コソボであそぼ
私には男児が2人(6歳と3歳)、奥さんが1人いる(年齢はわからない)。家族で行くなら、まずメンバーを説得する必要がある。
「コソボって11歳なの?」と、6歳児が驚いた。コソボ共和国が独立した経緯をかいつまんで話したところ、歳の近さに親しみを持ったようだ。
「コソボ。あそぼ。あれっ、にているねえ!」と、3歳児が笑った。NHKの教育番組「えいごであそぼ」を愛する彼は、「コソボであそぼ♫」と即興で歌いはじめた。
「行くなと言っても行くんでしょう」と、奥さんが言った。
どうやら家族をうまく説得できたようだ。
片道1,200円のフライトで
コソボへは、ブダペスト発のフライトを利用した。
片道わずか1,200円。私の住むウィーンからもコソボ行きの直行便はあるが、ブダペスト経由で行けば10倍も安くなるのだ。
機内は満席で、幼児連れも目立つ。ヨーロッパの人たちにとって、コソボはやはり人気の景勝地なのであった。
ライバルは中国人
私が旅行をするとき、勝手にライバル視している存在がある。それは「中国人の団体観光客」だ。
いや、彼らのマナーは悪くない。「你是中国人吗?(あなたは中国人ですか)」と遠慮なく訊いてくるところもだいすきだ。我是日本人(私は日本人です)。
「1人あたりGDPが1万ドルに迫ると団体観光客が増え、1.5万ドルあたりで個人客になる」とは、ある経済評論家が私に語ったことだが、たしかにそのような実感がある(かつての日本が通った道でもあるのだろう)。
そう、彼らは憎らしいほど世界各地に神出鬼没なのだ。北マケドニアでも、スロベニアでも、モンテネグロでも、中国人たちの後塵を拝した。つまり私は、南極探検でアムンゼン隊に先を越されたスコット隊であった。
しかしコソボでは中国人の姿を見なかった。「南極点」ここにあり。私はついに勝利した。チャイニーズ・レストランのない町は、ちょっとさびしくもあったけれど。
ディズニーランドの密度で子どもがいる
コソボにきて驚いたのは、子どもたちの異様な多さだ。
ふつうの団地の公園に、ディズニーランドにも負けない密度で子どもがいる。大型ブランコに20人ほどもしがみついて、なんだかインドの通勤電車みたいになっていた。
そんなところへ東アジア人が来たものだから、たちまち好奇の面々に囲まれた。
男の子が笑顔で「ジャッキー・チェン!」と声をかけてくる。なにをかくそう、私の正体はジャッキー・チェンである。カンフーの技を披露してやった。
報道によると、コソボ国民の約半分が25歳未満。首都プリシュティナの平均年齢は28歳であるらしい。
元気に遊ぶ子どもの群れに、こちらも引きずられて嬉しくなる。でも「なぜ大人が少ないのか」を考えたとき、そこには瞑目せずには語れない背景がある。コソボ紛争が終わったのは、それほど昔のことではないのだ。
おいしくて、やがてかなしきコソボ料理
レストランのレベルの高さにも驚愕した。
とりわけ肉料理には打ちのめされた。うまくない食事というものが、なぜだかまったく存在しないのだ(※個人の感想です)。
この調理技術の洗練ぶりは、おそらくオスマン帝国時代から脈々と受け継がれたものだろう。
ウィーンの老舗ブランド「ユリウス・マインル」の珈琲もある。これはハプスブルク帝国に占領された影響か、いやそれはさすがに考えすぎか? 私の夢想は西に東に揺蕩して、確かなものは珈琲のコクの深みだけだった。
そして私がとどめを刺されたのは、おいしさに反比例するような料金の安さだ。
ハンバーガーにポテトとサラダがついて、お勘定はしめて1.5ユーロ(≒175円)だった。
それも抜群にうまかった。ウィーンだったら10ユーロは取れるレベルである。
これは、どういうことか。
さすがに安すぎるんじゃないか。
本当に、本当なのか。
けれどもこれは、本当だった。
復興の進んだコソボでは、首都圏の道路もつるつるに舗装されているが(そう言うとコソボ人は喜ぶ)、バルカン半島では「最貧国」のカテゴリのままだ(平均月収は約500ユーロ)。
国内にいても定職がなく、国民の25%が家族を養うためドイツやスイスなどに出稼ぎしていたとの報告もある。
ハンバーガー・セットの異常な安さは、そうした厳しい現実に紐づけられたものだった。
私のなかで、なにかが急に胸をしめつけてきた。
この感情を、日本語で、なんと呼ぶのだったか?
