コタツ記事デー 2020年3月27日

ボスニア・ヘルツェゴビナの地図帳を読む

私の手元に、サラエボの露天商から買った地図帳がある。

ボスニア語はわからない。でも地図帳というのは、ぼんやり眺めるだけでもたのしいものだ。

外出がはばかられる(※)いまこそ、そのたのしみを開放させるときではないか。

※ 2020年3月27日現在、筆者在住のオーストリアを含む世界各国で外出制限が課せられています。

(この記事は特別企画:コタツ記事デーのなかの1本です)

 

1982年生まれ。ウィーンに住んでいるのに、わざわざパレスチナやらトルクメニスタンやらに出かけます。
岡田悠さんと「旅のラジオ」更新中。

前の記事:バカをつかまえろ(コートジボワールの歩き方)

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帝国書院の「中学校社会科地図」よりもひとまわり大きい

 

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あえて調べずに読み進める

重みのあるハードカバーの表紙には、「ATLAS SVIJETA」とある。副題は「ZA OSNOVNU I SREDNJE ŠKOLE」。

どういう意味か。あえて調べない。「学習用 世界地図帳」みたいな感じだろう、たぶん。そのくらいのラフさで読み進める。これは研究ではなく趣味である。

 

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表紙をめくると、かつての持ち主の名前があった。

個人情報に配慮して、ファーストネームは伏せておこう。ラストネームはČehajićさん。私の乏しい知識によれば、これはチェハジックと発音する。

「Ⅵー2」とは「6年2組」のことか。私はこの国の教育制度に明るくないが、日本の小学6年生相当ではないだろうか。ページが微かに温度を得る。6年2組のチェハジックさん。

 

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冒頭から十数ページは、ボスニア・ヘルツェゴビナの国内地図に割かれている。

 

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私に推測できることがひとつある。チェハジックさんは授業に退屈していた、ということだ。

 

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牛、馬、りんご、みかんのイラストに彩られた、このページの趣旨なら私にもわかる。これは地域ごとの特産品だ。

 

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普通の葉っぱにしか見えない「duhan」がわからず、(方針を曲げて)調べたら「煙草」だった。そこは加工品ではなく原料なのか。

 

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「svinje」は「豚」。英語のつづり(swine)にも似ているし、イラストも明瞭だ。誤解の余地はたぶんない。

でも、豚…?

ボスニア・ヘルツェゴビナは、たしかイスラム教の国ではなかったか。どうして豚が許されるのか。

注意深く眺めると、豚のイラストは北部にのみ点在している。養豚はコーヒー栽培とは異なり、さほど自然条件が厳しくないと聞く。それなのに特定地域に限られているとは、なにか事情があるはずだ。

 

私がふと思い出したのは、スルプスカ共和国の存在だ。それは独自の大統領と政府を擁する「国家内国家」で、正教徒のセルビア人が多数を占める。だから豚と暮らすのも問題ないのではあるまいか…?

これはあくまで仮説にすぎない。その正否もとくに真剣に追求しない。そうしたことには構わない場所で、酒でも飲みながら地図の世界にふける。時間がするすると流れてゆく。

(さらに仔細に読み込むと、この本には自国の民族・宗教に関する記述がないことに気づく。私はそこに引っかかりを感じる。紛争の影をそこに感じる。あらゆる出版物には人間の意思が入り込むのだ)

 

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自国の民族には触れないのに、旧ソ連の民族分布図は載っている

 

 

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旅先で教科書を買い求める

旅先をよく知る方法のひとつは、その国の教科書を買うことだ。

青空市場で古本を探す。国語でも算数でも良いけれど、視覚的にわかりやすいのは、やはり地理や地図帳の類である。

(足元を見られては困るから)あまり興味のないふりをして、電卓を翻訳機がわりに値段を聞き出す。「そんなに高いなら買わないよ」と立ち去りかければ、だいたい安くしてくれる。

 

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ボスニア・ヘルツェゴビナの露天商

 

