイントは矢穴。
矢穴とは、大きな石を小さく分割するさい、石に小さな穴を点線のように入れ、楔(くさび)を打ち込んで石を割るための穴だ。
古賀:あそこに点々の入った石がありますね。
いなもと:矢穴あとですね。
古賀:あの石、割ろうとしてたんだ。
いなもと:あそこは割れなくて「あ、割れなかった」って「そのままつかっちまおうぜ」ってことでつかってるんでしょうね。
西村:まわりのきれいな石の中に突然、矢穴の点線が入った石があるのも、それはそれでおもしろいですね。むしろ、見せるぐらいの気持ちで使ってるのかも。
いなもと:城にもよるんですけど、矢穴で割ると歯型がつくじゃないですか。そういう石は角をわざわざ削ったり、裏側にしたりして、見えないようにしてるところもあるみたいですね。
西村:わざと残したり、隠したり、職人の美的センスが問われる感じですね。
いなもと:また、1個だけ残ってるところもあるんですよ。
古賀:あ、ほんとだ。
いなもと:おそらく、ここじゃうまく割れないから、横にすこしだけズラして割ったんでしょうね。
西村:400年以上前の職人の試行錯誤の痕跡ですよねこれは。それが石垣にはそのまんま残っている。クラクラするぐらい気が遠くなるのと同時に、ワクワクもしますね。
最後のポイントは「化粧」。
化粧とは、石垣の表面に施された模様のことだ。まずはこちらの写真を見てほしい。
いなもと:細かい縦線が入ってる見えますよね。あれ石垣のお化粧です。
古賀:加工なんですね?
いなもと:そうです。石を積むだけじゃ飽きたらず、石垣をさらに美しく見せるために、こんな加工をしたんです。
古賀:色気を出したということですか。
いなもと:おっしゃるとおり、女性がお化粧をする感覚といっしょです。すこしでも美しく見てほしいという。
西村:これ、だれが考え出したんだろう……実用的な目的は無いんですか? 水が流れやすいとか?
いなもと:ないです。純粋に美しく見せたいというだけですね。
西村:こういった化粧をした石を石垣に使っているようなお城というのは江戸城以外にあるんですか?
いなもと:所々あるんですが、やっぱり大坂城、名古屋城、駿府城とか、徳川家由来のおおきなお城だとこういった化粧が施された石が使われていますね。
化粧には、上記写真のような細い線が刻み込まれた「すだれ仕上げ」以外に、小さなドットをびっしりと打ち込んだ「はつり仕上げ」というものもある。
これらの模様はノミをつかって細かく模様をつけていく。
江戸城、東御苑の見どころを紹介したい
さて、さきに挙げた石垣の注目ポイントをふまえたうえで、見学できる江戸城こと皇居東御苑の鑑賞ポイントを、石垣に注目して見ていきたいとおもう。
まずは、江戸城の正門ともいえる大手門にむかう。
江戸城の大手門は、いわゆる「枡形」という構造になっている。江戸城に限らず、世の中にある城の門は、このような構造になっているところが非常に多い。
桝形とは、外部とつながっている門から侵入してきた敵を、いちど折れさせ、もういちど門をくぐらすための四角い桝形のゾーンのことだ。
いなもと:桝形にすることによって、キルゾーンが増えるわけです。枡の中に敵を集約させて集中攻撃して倒しやすくるわけです。
西村:キルゾーン! ところで、普通の城だと、丸とか三角の穴が壁にあいてて、そこから敵を狙って攻撃すると思うんですけど、江戸城の大手門の桝形にはそういう穴がないんですね。
いなもと:実は、江戸城は特別なんです。大坂城もなんですが、本当は四角とか丸とか三角の「狭間(さま)」っていう穴が壁に空いてて、そこから弓矢で狙ったり、鉄砲で狙撃したりするわけですが、江戸城の場合は、石垣に穴があいてるんです。
古賀:えっ!
西村:あのちっちゃい穴がそうですか? すげえ!
西村:じゃあ、この壁の写真だけを見れば「あ、これは江戸城か大坂城だな」というのがわかるということですか?
いなもと:そうですね、だいたい江戸城かな、というのは予想できますね。
西村:へー。
いなもと:ところで、江戸城は「天下普請」で、諸大名に普請を分担させているんですが、この大手門はだれが担当したか、わかります? 眼帯で有名な……。
古賀:伊達政宗(1567-1636、仙台藩初代藩主)ですか?
いなもと:そうです、伊達政宗です。ということは、この石垣は伊達政宗の作品ということになるわけですね。
西村:ビッグネーム出てきた!
