「沖縄タウン」が残る鶴見へ
まずは関東最大の沖縄タウンが残る、鶴見へ。ここは約3万人もの沖縄からの移住者を受け入れた地域だ。
品川から京浜東北線に揺られて到着した鶴見駅。少し散策するだけで早くも沖縄関係のお店が見つかる。
しかし沖縄の方がより多く住む街は、駅から南東に徒歩15分ほど、地名で言うと仲通や潮田町あたりにある。
ここが「沖縄タウン」と呼ばれる地域の中心、仲通商店街だ。特に沖縄の方が住む割合が高く、沖縄関連のお店がいまも点在する。
1986年に誕生したおきなわ物産センターは特にゴーヤーなど、日持ちのきかない沖縄料理に欠かせない食材が充実。沖縄移住者に欠かせないお店となっている。
壮絶だった生活
当時の沖縄は貧困地域だった。彼らの鶴見移住は1900年代から行われ、特に高度成長期の1960年代は多くの移住者がやってくる。
この結果、日本有数の沖縄人の集合居住地ができていった。
しかし言語など諸々の問題で大多数の沖縄移民は、過酷な肉体労働に汗を流す。
工場の廃液毒物などの危険物をタンクローリーで運ぶ作業など、3K(きつい・汚い・危険)の仕事に就くことが多かった。
また沖縄人の三線もかつては禁じられて楽しみも少なく、ひたすらきつい労働に耐えた。
そもそもなぜ沖縄の移住者は一つに集まったのか? それは、みんなで集まらないと生きていけなかったからという。
鶴見地区では沖縄県人が戦後、自らが仕事を興していきながらも銀行が相手にしてくれなかった。
なので小口金融のための「モアイ」という沖縄独特の自給自足の組織が発展し、自然と集まって住んだ。
差別に耐えた移住者たち
沖縄人に対する差別は目に見えて存在し、「沖縄人お断り」の貼り紙を出す店まであった。
1960年代まで、沖縄出身者は就職も進学も、家を借りるにも、差別や言葉の問題などでむずかしかった。
だから集まって、支え合って生き抜いたという。
命を丸ごといただくソウルフード
物産センターの奥には軽食が楽しめる「ゆうなの花」がある。ここで頼んだのは、ベタだが「ソーキそば(750円)」。食べるのは人生初である。
豚のうまみが骨の髄まで染みわたるようなおいしさのスープが麺に絡み、実においしい。
お肉も非常にやわらかく、軟骨までムダにせずおいしくいただける。「鳴き声以外はすべて食べる」と言われる、沖縄の精神が宿った文字通りのソウルフードだ。
独特の食感の麺もいつまでも噛んでいたくなる。大満足で完食した。
ご主人によるといま沖縄出身の一世は徐々に姿を消し、二世・三世が中心になっているとの話だった。
川崎競馬場は沖縄の女性が働いた紡績所だった
鶴見から京浜東北線で一駅の川崎駅へ。駅のある川崎区界隈も、沖縄からの1万人もの移住者を受け入れた街だ。
川崎といえば、競馬好きなら血が騒ぐ「川崎競馬場」。
ここはもともと富士紡績の工場があり、沖縄から出稼ぎに来た女性工員が1日12時間とも言われる激務に耐え抜いたとされる。
当時を知る方に話を聞くと、昔は沖縄出身者と内地の人間の交流はあまりなかったそう。
沖縄料理屋などもよくあったが、そこに内地の人はあまり行かず、もっぱら沖縄人専門のお店のようになっていた。
結婚するにも障害があり、内地の男性と沖縄の女性が結婚する分にはまだよかったが、沖縄の男性と内地の女性が結婚する場合は、なかなかスムーズに行かなかったとか。
なお現在、川崎競馬場では沖縄関連のイベントがよく行われ、当時をしのばせるほか、2018年からは「川崎沖縄県人会杯」なるレースも開催されている。
JR川崎駅前の「石敢當」
川崎駅近くはさすが150万都市のターミナル駅で近代的な町並み。そこの中にあってちょっと目立つ「石敢當」と書かれた石碑がある。
もともと沖縄はたびたび飢饉に襲われた地域。地理的な不利に加え、当時沖縄にあった技術では、農作物を安定して生産することはむずかしかった。
そのため、飢えのあまり毒性のソテツさえ食べて飢えをしのごうとする「ソテツ地獄」が何度も起きた。
飢饉は戦後も続き、1966年にも多くの台風のため同じ事態に陥った。
そのときに手を差し伸べたのが、多くの移住者を受け入れてきた川崎市だった。さらに命の恩人へのお礼として、宮古島から送られたのがこの石碑だったのだ。
沖縄の心の武道「空手」が盛ん
なお鶴見~川崎あたりを歩いていると、空手道場が目に付く。
沖縄が発祥ともされる空手は当地で非常に愛されている。
もともと安室奈美恵率いるスーパーモンキーズ(後のMAX)は全員が琉球空手の初段であり、最初は「空手少女」として登場していた。
ほかGACKT、二階堂ふみ、ガレッジセールのゴリや山田親太朗らも経験者である。
ここ川崎には、極真会館全日本空手道選手権大会で歴代最多5度の優勝を記録した数見肇の道場もある。
