自宅にあった父親のわらじを貰う
ある日のことである。私は家の空気を入れ替えようと、現在は倉庫として使われている部屋へと立ち入った。そこで、棚の上に見慣れない物体が置いてあることに気が付いたのだ。
この部屋に置いてあるものの大部分は父親の所持品である。これもまた父親のものなのだろうが、それにしてもイマドキわらじなんて、いったいどこから手に入れてきたのだろう。
不思議に思って聞いてみると、なんでも3年くらい前に沢登り用として買ったものだという。
山の沢を遡る「沢登り」では現在もわらじを使うことがあり、神奈川県西部の丹沢山麓にある沢登りの訓練所でわらじを購入することが可能なのだそうだ。
今はもう不要とのことなので、ならばくれと私はこのわらじを譲り受けることにした。古代から近代にいたるまで日本人が連綿と履き続けてきたわらじとは一体どのようなものなのか、実際に体験してみたいと思ったからだ。
まずはわらじを観察しよう
なんでも、わらじが使われるようになったのは平安時代だそうだ(それ以前の庶民は裸足であったという)。稲作の副産物である稲わらを使って編み込まれたわらじは、長きに渡り人々の足を支えてきた。
私はこれまで民俗資料館とか古民家とかに展示されているわらじを目にしたことはあるが、こうして実際に手に取ってみるのは初めてだ。とりあえず、その構造をじっくり観察してみよう。
改めてまじまじ見ると、なんていうか、実に不思議な形状である。なにも知らない外国人に見せたら、履物だとすら思われないのではないだろうか。
よく見ると窪みが作られており、ここにかかとを当ててくれと言わんばかりである。付け根からぴょこんと耳のように飛び出た二つの輪っかは、かかとを左右から覆って固定するためのものだろう。
わらじは長距離移動の際に使われる履物であり、簡単に脱げたりしないよう、がっちり足に固定する機能が求められる。
なので脱ぎ履きしやすい草履や下駄よりもやや複雑な構造ではあるが、足に固定するに十分な機能を備えつつも編み易いよう必要最小限の作りになっているのだろう。
まさに長い年月を経て洗練され尽くした、稲作文化における履物の完成型なのである。
わらじを履いてみよう
それでは実際にわらじを装着してみたいところであるが、やはりその履き方が分からない。特に長く伸びた縄をどう扱えば良いのかサッパリである。
幸いにも現在はYoutube等にわらじの履き方の動画がたくさん投稿されている。私はそれらを手当たり次第にあさり、履き方を学んだ。
どうやら形状の差異や縄の長さ等の条件によって履き方が微妙に異なるようではあるが、いくつかの方法を試してみて、一番良さそうなやり方で履いてみることにした。
わらじで近所を歩いてみる
なんとかわらじを履くことができたので、試しに外を歩いてみることにした。とりあえず、これで土を踏み締めてみたくなったのだ。
うむむ、薄々分かっていたことではあるが、鼻緒が指の間に食い込んで痛い。でも、まぁ、これは慣れだろう。
子供のころ、下ろしたてのビーチサンダルを履いた直後は指の皮が剥けたりして痛かったが、夏の終わりにはすっかり気にならなくなっていた。これもまたそんな感じで履いているうちに慣れるのだと思う。
わらじは足の裏に合わせて形が変わり、また弾力があまりないのでダイレクトに土を踏んでいるような感触がする。クッション性のないサンダルに近い感じだろうか。
しかしサンダルと違って足に密着しているので、しっかり踏み込むことができ、安定感がある。想像していたよりも、ずっと歩きやすい印象だ。
しばらくは普通に歩けていたのだが、突然、かかとの下にガリっとした痛みが走り、「あいてっ!」 と声に出してしまった。やや大き目の石が、かかとに食い込んだのである。
粒の小さな砂利ならば問題ないのだが、このくらいの大きさの石になると、稲わらを押し上げて足裏に食い込んでくるのである。それも体重が乗るかかとの部分で踏んでしまうと強烈な痛さだ。どうやら砂利道はわらじで歩くのにあまり適していないらしい。
靴でもズルっと滑りやすい関東ローム層の土壌であるが、わらじは安定感が物凄く、まったくもって滑らない。足とわらじが密着し、わらじと土もまた密着している感触だ。
稲わらで編まれたわらじは、要するに繊維の束である。それらの繊維の一本一本が土をがっしり掴んでいるのだろう。
やはり舗装路となると、地面の固さが気になってくる。クッション性に乏しいわらじでは踏み締める度にズンとした衝撃が足の裏にあり、長距離歩くことは厳しいだろう。