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コートジボワールの露天商

 

いわゆる先進国では、露店で教科書はほぼ扱われない。学校から新品が支給されるからか、頻繁に改版されるからか、古本のニーズ自体が少ないのだろう。

けれども新興国では、まず書籍という商品が相対的に高価で、古本を入手するインセンティブが大いにある。一冊の教科書が露天商を介して、何世代にもわたって使い込まれてゆく。

そんな古本を旅先で見つけられるかは運次第だ。コレクションも容易には集まらない。読者諸賢のなかに同好の士があられたら、私のメールアドレス([email protected])までご連絡ありたい。なにをどうするわけでもなしに、互いの成果を寿ぎましょう。

 

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トーゴで買ったフランス語の教科書

 

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ヘビを追い払う場面がやたらに多い

 

 

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どこまでも幸福な時間である

ここで再び、ボスニア・ヘルツェゴビナの地図帳に戻りたい。

地図帳のよいところは、どのページをめくっても、随想の対象に困らないことだ。

 

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「ああ、この旅はきつかったよな…」と懐かしむのもよいし、

 

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「この独裁国家にはいつか行きたいよな」とか、

 

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「ここは隣国から陸路で入れるのかな」とか、

思いを巡らせるのはどこまでも自由で、どこまでも幸福な時間である。

 

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南極の地図もあった

 

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ペンギン、クジラ、プランクトンの生息地が載っている

 

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日本の地図もあった。Jokohamaには鉄鋼産業があり、Hitačiには原子力発電所があり、Čošiには漁業があり、Vakajamaには繊維産業があった

 

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北方領土は絶妙な破線で表現されている

 

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竹島ではなく独島と表記されている

 

「なにを読んでいるの?」と6歳児が膝に乗ってきた。地図帳の魅力は年齢を問わない。

「この国は級友のXXくんの出身地だね」「ここにはまだ行ったことがないね」「ここでパパの財布が盗まれたね」

「あれっ、コソボがないよ」と息子が言った。我々は去年ここを訪れたのだが、手にした地図帳には掲載されていなかった。

「ボスニア・ヘルツェゴビナはコソボをまだ認めてないんだ」と説明しかけて、私は注目すべき事実を地図上に認めた。

 

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ユーゴスラビア連邦共和国(SR Jugoslavija)、またの名を新ユーゴスラビア連邦

旧連邦の解体後に、セルビアモンテネグロだけが残った国だ。たくさんの問題を抱えながら生まれて、その11年後に崩壊した国だ。

 

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奥付によれば、本書は1998年にサラエボで出版された。紛争の終結からほどなく作られたのだ。

この本を最初に使った人が、もし6年2組のチェハジックさんであれば、彼女(または彼)は私と同世代ということになる。

いまこの瞬間に、チェハジックさんは、世界のどこにいるのだろうか。

生きていてくれ、と私は思った。

 

 


未知なる領域へ

ボスニア・ヘルツェゴビナの地図帳には、汲めども尽きぬ豊かさがあった。

とはいえ、これで満足しきったわけではない。私の好奇心は新たな疑問を引き寄せている。

たとえば、セルビアの小学生はどんな地図帳を使っているのか。スルプスカ共和国ではどうなのか。それらを集めて、ボスニア・ヘルツェゴビナの地図帳と比べたら、どのような発見がもたらされるのか。

どこかに同好の士はいるのだろうか。

 

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スルプスカ共和国のドボイという町を訪れたが、教科書の古本は見つからなかった。かわりに低反発まくらを衝動買いした

 

本稿にて画像引用した書籍は以下のとおり。

【ボスニア・ヘルツェゴビナの地図帳】 Orhan Zupčević et al. (1998). Atlas svijeta: za osnovnu i srednje škole. Sarajevo: Sejtarija.

【トーゴのフランス語教科書】 Ministère de l'Éducation nationale et de le Recherche scientifique - Togo. (1989). Mon premier livre de lecture. Paris: Hatier, Lomé: Limusco.

 

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