1日で周るには7という数がちょうど良い
10時に瀬谷駅を出発し、7社を周り終えたのはちょうど16時であった。写真を撮ったりサバを食ったりと、かなりのスローペースだったので時間がかかったが、キビキビ歩けば4時間くらいで周ることができるだろう。
なお、かつての「七サバ参り」は子供の流行病除けという側面があり、母親が子供を背負って参拝したという。昔は自宅から歩いて7社を周り、歩いて帰ったワケで、その辺りのことも考慮すると、1日で周るには7社くらいがちょうど良い数なのかもしれませんな。
神奈川県央部を流れる境川(さかいがわ)の中流域には、「サバ神社」という名の神社が計12存在する。その表記は「鯖」「左馬」「佐婆」など多少のバラツキがあるものの、すべて「サバ」と読むのは共通だ。
江戸時代中期から明治時代初頭にかけて、これらのサバ神社を巡る「七サバ参り」という風習があった。なんでも、1日で7箇所のサバ神社に参拝すると悪い病気にかからないという。
現在は廃れて久しい風習であるが、新春かつこのようなご時世でもあるし、無病息災を祈願すべく7箇所のサバ神社を歩いて巡ることにした。
境川はその名の通り昔から土地の境であった川であり、現在も上流域は神奈川県と東京都の県境、中流域は横浜市と大和市・藤沢市の市境となっている。
川筋に沿って江ノ島へと続くサイクリングロードが整備されているので、サイクリストにはお馴染みの川かもしれない。
サバ神社は境川の中流域にのみ集中して存在する。この地域は川の流れが台地を削った谷間となっており、川沿いの低地には水田が、谷間の両端にあたる台地の縁に集落が形成されているのが特徴だ。
境川の中流域に分布する計12のサバ神社
これらのサバ神社は各集落の鎮守として祀られており、いずれも川や水田を見渡すことができる台地の端部に位置している。
海から離れた内陸の地域なのに「鯖」とは奇妙に思うかもしれないが、これは魚の鯖とはあまり関係がないようである(いちおう、神仏に供える魚として鯖を用いていたから、という説もある)。
サバ神社の祭神は鎌倉幕府を開いた源頼朝の父である「源義朝(みなもとのよしとも)」であり、義朝が左馬頭(さばのかみ)という役職を担っていたことから「左馬神社」になったという説が一般的だ。
この神社も江戸時代は「鯖明神社」という名であり、明治初頭に集落の名を冠して「七ツ木神社」と改められた。
このような水田に近い立地から、西日本で信仰されている田の神「サンバイ」がなまってサバになったとか、生活や稲作に不可欠な水が出る台地の端部に位置することから沢(サワ)の神であるともいう。
「今田」という地名には新しい水田という意味があり、江戸時代に新たに開墾された土地であることがうかがえる。なので今田の鯖神社は元禄15年(1702年)の創建と比較的新しいのだが、他のサバ神社もおおむね江戸時代の初頭から中期にかけての創建であり、中世まで遡るものは多くない。
おそらくは戦国乱世が終わって世の中が落ち着いた頃、この地域を領していた旗本、あるいは集落の長である名主が創建した神社が多いのではないかと考えられているという。
鎌倉に近い土地柄から祭神こそ源義朝であるが、その実態は農村の鎮守社として、稲が豊作になるよう、また水が枯れないよう、境川が氾濫して水害が起きないよう、様々な祈願が行われていたことだろう。
今でこそ小さな祠に甘んじている西俣野の左馬明神社であるが、かつては仏教寺院に付属する神社として台地上に社殿があったようだ。明治時代初頭の神仏分離令によって寺院が破却されたことで左馬明神社もまた廃され、のちに現在地にて復興したようである。
