旅のはじまり
約2週間かけて、ウィーン在住のTさんと、コートジボワールからナイジェリアまで横断する。これが我々の計画だった。
ギニア湾を沿うようにして約1,000kmの道をゆく。移動手段のあてはなく、目についたバスなどを乗り継いでゆく。即興を信じるスタイルだ。
私だけガーナのビザが取れず、空路で単身トーゴに先乗りしたら浜辺で暴漢に殺されかけた。ベナンのビザを紛失し、ナイジェリア国境で勾留されそうになった。けれども総じて順調な旅路であった。
とても順調な旅路であった。
アビジャンを歩く
コートジボワールのアビジャンは、なかなかに荒々しい都市だった。
街なかで写真を撮ろうとすると、「お前の手首を斬り落とすぞ!」と叫ぶ人がいた。
手首を切断されると、旅の継続が難しくなる。私は笑顔をつくり、敵意のないことを表した。
その一方で、カメラ歓迎、おれっちを撮ってよね!みたいなハッピーな人もいた。握手を求められて、彼の手首から先がないことに気がついた。
この国は、十数年前の内戦から、復興の途上にあるのであった。
駐在員への事前取材
大都市アビジャンには、少数ながら日本のビジネスパーソンが駐在している。
私は4社の職員に連絡をした。こういう種類の旅では、事前の「仕込み」が肝要となる。
見どころはありますか、と問うてみると、「とくにない」といった一様な回答を得た。
鉄道・バスについては、「社員は利用を禁止されてます」と、これまた一様な回答だった。
見どころはない。駐在員は鉄道やバスに乗ってはいけない。
ロンドンやパリとは、すこし事情が異なるようだ。
乗れない鉄道
見知らぬ土地に着いたとき、私はたいてい鉄道駅を探す。そこに出入りする人たちは、地元の善男善女であるからだ。
だが、アビジャンの駅には善男も善女もなく、さびしい野良犬が歩くばかりだ。
この国を南北につなぐ列車があるはずなのに、これは一体どうしたことか。
不如意なフランス語で、数日かけて取材した。
そうして判明したのは、「いまは貨物車のみ」「3日に1便ほど出ているブルキナファソ行きが例外」との事実だった。
「ブルキナファソまでは36時間かかる」「国境付近で過激派の武装集団が現れる」という報もあった。
私の心は吸引されたが、ブルキナファソのビザを持っていない。未来のToDoリストに、またひとつ、ときめきの項目が加わった。
何もわからない短距離バス
アビジャンには短距離と長距離のバスがある。
短距離バスの特徴は、時刻表や路線図がないことだ。どれがどこに行くのか、旅行者には何もわからない。
でも心配は無用である。往来で人に尋ねたり、(大まかな方向を読んで)勘で乗り込めばよいのだ。
「非黒人」はいつも我々だけだったが、みんな親切にしてくれた。
車内で同行者Tさんのスマホが盗まれたときも、一致団結して犯人を探そうとしてくれた。
犯人は見つからず(電源を即座に切られていた)、いきおい警察に出頭する必要が生じた。
袖振り合うも多生の縁。これもバスに乗ったおかげである。
ぐじゃぐじゃになった長距離バス
長距離バスの特徴は、何がいつ出発するのか、よくわからないことだ。
バスターミナルとおぼしき場所に足を運べば、卵売り、水売り、魚売り、芋売り、アイス売り、靴下売り、電球売り、乳飲み児、ポン引き、食い詰め者、荒くれ者、中毒者、諸々が集まって、ぐじゃぐじゃになって、巨大なドラム式洗濯乾燥機に押し込まれたようになって、熱帯性の果実の芳香と大便の熟した臭いが混ざりあって、鼻腔をくすぐって。
そこで人びとは何をしているのか。
そこで人びとはバスを待っている。
誰を信用すれば生き残れるか
治安リスクのある地域を歩くときの原則は、「向こうから話しかけてくる輩は悪人と思え」である。
