穴守稲荷神社の歴史
お稲荷さんの懐の深さを知ったところで、穴守稲荷神社の歴史について聞いていく。
井上 江戸時代後期は江戸中あちこちにお稲荷さんが祀られていたんですけど、今の羽田空港の場所を開拓する地主さんの屋敷に祀られていたお稲荷さんが穴守稲荷神社です。
――邸内社とか屋敷神スタートだったのですね、穴守稲荷さん。
井上 その当時は海辺にありましたが、堤防が度々壊れてみんな困っていたんです。そこでお稲荷さんをお祀りしたところ穴が開かなくなった。それで“堤防の穴を守るお稲荷さん”で「穴守稲荷」となったと伝わっておりますね。堤防の埋立地の開拓の神様だったのです。
しかしその後、一度神社は荒廃してしまいます。でもそこから温泉が湧いたり、それを目当てに電車が通ったり。競馬場などいろんな娯楽施設ができて、明治時代には羽田は一大行楽地のような感じになりました。
――羽田が一大行楽地に……!?
井上 それこそ明治時代の繁栄は今の比じゃなかったと聞いています。電車、競馬場、温泉、海水浴場、潮干狩り。あとは飛行場もあって、遊覧飛行ができた。お台場と熱海と有名テーマパークを一緒にしたような感じじゃないかと。
井上 夜は夜で大人の娯楽もたくさんあったらしいですから。子供から大人、お年寄りまで楽しめるような場所だったそうです。
――本当に一大レジャースポットだったんですね。今の羽田空港も賑わっていますが、なかなか想像できないです……!
井上 京急電鉄さんの視点で見ると、まずは川崎大師に参拝するための大師線(大師電気鉄道)を作り、その後第二弾で当時温泉も湧いて賑わっていた穴守稲荷に参拝する参拝鉄道を作った。それが明治35年(1902年)のことです。穴守線は、神社を参詣するための電車としては日本初の電車です。
――それがその先に羽田空港ができて、現在のように羽田空港と神社に行くための路線になっていったんですね。
井上 飛行場への旅客輸送が行われるようになったのは、昭和6年に現在の東京国際空港の前身である羽田飛行場が建設されてからですね。その後、穴守稲荷のあった土地は戦争でGHQに接収されて更地になってしまいます。空港から追い出されたところで、今の羽田5丁目の土地に移って、また再興を果たして、現在に至ります。
井上 繁栄当時は境内に鳥居が4万6,797基あったという記録があるので、現在復興の一環として、その数まで鳥居を増やそうというプロジェクトを立ち上げています。
――現在も境内に鳥居たくさんあるな~と思っていたんですが、かつては約4万7千基も!
井上 当然、人が通れるような大きさの鳥居を約4万7千置くような場所は無いんですけども、小さなサイズの鳥居も使って同じ数を復活させようと今年のお正月から取り組んでいます。
その鳥居もオリジナルで、設計から作っているスペシャルな鳥居なんです。明神鳥居の一種の台輪鳥居というものなんですけども、柱と島木との接点の部分に、「台輪」があるのが大きな特色です。通常は2mくらいの鳥居でも台輪がつかないで省略されちゃうことが多いんですけど、私のこだわりで……。復活を目指して奉納募集中です。
――こだわり抜いたミニ鳥居かわいいですね……。
そして、羽田空港内の羽田航空神社とこちらの関係についても教えてください。
井上 両方とも神社ですけど性質が違うんです。航空神社さんは、航空業界で事故で亡くなった方、貢献した方……そうした方々の御霊を顕彰するお社です。一方で、穴守稲荷はもともと羽田空港である場所を守っていた神様です。
――羽田空港のある土地の守り神を祀るお社と、殉職者や功労者の御霊を祀るお社で、全然違う目的で建てられていたんですね。
井上 そうです。航空神社は企業内の邸内社的なお社でもあります。航空業界の方がそれぞれをお祀りするのがふさわしいと、かつては並んでお祀りされていました。
関係性がわかってすっきり! では、次はずーっと気になっていたアレについても聞いていく。
アレとは、穴守稲荷神社旧一の大鳥居!