川崎出身の彼はいま極真から独立し、沖縄空手を学んで自らの空手道をまい進している。
そもそも沖縄の空手は薩摩藩によって武器を取り上げられた琉球人が素手で生み出した「反抗の武術」だったとの説も叫ばれ、大きな権力を前に苦しめられた沖縄の人を象徴するような武道だった。
ふつうのスーパーにも沖縄商品が
沖縄商品の専門店だけではなく、ふつうのスーパーにも沖縄系商品がいくつかある。
沖縄出身の南米移民のためのお店も多い
さらに沖縄出身の方が南米に渡り、そして日本の鶴見に戻ってくるケースがどんどん増えている。
そのためブラジル料理などを出す店が多く、中には沖縄料理と両方出すお店もある。
沖縄で無くなっていくものが、残っている
さらに鶴見で大事にされているのが、「角力」と言われる沖縄相撲。
モンゴル相撲に近い格闘技で沖縄でも年々失われ、同じく沖縄県民の主要な移住先だった大阪でも見られなくなった武道だ。
しかし鶴見では毎年7月下旬に大会が行われ、いまだ愛されている。
その他料理についても、鶴見では沖縄では少なくなる傾向らしい「豚の尻尾」を使った料理などがまだ残る。
沖縄と二拠点生活を送るライターの藤井誠二氏も「沖縄ではあまり見なくなったベタなものが残っている(散歩の達人2019年2月号)」と語る。
君津に昔の北九州式ラーメンが残っているように、大移住があった土地には本場でも失われたものが残りやすいのかもしれない。
沖縄料理屋で飲む
最後はやはり沖縄料理屋さんでしっぽり飲もう。
「八ちゃん」は沖縄出身者の女性店主によって生まれ、今では主にその二世の方がお店を切り盛りする。
色とりどりの沖縄料理が楽しめるこのお店で、食べたかったのは焼きそば(800円)だ。
沖縄のやきそばはアメリカの影響でケチャップ入り、しかも沖縄そばの麺だ。
おいしい沖縄料理とおいしいお酒でいい気持ちになり、隣のお客さんや店員さんと語り合う。
沖縄から南米へ渡りまた日本に舞い戻ってきた人もいて、カラオケで沖縄の歌を繰り返し歌っていた。
彼に聞けば、南米にいたころは沖縄をずっと恋しく思い、「三線の音が聞こえると涙がこぼれた」と語る。
日本一の野球熱を持つとする沖縄。かつて昼営業も行っていたころは、1991年の決勝戦もみんなで応援した。沖縄水産高校、大野倫投手が選手生命と引き換えに手負いのカラダで投げたあの試合だ。
時間が深くなるにつれ、お店は混んできた。活気ある男性4人組も入店してにぎわう。
聞くところによるとこの界隈もかつては映画館が4つもあった。仲通りももっとたくさんの沖縄関連のお店で賑わっていたそうだ。
さらにカラオケを勧められた僕は、沖縄出身でもないのに「島人ぬ宝」を熱唱。楽しい気持ちに包まれたまま、2900円を払って僕はお店を後にした。
遠い横浜まで旅した者たち
戦後しばらく沖縄はアメリカに統治され、自由に人が行き来できない時代が続いた。この鶴見も沖縄の現地人にとって非常に遠い存在だった。
そのため、生き別れた生みの親を探しに、丸太船で不法入国する沖縄人も見られた。
彼は途中で捕らえられるものの、アメリカ人の担当者は温情処置を出し、「母親は必ず探してやる」と彼に伝えたという。
そして沖縄から遠い旅をして横浜へたどり着いたものがもう一つある。ユリだ。特に沖縄原産のテッポウユリは、横浜港から輸出する花形商品となった。
そしてまだ沖縄出身者に対する差別が目立つ1951年、神奈川県民の投票によって、そのユリの仲間であるヤマユリが日本初の県花に指定されたのだ。
沖縄は憧れの存在になった
そしてその後。具志堅用高のボクシング世界王座防衛世界新記録(V13)、安室奈美恵やSPEED、BEGINなどの沖縄出身音楽スターの輩出、ちゅらさんブームなどを経て、沖縄は逆に日本人憧れの存在となっていく。
沖縄料理屋は日本中の街で当たり前の存在になり、むしろ沖縄へ移住する内地の人も目立つようになった。
やっと日本人は沖縄への偏見を捨て、その魅力を見つめられるようになれたのだ。
沖縄のもう一つの歴史とおいしさが味わえる街
1日中この界隈にいたが、この街の深部は1日いたぐらいではわかるわけがなかった。
それぐらいの歴史と魅力を持った街だが、ぜひ気軽に来てみるのもいい。いろいろ思うのもいいし、頭をカラッポにして来ても楽しむのもいい。
ここで食べた沖縄料理はすべてウマかった。ぜひ来て味わって欲しい。
参考文献
・横浜 鶴見沖縄県人会史(横浜・鶴見沖縄県人会/230クラブ)
・「川崎・鶴見・東京」ウチナーンチュ100年(屋良朝信/Awawa)
・散歩の達人(2019年2月号)
・鶴見区史(鶴見区史編集委員会 )
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