とはいえ、ここでは誰もかれもが話しかけてくる。全員悪人。そんなわけはないし、それでは物事が進展しない。誰かを信じる必要がある。でもどうやって選べばよいのか。これはときに生死を分けるイシューである。
いくつかの犠牲をともなう観察を経て、私はひとつの真実にたどりついた。それは、「黄色いシャツを着た人を信じるとよい」ということだ。
いや、私は風水の話をしているのではない。この土地で警備員や案内役などをする人は、どうやら黄色いシャツを着る決まりがあるらしいのだ。
(もちろん黄色いシャツの一般人もいる。なかには殺人鬼もいるかもしれない。「黄色い人=安全な人」と確言できない。多少の手がかりにはなる、といった程度の意味合いだ)
我々はバスターミナルでも「黄色い人」を頼りにした。
目的地はヤムスクロ。コートジボワールの首都であるのに政府機関も大使館も存在しないという、そのわけのわからなさに惹かれたのだ。
黄色い人は、国営バスUTB社のチケットを代理で購入してくれた。手数料も取らずに、4,000フラン(710円)。親切な人もいるものだ。
しかし、ひとつ懸念があった。チケットに「6時間後に出発」と印字されていたことだ。アビジャンからヤムスクロまでは3時間ほどかかる。
つまり、このままいくとヤムスクロへの到着が夜になる。その日のうちにアビジャンに帰れなくなる。
私のなかで明滅するものがあって、それは「客死」という言葉であった。
「ちょっとこれ困りますよ」と、我々は黄色い人に訴えた。「もっと早い便はありませんか?」
「問題ないよ」と黄色が言った。
「どのみちバスはいつ来るかわからないよ。1時間後かもしれないし、10時間後かもしれない。でも待っていればいつかは来るよ。問題ないよ」
そのような状態こそを問題と呼ぶのではないか、と思った私は、おそらく過保護に育てられたのだろう。もっと西アフリカの時間の流れに身を任せるべきなのだろう。
そうして我々は30分ほど待った。35℃の炎天下で、しかるべき水分が肉体から蒸発していった。
バスが数台やってきた。ヤムスクロ行きはひとつもなかった。乗客と運転手が怒鳴りあっていた。男と女と男が怒鳴りあっていた。乗車券を見ると5時間30分後に出発とあった。返金不可とあった。
「これはもうだめだ」と私は思った。
ヤムスクロ、ヤムスクロ!
黄色い人に無理を言って、4,000フランの乗車券を3,000フランで払い戻してもらった。手数料として1,000フランを黄色に握らせた。
なにも状況が進展しないうちに、4,000フランが半分になった。
我々はこの混沌たるバスターミナルを脱することにして、「ヤムスクロ、ヤムスクロ!」と叫んで人混みをかきわけた。
すると暗がりから「ヤムスクロ、ヤムスクロ!」と応ずる者が現れた。
「ヤムスクロ?」と私が問うと、「ヤムスクロ!」と兄ィが言った。「ヤムスクロ!」と私は思った。汗ばんだ私の肉が、兄ィの肉と接触した。
百年の孤独を生き延びたような外貌の中型バスはまたしても4,000フランで、なにかしら公定価格の存在が察せられた。
これは今回の旅行を通して繰り返し実感されたことであるが、この世界は決して無秩序ではないのだ。
荒野を1時間ほど走り、トイレ休憩が告げられた。
便器はない。野ションである。隠れる場所はなく、隠れようとする者もない。男も女も隔てなく、乾いた大地に潤いを与えてゆく。
停車したバスに売り子さんが群がる。
焼きバナナ(焼き芋のような美味)、ゆで卵、フランスパン。やはり食べ物が売れ筋のようだが、雑貨や下着をあつかう者もいた。
トイレ休憩中に下着を買う人なんているのかよ、と思った私は浅はかで、車内にはちゃんと購入者がいた。需要あるところに供給あり。この国もまた経済の原理に則していた。
私はピーナッツを9円で購入し、
18円のマドレーヌをふたつ買った。