さて、これまでサバ神社は境川の中流域に立地すると述べてきたが、実は境川沿いのみならず、その支流である和泉川(いずみがわ)や、境川の西側を流れる引地川(ひきじがわ)にもサバ神社は存在する。
引地川は境川と並行して流れる川であり、境川とは1.5kmほどしか離れていない。境川と同一の文化圏といっても差支えはなく、境川中流域での極めてローカルなサバ神社文化が波及していたとしてもまったくもって不思議なことではない。
――とまぁ、これまでサバ神社についてあれこれ述べてきたが、この記事の主題は「七サバ参り」である。面倒な説明はほどほどにして、サバ神社巡りに出発しようじゃないか。
「七サバ参り」は計12のサバ神社のうち7箇所を周る日帰り巡礼であるが、参拝すべき7社は厳密に決まっているわけではなく、史料によってまちまちだ。おそらくは住んでいる場所に近い7社をフレキシブルに選んでいたのではないかと思う。
とはいえ何にも準拠しないのはいささか不安なので、今回はサバ神社の筆頭といえる横浜市瀬谷区橋戸の「左馬社」に伝わる7社を巡ることにした。
せっかく「七サバ参り」をするのであれば、この風習が盛んであった当時の人々の追体験がしたいものだ。なので歩くルートは、昔の地図と現在の地図を比較できるwebサービス「今昔マップ」を確認しつつ、できるだけ明治時代から存在する路地をたどることにした。
橋戸は境川の左岸(東側)の台地上に位置する集落で、左馬社の鳥居は境川を望む西側を向いており、やはり境川を強く意識した神社であることが分かる。
この左馬社は計12社のサバ神社の中で唯一宮司さんが住居している神社であり、境内は広く、社殿も立派だ。どの史料においてもこの神社は7社のうちに含まれており、サバ神社の筆頭と述べた所以である。
ちなみに神社の境内に鐘楼があることを不思議に思う人もいるかもしれないが、神奈川県央部には鐘楼を残す神社が多い。神社と仏教寺院に境界がなかった、神仏習合時代の名残である。
これで1社目の参拝が完了だ。清々しい気分で鳥居を出て、境内を後にする。さぁ、次のサバ神社に向かって出発!……とその前に、ちょっと一息入れようじゃないか。
うむ、スーパーで買った切り身を焼いただけだが、ほどよく脂が乗っており、冷めていてもうまい塩サバである。ただ少し塩気が強いのでごはんが欲しいところだ。残念ながらごはんは持ってこなかった。
次なるサバ神社は境川を挟んだ対岸、大和市の上和田地区にある「左馬神社」である。橋戸の左馬社からは約1.5kmの道のりだ。
この上和田の「左馬神社」は宝暦14年(1764年)に村の名主が建立したものだ。境内には巨木が多く、大きな道路から外れた位置にあることも相まって、静かで落ち着いたたたずまいの神社である。
2社目の参拝を終えて境内を後にする。次なるサバ神社を目指して歩き始める前に、ここでもサバを食らっておこう。
それにしても、缶詰というのは見た目よりも中身がギッシリ詰まっているものだ。汁を含めてすべて完食したものの、先ほど塩サバを2枚食べたこともあって、既にお腹がサバで満たされつつある。
あと、マスクの中がめちゃくちゃサバくさい。
次に目指すサバ神社は再び左岸、上飯田にある「飯田神社」である。上和田の「左馬神社」からは約4kmと少し距離があるが、なぁに、腹ごなしにはちょうど良い。頑張って歩くとしよう。
この台地の縁を通る際の道は、鎌倉と高崎を結んでいた街道「鎌倉上道(かまくらかみのみち)」とのことで、道端に案内板が出ていた。江戸時代にはこの道筋に沿って商家が並んでいたという。
歩きやすそうだったので何気なく選んだ道であったが、そんないわれのある古道だったとは。際の道はアップダウンが少なく、かつ集落が続いているので、昔から道として好まれていたのだろう。