いなもと:江戸城全体の縄張り(設計のこと)は、藤堂高虎(とうどうたかとら・1556-1630、伊勢津藩初代藩主)がやっていて、この門の担当は伊達政宗さん、なんですが、建物(櫓門)は戦災で焼けてしまったので、戦後の復元です。でも、この石垣は当時のままの石垣ですね。
西村:建物は燃えちゃうんですが、石垣は残りますからね。
いなもと:これ、おもしろいんですけど、大手門は玄関口なので、われわれの住宅もけっこう玄関はきれいにするじゃないですか。で、こういうことしてくるんです。
いなもと:わざと三角形の細長い石を差し込んだりして、おしゃれにしてるんです。
古賀:これ、わざとなんですか? やむを得なくじゃなくて?
西村:石を切って形を合わせて入れてるわけだから、わざとかもしれないですよね。
古賀:そうか、わざとか。でも、気持ちいですよね、ピタッとはまってるから。
西村:あと、思ったんですけど、石一個ずつデカいですよね。
いなもと:そうなんです。デカいのも理由があって、ふつうのお城は、門の石垣に「鏡石(かがみいし)」というデカめの石を置くことがあるんですよ、ちっちゃい小ぶりの石の中に単品のデカイ石を置いて威嚇するわけですけど、この江戸城の大手門の石は、全部デカい。
西村:全部デカい!(思わずオウム返し)
いなもと:この時代(江戸時代初期)になってくると、戦がないのでどれだけいい石をつかって魅力的な将軍家の城を作るかということになっていくんです。
西村:造形の美しさを高める方に注力するようになるわけか。
いなもと:実際に江戸城の設計を担当した藤堂高虎は、(江戸城の設計が)よくできました! ということで、加増(禄高や領地を増やしてもらうこと)されてるんですよ。もう、戦の武功じゃなくなってきてるんですね。
古賀:いいはなしですねー。
石がやばい
大手門から入ったわたしたちは、大名が江戸城に登城するルートをたどって本丸の天守閣に向かう。
いなもと:ここは、本来ですと堀があって、下乗橋(げじょうばし)という橋がかかっていました。で、橋の先、両脇に石垣見えますけど、その上に櫓門があって、桝形門になっていたはずです。この石がすごい。
いなもと:下乗橋の下乗とは、これより先は、御三家以外の大名は、駕籠から降りて徒歩で入らなければいけない場所のことです。で、駕籠や馬から降りた人は、同心番所に控えている同心にセキュリティーチェックされて登城するんですね。
いなもと:「下馬評」って言葉はここがルーツで、駕籠から降りて登城した人が帰ってくるのをまっている間、駕籠かきがうわさ話をするわけですね、そこから「下馬評」という言葉ができた……らしいです。
西村:うわー、へぇーがとまんねー。
いなもと:ちなみに、このあたりの建設を担当した代表的な人物が真田信之(1566-1658、松代藩初代藩主)ですね、お兄ちゃんの方。
古賀:あ、大泉洋(大河ドラマで真田信之を演じた)ですね。
同心番所から左に折れると、こんどは大手三之門(おおてさんのもん)と呼ばれた櫓門が乗っかっていた石垣が左右に鎮座ましましている。
大手三之門の石垣は「切込接(きりこみはぎ)」という積み方で積まれている。切込接とは、石をきれいに整形し、すきまなくきれいに積む積み方のことだ。
さらに、石の黒っぽい部分は「伊豆石」と呼ばれる安山岩、そして端っこの部分に使われている白っぽい石は、瀬戸内海から運んできた花崗岩だ。
瀬戸内海からわざわざ運んできた石を贅沢に何個も使っている。しかもデカい! この門を使って登城する大名は、この威容の石垣をみるたびに「徳川家すげー」「こりゃかなわん」となり、江戸時代の平和が保たれたのかもしれない。
いなもと:上の建物がなくなっても、この石垣のデカさをみると、いかに玄関として重要視していたのかがよくわかりますね。よくわかんない雷マークみたいな石の切り方してるし。
西村:これ、かなり巨大な石が何個も積んでありますけど、伊豆ならまだしも、瀬戸内海の方から何人もの人が船で何日もかけて持ってきて、積んで、一個って、途方も無いですよねこれ。
いなもと:江戸城の記録なんですけど、100人で持てる石を2個船に乗せて、月に2往復。伊豆からもってきていて、それが3000艘に及んだという記録があるんです。
中之門には瀬戸内海産の石もあるみたいですが、わざわざ巨大な石をカッチリ整形して使ってるわけです。この子たちは選ばれた石なんですね。
いちばん目立つところに選抜したデカいのを使う。多人数アイドルグループみたいな話になってきた。
天守閣はどこにあったのか
中之門から中雀門を経て、いよいよ本丸に向かう。
いなもと:このあたり、現在は芝生ですけど、当時は大奥などの御殿(将軍や家族が暮らす屋敷)がびっしり建ち並んでいたところですけど、家康時代の天守(慶長度天守)があったのがこの辺ですね。
古賀:天守の位置って動くんだ。
家康時代の天守は、位置がよくわかっていなかったが『江戸始図』という絵図が発見され、天守の位置や形がよくわかるようになった。