灼熱の光を浴びたマドレーヌは焦げつくような旨さだが、喉がからからに乾いてしまった。
そういうときは、ビニール袋に詰まった「袋水」を買う。9円。袋の端っこを噛みちぎって、ちゅうちゅう吸えば渇きが満たされる。難しいことは考えない。私もこの世界になじんできた。
「売り子さんの多くはお釣りを持たないので、小銭をたくさん用意すべし」との教訓も得た。炎暑下の悔恨を通じて、人はいろいろと学ぶことができる。
ヤムスクロには、なにもなかった。
ただひとつ、街の外れに、大聖堂がそびえていた(世界最大との由)。 訪問客はほとんどいなくて、そこだけ共産国家のようであった。
バカをつかまえろ
遠くに出かけるときは長距離バスで行くとよいが、片道1時間ほどの距離ならバカが便利だ。
バカ(Gbaka)は、10人乗りくらいのミニバンで、ローカルの真打みたいな移動手段である。
バカの車体には行き先の表示がない。どこでバカをつかまえられるか、それすら一介の旅行者には明らかでない。ローカルもここまでくれば本物だ。
バカの特徴
バカの運転は荒い。
日本の公的機関で働く駐在員は、バカとの接触事故に見舞われた。「バカに公用車をこすられた」と哀しみに沈んでいた。
そんな彼女に同情しつつも、我々はバカの利用者として立ち回った。そうしてみると、バカのシステムは初心者にも案外わかりやすかった。
バカの特徴は、走行中にもドアが開きっぱなしであることだ。そこから半身または全身を乗り出している若者がいれば、それはもう、まごうことなきバカである。
バカの添乗員は、走りながら勧誘し、乗客から集金する。渋滞時には車道に躍り出て交通整理をする。急発進したバカに俊足で追いついて、しゅっと飛び乗る体技もみせる。
その動きはバスケットボールのスター選手にも似て、頭と体の働きが良くなければ果たせない仕事だ。
バカの行き先
目的地はグラン・バッサム。ここはフランス植民地時代に栄えた古都で、世界遺産にも登録されている。
バッサム行きのバカはすぐに見つかった。同行者のTさんは辺境旅行のプロみたいな人で、あえて運賃を確かめないで乗車する。
「こういうのはね、まず地元客が支払うのを観察して、それと同じ額を渡せばいいんです」と彼は言う。「そうすればボラれるリスクも少ないですから」
料金は500フラン(90円)。快適なバカの旅をたのしんだ。
グラン・バッサムには、なにもなかった。
そこにはただ、管理されていない廃墟があって、オランジーナを目玉商品とする売店があって、マラリア媒介に最適化されたボウフラが無数に生まれる排水溝があって、はてしなく続くギニア湾のビーチがあるだけだった。
ご機嫌な兄ィがいて、不機嫌なお母さんがいて、孤独な傷痍の老人がいて、子どもの世話をする子どもがいて、そうしたすべての人びとを抱擁する路地裏に、夕暮れの優しい光が射し込むだけだった。
警察に出頭した
同行者Tさんのスマホが盗まれたので、アビジャン警察に行った。
論点は被害届の発出だった。これが保険求償の手続きに必要なのだ。
翌朝にならないと書類を作れない、と警察官が言った。だが我々は翌朝にアビジャンを発つ。誰の目にも明らかな難題が生じた。
Tさんがひねり出した奇策は、「貴殿が当警察を訪れた事実を認める」という証明書を発行させることだった。
「なんだそりゃ」と訝しむ警察官であったが、Tさんの波状攻撃的な説得に根負けし、ついには一筆をしたためてもらうこととなった。
Tさんは、累計11ヵ国で盗難被害に遭った。
カメラ、財布、パソコン、パスポートなどを盗まれて、そのたびに警察に出頭して、命を縮めたり伸ばしたりしてきた。(彼は日本語と英語とドイツ語とフランス語と中国語を話せた)
辺境旅行のプロである彼は、「盗まれのプロ」でもあったのだ。