この飯田神社は高倉の七ツ木神社と同様に集落の名を冠しているが、昔から「鯖明神」とも呼ばれていたサバ神社である。社伝によると鎌倉時代の延応元年(1239年)に地頭であった飯田三郎能信(飯田五郎家義ともいう)が祀ったという、歴史ある神社である。
中村はカーブする境川の内側に土砂が堆積して形成された微高地に位置する集落だ。故に飯田神社もまた比較的低い位置にあり、台地の上に鎮座するこれまでのサバ神社とは少し雰囲気が異なり、より集落や水田に密接しているような印象を受けた。
3社目の参拝を終え、境内を出たところで時計を見たら12時を回っていた。ちょうど良い、ここらで昼食にするとしよう。もちろん、食べるのはサバである。
正直なところ、塩サバと水煮だけでもうだいぶ腹がキツくなっていたのだが、缶詰を開けた瞬間に漂ってきた味噌の風味で食欲が一気に復活した。人間、好きな食べ物を目にすると胃袋に隙間ができるものなのだ。サバの味噌煮は別腹。
味噌のうまみ&甘みとサバの相性の素晴らしさに感激しつつ、ペロリと平らげることができた。
さぁ、味噌煮で気分が盛り上ったところでどんどん行こう。次なるサバ神社は境川の支流である和泉川沿いに位置する「佐婆神社」である。その距離は1.5kmほど。境川から台地の上を横断し、東側の和泉川へと出る必要がある。
瀬谷駅からここまで、明治時代の地図と一致する道筋をたどることができていたのだが、残念ながらここで途切れることとなった。団地の土地造成によって道路が再編されているのである。
しょうがないので新しい道路を通り、団地地帯を抜けて再び昔の道筋へと入る。ふと振り返ってみると、団地がある一帯はちょっとした谷間になっていることに気が付いた。
今昔マップで確認すると、この団地の一帯はやはり谷間として描かれており、谷筋に沿って水田が続いていたことが確認できる。その谷間の水田を埋め立てて、この団地は築かれたのだ。
一口で台地といっても、ただ平べったい土地が続いているのではなく、雨によって浸食された小さな谷が、大なり小なりの起伏を作り出しているものなのだ。
これまでのサバ神社と比べて小ぢんまりとした趣きであるが、その境内にはタブノキの巨木が聳え、無数の石碑が並んでいる。
すぐ背後を相鉄いずみ野線の高架が通るなど開発の圧力にされされながらも、この空間だけは神聖さを保っているように感じられた。
4社目の参拝が終わったところで、ここでもサバを頂こう。神社の境内を出て景色が良く見える地点にまで移動し、コンクリートブロックに腰を掛ける。
サバを竜田風の味付けにしてみましたというような缶詰である。ほど良い酸味が食欲を刺激してくれるものの、コロモがないので竜田揚げとしてはいささか物足りなさを感じた。
スライスしたタマネギを付け加えてマリネ風にすると、ぐっと美味くなるのではないかと思う。
お次のサバ神社は和泉川の少し下流に位置する「中之宮左馬神社」である。そこまでの距離は1.5km強。
再開発されたエリアであるいずみ中央駅の周囲を通るので昔の道筋は残っていないかと思いきや、意外にも途切れることなく続いていた。
これまでのサバ神社はすべて源義朝を祭神としているが、この中之宮左馬神社はなぜか源氏の祖である源満仲(みなもとのみつなか)を祭神としている。
おそらくここも創建当初は他のサバ神社と同じく源義朝を祭神としていたのだろうが、時代が下っていく中で「源頼朝の父である源義朝」から「源氏の祖である源満仲」に変化したと考えられる。
氏子にとって神社は村の鎮守としてお祭りや祈願ができればそれでよく、祭神が誰かというのはあまり重要ではなかったということだ。
5社目の参拝が終わったが、私の腹はもうだいぶいっぱいいっぱいである。そこで食欲を湧き立たせる最終兵器を投入することにした。