またアスファルトは摩擦力が強いので、わらじの底が擦り切れやすいという難点もある。わらじからはみ出た足の指が、アスファルトにこすれるのも問題だ。舗装路はわらじで歩くのに向いていない。
……とまぁ、わらじを履いて近所をうろうろしてみたのだが、いずれの道も現代に作られたものであり、実際にわらじを履いて生活をしていた人々の追体験ができているとはいい難いだろう。
それではどうするべきか。誰もがわらじを履いていたその当時に築かれた道、すなわち江戸時代の古道を歩くのである。
箱根旧街道の石畳をわらじで歩く
というワケで、私は江戸時代から残る道を求めて箱根へと赴いた。神奈川県から静岡県へと抜ける箱根はかつての国境に位置しており、江戸時代には東海道の要衝として関所が置かれていた。
東海道の宿場である小田原宿から箱根宿を経て三原宿へと至るそのルートは箱根八里と称され、現在もこの区間には江戸時代に整備された石畳が部分的に残っている。そこをわらじで歩くことで、江戸時代の人々の追体験をしようという試みだ。
とはいえ、履き慣れていないわらじで箱根八里の全区間を歩き通すのはさすがに厳しいので、スタートは小田原宿と箱根宿の中間地点である「畑宿」、ゴールは「箱根関所」の約5kmを歩くことにした。
早速わらじを履いて石畳の道を歩き始めたのだが、その瞬間、なぜ現在もわらじが沢登りで使い続けられているのか理解できた。苔むした石の上に足を置いても、まったくもって滑らないのである。
これまでの私は、苔むした石畳は歩きにくいというイメージがあった。確かに普通の靴ならはズルっと滑りやすく、かなり気を遣って歩みを進める必要がある。しかしながら、わらじであれば苔むした石畳でも滑りにくく、むしろ歩きやすい道だといえるのだ。
石畳は雨が降っても道が崩れないようにする土留めや、水はけの悪い箇所の排水のために築かれるものだと心得ていたのだが、それだけではなく、わらじで歩きやすい道に改良する効果もあったのだ。石畳というのは、誰もがわらじを履いていた頃にはメリットしかない舗装の手段だったのである。これは目から鱗であった。
さてはて、やや興奮気味に石畳を進んで行ったものの、箱根旧街道は近代以降の道路建設によって寸断されている箇所も少なくない。
この歩道の坂道で、わらじならではの問題が頭をもたげてきた。長い上り坂を歩いていると、徐々に足首が締められてくるのである。
これはどういうことかというと、だらだらと長く続く上り坂を歩き続けているうちにかかとが後ろへ下がり、それによって足首の縄が引っ張られ、締め付けられているのである。
石畳を歩くときは比較的水平の部分を選んで足を置くことが多く、かかとがズレることも少なかった。均一な傾斜が長く続く、舗装路ならではの問題である。このような点でも、やはりわらじは舗装路を歩くのに適していないのだ。
ここで、ふと、なんでわらじだと石畳の方が歩きやすいのだろうと考えた。石畳は舗装路と同じくらい固い道であるが、それでも石畳の方が舗装路より格段に歩きやすく感じるのだ。
不思議に思ったので足元をよく意識しながら歩いてみると、おぼろげながらもわらじならではのポイントが見えてきた。
石畳が舗装路と決定的に違うのは、石ごとに凹凸があるという点である。石畳の滑らかに膨らんだ部分が足掛かりとなり、体を前に出す推進力を生みだしやすいのだ。
これは石の形に合わせてフィットするわらじだからこそであり、底が変形しない靴では不可能な芸当である。
この辺、少し分かりにくいかもしれないが、例えばロッククライミングジムの壁を思い浮かべて頂きたい。あのように手掛かりになる突起がたくさんあるのが石畳、突起が全くなく平べったい壁が舗装路。そう表現すれば、わらじによる石畳の歩きやすさが伝わるだろうか。
平坦な道をわらじで歩く二つの問題点
わらじは石畳を歩くのに適している。むしろ今やわらじは石畳を歩くために存在するといっても過言ではないほど、わらじと石畳の相性はピッタリだ。
一方で、昔ながらの街道であっても、わらじで歩くには微妙な区間も存在する。それは平坦な部分の古道だ。
先ほども述べた通り、石畳は雨が降ると崩れやすい斜面や、ぬかるみやすい場所に築かれるものである。すなわち石畳が築かれていないということは、本来は歩きやすい道であるはずだ。……が、この区間をわらじで歩くには二つの問題点があった。一つ目は、砂利である。
近所の砂利道を歩いた時にも感じたことではあるが、昔の人々はこの小石の問題をどうやって克服していたのだろう。
おそらく当時の人々は、生まれてからずっと足を靴で保護されている現代人よりもずっと足の皮が厚く、このくらいの小石ならものともしなかったのだろう。