二代目将軍秀忠の時代になると、家康時代の天守は取り壊され、天守の位置も大幅に変更され、現在の天守台のある辺りに天守(元和度天守)が建てられた。
しかし、この天守も家光の手によって解体され、1637年(寛永14年)に三代目となる新しい天守(寛永度天守)がほぼ同じ位置に建てられた。
いなもと:この天守(寛永度天守)は、壁や屋根にも銅を使って、耐久性のある建物を作ったんです。でも、明暦の大火(振袖火事)によって、焼失してしまうんです。
で、このとき焼けのこった石垣を、先程通った中雀門(ちゅうじゃくもん)の石垣として再利用してるんです。
西村:そうだったのかー。はつり仕上げのデカい石が何個もあって、雰囲気がゴージャスだとおもったんだよー。
いなもと:振袖火事で焼けた天守を再建すべく、石垣を新たに築きます。それが今ある天守台です。
いなもと:しかし、家光の異母兄弟である保科正之(1611-1673、初代会津藩主)が「こんな見掛け倒しのものを作るよりも(天守の再建よりも)江戸の町の復興の方が先だ」として、再建させなかったんですね。だから、あそこに天守がないってのは正しいんですよ。徳川幕府のやさしさなんですよ。
西村:さすが、名君として名高い保科さん……。
いなもと:その後も、徳川家宣(1662-1712、六代将軍)の時代に再建計画はもちあがるんですが、財政難で結局再建せず、今に至るわけです。
いなもと:この現在の天守台を作ったのが前田家の加賀藩で、当時の加賀藩はゼネコン化していて、石垣づくりのそうとうなプロフェッショナル集団だったんです。5000人の人夫を使って、これを作り上げたんです、2ヶ月ほどで。
西村:2ヶ月!?
古賀:かなり短期間ですね。
いなもと:しかもこの石、花崗岩なので、全部、瀬戸内海から運んできてるんですよ。
西村:ひぇー。すごい。
西村:なんか、石垣の端っこの部分が、キュッと上に上がってるのかっこいいですよね。
いなもと:そうそう、かっこいいですよね。しかもすごいのは、下の石から上の石に行くにしたがって、大きさが小さくなってきてるんですよ。
西村:バランスとってるんだ。
いなもと:石積みを採用したばかりの中世の山城は、石積みを築くとなったときに、何個石をもってくれば完成するのかといった、そういう計算がまったくできてなかったんです。
そこから江戸時代の築城ラッシュを経て、ここまでレベルが上ったんです。
今、金沢城は「石垣の博物館」と言われているぐらい、いろんな石垣をみることができるんです。前田家の技ってすごいんだなということがよくわかりますね。
古賀:ゼネコンとして気を吐いていたんですね。
いなもと:関ヶ原が終わってからの数年が、築城ラッシュだったんですね。そうなると、石工職人の需要が増える一方で、その職人が足りない現場とかが出てきた。
そこで素人でも石が割れる技術が発達していって、それが「矢穴技法」なんですよ。
経験年数の多い職人さんは石の目をみて「あ、ここ割れる」ってのがわかるそうなんですが、石の目が読めなくても割れるように矢穴に楔を打ち込んでパカってわる技術も生まれるんですね。
西村:近づくと……石がデカい。
古賀:ここ、めちゃめちゃエッジが立ってて、きれいですねー。
西村:ほんときれい! 角の石の長い石、短い石が交互に並んでるのもかっこいいなあ。
いなもと:これは「算木積み」(さんきづみ)という技術で、1600年前後に開発された技術で、崩れない積み方を開発した結果が、これなんですよね。
西村:端っこが反り上がってるのも、かっこよさだけじゃなくて、力が内側に行くようにして、崩れにくさを考慮したのかな。
西村:これ、黒い石と白い石が互い違いに入っていて、おしゃれですね……。
いなもと:この天守台は、結局ここまで作っておいて、実際に使われることはなかったんです。でも、天守台の内側にすこしおもしろいところがあるんです。
いなもと:よーく見てください。星のマークが見えませんか?
古賀:あ、あった!
西村:あれだ。
いなもと:よーくみてもらうと、石に刻まれた五芒星と、その周りに石が星型に埋まってるの見えますか?
古賀:うあー、ほんとだ! すごーい。
西村:うわー、ほんとだ! 知らなかった……。
いなもと:なんらかの呪術的な意味で作ったのでは? と考えられていますが……記録がないので推測の域は脱しないのですが。
石垣だけでいいかもしれない
東京都民として「いつでも行けるだろ」という甘えから、ついつい、ないがしろにしがちだった江戸城。
しかも、普段あまり注目しない石垣にあえて注目した鑑賞をしてみたが、石垣のおもしろさも相当なものだということがわかった。
江戸城は「どうせ天守閣ないし、行ってもたいして面白くない」と江戸城をナメ腐って考えている東京都民のみなさんは、どうか考えを改めて、太田道灌と徳川家康に謝ってください。
マスクと消毒をした上で、来週は江戸城に行きましょう。
よろしくお願いいたします。