普通の味ならばこれ以上食べるのはかなりキツい感じであるが、すべての食材を自分の土俵に取り込むカレーならば食欲を維持できるはずだ。そう安直に考えたものの、これがなかなかどうして良い効果を発揮してくれた。
まずスパイスの香りが減退していた食欲を奮い立たせ、カレーの味がサバの生臭さを消してとても食べやすい。
ペースト状のソースにはジャガイモやタマネギを煮詰めたような旨味が凝縮されており、温めてごはんに乗せればそのままサバカレーになるだろう。想像以上に完成度の高い缶詰である。
さぁ、残すところはあと2社だ。お次は境川へと戻り、下飯田という集落に鎮座する「鯖神社」へと向かう。中之宮左馬神社から坂を上って再び台地を横断する、2km弱の道のりだ。
一般的な長屋門(使用人が住む部屋を備えた門)は土壁や板壁で土蔵のような無骨な外観であるのに対し、この家のものは格子付きの窓を設けるなどまるで主屋のような格式がある。
なんでも、このお宅は江戸時代中期に活躍した俳人「美濃口春鴻(みのぐちしゅんこう)」の生家であるという。美濃口家は代々名主を務めていた家柄とのことで、なるほど、この立派な長屋門にも納得だ。表札を見るに、いまも子孫の方が住んでおられるようである。
この辺りを通ったことは何度もあるのだが、このような凄い旧家があるとは全くもって知らなかった。思わぬ収獲である。
これで6社目の参拝を終えた。そろそろ最初の辺りのサバが消化され、胃に空きができても良い頃合いだ。実際食欲も回復してきている感じがするし、よーし、6品目を食らうとしよう。
最初見た時はこの液体がオリーブオイルに見えて身構えたが、そうではなく見た目よりあっさりとした味わいだ。
確かにバジルの風味があり、レモンもほんのりとした酸味として感じられる。……が、サバの味の方が強く、洋風の水煮といった感じだろうか。インパクトのある見た目に対し、至って普通のサバである。
さぁ、ついに7社目だ。最後に参るのは、境川との合流点付近にある和泉川沿いの「鯖神社」である。距離は約2km。もうだいぶ疲労が溜まって脚が棒になりつつあるが、最後まで張り切って頑張ろう。
先ほどの美濃口家もそうであったが、昔ながらの道を歩いていると、このような歴史ある古建築を発見できるから嬉しいものだ。現在の主要道路をたどっているだけでは見えないモノが次々と見えてくる。だから古道歩きはやめられない。
ちなみにこの鯖神社は中之宮左馬神社と同様、祭神が源義朝ではなく源満仲だ。だからといって特に何があるということもなく、他のサバ神社との違いはあまりない。
さてはて、無事7社目の参拝が終わり、いよいよ最後のサバを食す時がきた。「七サバ参り」の締めにふさわしいサバは、やはりこれしかないだろう。
さぁ、この大きなシメサバを景気よく食らって、「七サバ参り」の締めとしようじゃないか。さぁ、食べろ! 食べるのだ!
朝から6種類のサバを食べ続けて、既にお腹がいっぱいということもあるが、ぶっちゃけ飽きた。だって、それぞれ違う味とはいえ、やはりサバなんだもの。これ以上は美味しく頂けそうにもないので、スミマセン、シメサバはパスさせて下さい。
10時に瀬谷駅を出発し、7社を周り終えたのはちょうど16時であった。写真を撮ったりサバを食ったりと、かなりのスローペースだったので時間がかかったが、キビキビ歩けば4時間くらいで周ることができるだろう。
なお、かつての「七サバ参り」は子供の流行病除けという側面があり、母親が子供を背負って参拝したという。昔は自宅から歩いて7社を周り、歩いて帰ったワケで、その辺りのことも考慮すると、1日で周るには7社くらいがちょうど良い数なのかもしれませんな。
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