今でも東南アジアやインドの田舎を旅行していると、裸足で歩き回る子供たち(場合によっては大人も)の姿を目にすることができる。そうやって生活してきた人々の足裏は、総じて頼もしいものである。日本人もかつてはそうであったはずだ。
土は水分を含んでいる。特にこの日は前日に雨が降ったこともあってなおさらだ。足と密着しているわらじで土を踏み締めると、じゅわっと水が染み出してくるのが足の裏で感じられる。
ゴム底の靴とは違い、繊維の束であるわらじは無条件で水を通す。いや、むしろ、水を吸い上げているのではないかと思うくらいだ。故に、土の上をわらじで歩いていると、足の裏が泥水で濡れてしまう。
わらじでは当たり前のことなのだろうが、普通の靴しか履いてこなかった身からすると、湿った土を踏み締める感触は慣れないもので、「うわぁ……」という感じであった。
ボロボロになったわらじで最後の石畳を登る
さらに旧街道を進んでいくと、やがて茅葺屋根の建物に差し掛かった。江戸時代から道行く人々に甘酒を提供してきた茶屋だそうだ。街道が廃れた現在も車で訪れる客が多く、なかなかの盛況ぶりである。
甘酒茶屋を通り過ぎると、旧街道は急な上り坂となる。この峠を越えさえすれば箱根関所がある芦ノ湖へとたどり着くのだが、ここがかなりの難所であった。
畑宿から2時間半以上歩き続け、さすがに疲労が出てきたということもあるのだが、それ以上に気になり出したのがわらじの状態である。この辺りにまで来た頃には、既にボロボロになりつつあったのだ。
足の裏で石畳の固さを感じながら、これ以上擦り減らないよう、できるだけ大きく平らな石を選んで足を運んでいく。ここを越えればゴールだと自分に言い聞かせつつ、気力を振り絞る。
こうしてモチベーションを保ちつつ、ボロボロになりかけたわらじでだましだまし歩き、なんとか峠を越えることができた。あとは芦ノ湖まで下っていくだけである。
足全体を覆う靴とは違い、わらじが保護するのはあくまで足の裏だけである。なのでこのような木の枝が転がっていると、足の指にぶつけるなど痛い目に遭いそうで気が抜けない。
もうだいぶしんどい感じであるが、ここまで来ればあとは関所まで湖畔を1kmほど歩くだけだ。平坦な道のりなので楽勝かと思いきや、最後の最後に思わぬ刺客が私を待ち構えていた。
関所の前に立ちはだかった並木の砂利道
元箱根の市街地から関所までは杉並木が続いている。普段ならばたいしたことのない距離ではあるものの、ぺしゃんこになったわらじで歩くのは結構しんどい。
昔ながらの風情を残す並木道は私の大好物であり、この湖畔の道も何度か歩いたことがあるのだが、その時には砂利敷きだったことなど全く意識していなかった。完全なる不意打ちである。
砂利は安価かつ水はけが良いので歩道の整備には便利なのかもしれないが、わらじにとっては不都合極まりない存在だ。できれば石畳、それが無理ならば土のままにしておいてほしいものである。
いやはや、ゴールを目前にしてこのようなトラップが仕掛けられているとは。この並木の砂利道は、まさに最後の試練であった。
約5kmの山道でわらじはどうなった?
さて、畑宿から箱根の関所まで約5kmの道のりを歩いてきたワケだが、肝心のわらじはどうなったのだろう。改めて、その状態をチェックしてみようではないか。
最初はそれなりに厚みがあったわらじも、すっかりぺしゃんこである。これではクッション性もへったくれもない。なるほど、これが「履き潰す」ということなのか。
わらじは完全なる消耗品であり、平地でも一日歩けばダメになるという。山道ではより消耗が激しく、現に小田原宿と箱根宿の中間点である畑宿から箱根関所まで歩いただけでもこの有様なのだから、少なくとも一日二足や三足は必要だったことだろう。江戸時代の旅行ではわらじ代がバカにならないと聞いたことあるが、確かに納得である。
昔の人はたくましい
わらじで箱根旧街道を歩いてみて、わらじと石畳の相性の良さに驚かされたり、わらじの消耗性を身をもって知ることができたりと、非常に良い経験になった。
稲作をする上で大量に手に入る稲わらという素材で編まれたわらじは、日本文化を語る上で欠かせない履物だとは思う。……が、さすがにより機能的な靴が手に入る現在では、あえて使用するメリットは少ないだろう。それこそお祭りの衣装とか、水に塗れた岩場を歩く沢登り、あとは苔むした石畳を歩く時くらいであろう。
それにしても、昔の人はこのわらじで旅行をしていたのだから凄いものだ。他に選択肢がなかったとはいえ、わらじで江戸から伊勢まで歩いたり、四国遍路を周るなどと考えると、なかなかに気が遠くなる。ホント、昔の人はたくましいものだ!