そうだ、これは「罪悪感」というものだった。
むき出しの安さと罪悪感
胸中にくすぶる罪悪感。
でもこれは少しく奇妙である。物価の安い国ならば、いままで幾度も訪れた。それに私はモラル意識の屈折した人間だ(余計なシンパシーはかえって先方に失礼だと思う人間だ)。
ベトナムでもスリランカでもトルクメニスタンでも、それほど育たなかった罪の意識が、いまなぜ私を抱擁するのか。
その答え(仮説)を得たのは、お会計をしているときだった。
独自通貨の発行をあきらめたコソボでは「ユーロ」がふつうに使われているので、私の日常とあまりにも地続きだったのだ。
我々が異国を旅するときーー「ドン」やら「ルピー」やら「マナト」やらの現地通貨に替えるときーーそこにはある種の「フィクション性」というか、「子ども銀行券性」というか、お金の受け渡しに非日常のフィルターが挟まってくる。だから我々は安心をして、買い物の悦びだけを味わえる。(少なくとも私はそうである)
ところが「ユーロ」のコソボでは、そのフィルターが機能しないままに、むき出しの安さが私の内部を一撃する。
コソボでお金を払うとき、いつもより深々と頭を下げたのは、つまりはそういうわけなのだ。
(コソボ旅行に関心のある読者にアドバイス。現地で用いる紙幣は、できるだけ10ユーロ札以下にするとよいです。私はあるレストランで50ユーロ札しか手持ちがなくて、それで3.8ユーロの支払いをしたものだから、店員さんたちの財布を総動員させてしまった。あれは本当に心苦しかった)
コソボ鉄道のなぞ
バルカン半島の旅には、格別の味わい深さがある。
その要因のひとつは「交通インフラの情報の少なさ」だ。
電車やバスが存在することはわかっている。にもかかわらず、グーグルでも旅行ガイドでも、その全貌がつかめない。
そうした事態がしばしばあって、私は避けがたく興奮する。
乏しいヒントをたぐり寄せ、どうにかコソボ鉄道に乗ってみたい。なぜなら息子たちは(幼児の例にもれなく)電車を愛しているからだ。
「プリシュティナ駅からペーヤ行きが出ているらしい」
これが私に与えられた唯一の手がかりだった。
プリシュティナというのはコソボの首都である。そこにある駅といえば、これは日本でいう東京駅のようなものだろう。
ところが私の見たプリシュティナ駅は、千葉県の深奥に秘められた久留里線(JR東日本)上総亀山駅くらいの大きさだった。ペーヤ行きの電車は確かにあるが、1日2本しか出ていない。
その謙虚さに、儚さに、旅情をそそられずにはいられなかった。
コソボを承認する国、しない国
ここまでコソボを「国」と書いてきたが、じつは誰もが認めるわけではない。
たとえば、スペイン、ロシア、イラン、中国は、コソボを国家として承認していない(なるほど、中国人観光客を見ないのはそういうわけだったか)。
セルビアとの間にも緊張がある。コソボの独立を認めず、あくまでもセルビアの領土と主張しているのだ。
セルビア側にも言い分はある。
コソボには、オスマン帝国の支配を生きのびた正教会がいくつもあって、セルビア人にとってのルーツのような場所である(「セルビアのエルサレム」とも称される)。
「ムスリムのアルバニア人が大勢いても、やはりコソボはセルビアのもの」という考えが、ここでは支持を集めているのだ。
あいまいな日本の私
この文章を書いているのは私である。
日本に生まれ、日本で育った36歳の私である。
いまここで、歴史の詰まった京都が独立宣言を発したら、私はどんな気持ちになるだろう。
それが名古屋だったらどうだろう。沖縄だったらどうだろう。
セルビアとコソボの関係は、これからどうなってゆくのだろう。
私にはわからない。
この世はわからないことだらけだ。
私が披露できる唯一の事実は、これまで出会ったセルビア人もコソボ人も、憎もうとして憎みきれない輩ばかりだったということだ。
コソボは子連れもウェルカムだった
コソボのレストランは、子連れも歓迎してくれた。
あるとき、ワイン畑を兼ねたテラス席で鱒のソテーを食べていると、2杯のエスプレッソがサーブされた。
「これ、頼んでませんけど」
私がそう言うと、ウェイターは「あちらのお客様からです」とほほえんだ。
振り返ると、日焼けした男の2人客がいた。
「コソボに来てくれてありがとう」と、日焼けの濃い方が静かに言った。「子どもを連れてきてくれて、ありがとう」
野良犬がお店に入ってきて、すぐさまウェイターに追い払われた。
(編集部より)
こちらに書ききれなかった話をライターの個人ブログの方に書いてくれました。あわせてどうぞ。
https://wienandme.blogspot.com/2019/10/blog-post.html