楽しそうでいいなと思ってもらえればいい
目をつぶって思い出してください。
まだ気兼ねなくお出かけできたあの頃、大きめの公園に行くとそよ風とともに楽しげな音楽が聞えてくることはありませんでしたか。
音が聞こえる方向を見やると人々がにこやかに楽器をかき鳴らし、音楽を楽しんでいませんでしたか。
はい、思い出せましたね。それをやっていきます。
早速公園などで楽しげに楽器を奏でられればと思うのだが、私はそこまで楽器に詳しいわけではないためいい感じのメロディを奏でる自信がない。
そこで様々な楽器をなんとなく鳴らしてみて、どれだけぱっと見で「外で楽器を弾いていて楽しそう」に見えるかどうかをみていきたいと思う。
もうすでに音楽の本筋から外れている気がするが、まずは形が大事なのだ。
楽しそうだなと思ってもらえるかどうかには第三者の目線が必須である。今回は友人らを招集し、私が楽器を弾くさまを評価してもらうことにした。
複数人で楽器を持ち寄ればいい
さっそく公園に移動し、順番に演奏するさまを見てもらおう。
トップバッターはカリンバである。
カリンバは私の中でいきなりの大本命である。
なぜならカリンバこそが、私がピクニックに行った際に楽しげにかき鳴らされていた楽器であるからだ。そのあまりの羨ましさに帰りしなに慌てて買ってしまったのがこのカリンバであるからだ。
いわば模範解答である。間違いなく楽しそうで羨ましいに違いない。
「孤独だ」「ゲームボーイをしているのかと思った」との声があがった。
おかしい。確かにこの姿は携帯ゲーム機を熱心にプレイする少年そのものである。
自分なりにきちんと演奏すべく鍵盤に集中したのがよくなかったのだろうか。目線でも外してみようか。
どうしてだろう、前に見かけた時はあんなに楽しそうだったのに。
「一目で楽器だと分かるものの方がよいかもしれない」という西島さんのアドバイスに従い、ここは大人しく別の楽器に持ち替えてみるとする。
アルトリコーダーは中学高校で多くの人の手に触れている楽器である。これならば一目で楽器と分かってもらえるはずだ。
大本命をいきなり外してしまったのでその他の楽器もいまいち自信がなくなってきたが、とりあえず吹いてみる。
「リコーダーを吹いている」と竹中さん。その通りである。その通りなのだが、それ以外の感想が出てこないということは楽しそうに見えていないということなのだろう。
リコーダーの音色を耳にした公園内の人々がこちらを振り返る。
「そよ風にのって音楽が聞えてくる」「聞えてきた音の方向を見やると楽器を演奏している人がいる」までは達成できているのだが、心なしかその視線は冷ややかだ。
よく考えてみれば、大きめの公園などで楽しげに楽器を鳴らしているのは親子であれ友達同士であれ、ほとんどが複数人のグループである。
きっと1人でも楽しげに見えることは可能なのかもしれないが、それには十分な演奏技術や演奏者としての雰囲気が必要なのかもしれない。
ドレミファソラシをなぞるだけの若者1人だけで楽しそうに見えようというのがそもそも間違いなのだ。人を増やしてみよう。
アーティストという表現が出た。まだまだ「楽しそうでいいな」という感情には遠いが、これはこれでありそうというところまで近づけたのだ。
公園到着以降全く見えていなかったゴールが少しだけ顔を出してきた気がする。
何がアーティスト然とさせてしまうのかについて協議を行った結果、おそらくは2人が同一方向を向いてベンチに腰掛けていることが原因だということになった。ある種の固さがあるのだ。
わかった。ベンチじゃない、地べただ。人間というのはこうして一つずつ学んでいくものである。
西島さんが「宴会っぽくなってきた」と漏らした。
宴会。楽しそうでいいじゃないか。聞きたかった言葉に近づいてきた。「外で楽器を弾いていて楽しそう」という概念が最寄駅くらいまで近づいているのを感じる。
宴会と言われてしまうのはリコーダーとカスタネットという楽器のチョイスのせいだろう。
なんとなく純粋に楽器を楽しんでいるというよりは酔っ払った人たちの戯れに見えているのだ。楽器チェンジだ。
少しでも音楽に造詣が深い御仁は私が抱えている楽器の違和感に目が離せないだろう。その違和感は正しい。これはベースなので、このように外でかき鳴らすものではない。
だが、これがもしアコースティックギターだったならばかなり正解に近いだろう。そういう意味ではベースであっても「外で音楽を弾いていて楽しそう」は限りなく近づいてきている。もう向こうの角まで来ていると言っていい。
少なくともここにいる3人はギターとベースの違いも満足に分からないので、なんとなくこれじゃないかという空気が湧き出してきた。もうひと押しだ。
これだ。このわちゃわちゃ感が私は羨ましかったんだ。竹中さんも「これは音楽を楽しんでいる様子だ」とご満悦だ。
考えてみれば記事冒頭でも「思い思いの楽器を持ち寄ってセッションしている様子」と書いていたじゃないか。ここまで何をやっていたんだ。大事なのは人だったんだ。
楽器を変えても成立した。楽器を手に人が集まれば楽しそうな空間が完成するのだ。
今持っている楽器同士でうまいことセッションする方法は全く分からないが、あの日私が見た楽しそうな空間は存分に再現されている。これで音を出そうものなら、この公園中の人が帰りしなにカリンバを買って帰ることだろう。
「外で楽器を弾いていて楽しそう」の最大の構成要素は人の数だったのだ。人と外に出て遊ぶことがなかったばかりに忘れていた感覚が今蘇った。
河原は1人で管楽器
ここまで公園で色々と試してきたが、外で楽器を鳴らすといえば公園以外にも河原などが挙げられる。せっかくなので河原でも「楽器を弾いていて楽しそうだな」と思われていくこととする。
到着するや否やどこからかサックスの音が聞こえてきた。先客がいる。しかもおしゃれな先客だ。
繰り返すが誰も楽器に明るくないので、もしセッションを申し込まれたらどうしようと思う。だが先客がいること自体は大変心強い。
まずは公園での経験から複数人でのセッションをしてみよう。
おかしい。先の公園では複数人でセッションしている様子こそが楽しそうな雰囲気の秘訣であったはずだ。悪くはない気がするのだが、何かたそがれた雰囲気が噴出してしまった。
竹中さんと西島さんの感想も先ほどと打って変わってあまり明るくない。ちょっと一人にしてみよう。
2人の時よりはいい感想になってきた。やはり河原は1人の方が馴染むことには馴染むようだ。
ただ鉄道好きの西島さんの気持ちは完全に私ではなく小田急に引き寄せられてしまっている。どうしたら振り向いてもらえるだろうか。
竹中さんと喧々諤々の議論を繰り広げたところ、「トランペットやサックスといい、河原は管楽器の方が映えるのではないか」という意見をいただいた。
その慧眼に脱帽である。我らがアルトリコーダーの出番だ。
これだ。公園ではまったくピンときていなかったアルトリコーダーがここにきての大活躍である。
楽しそうかどうかと言われるとよく分からないが、それ以上にはっきりとした意思を感じる。
誰がなんと言おうと私はリコーダーを吹く。そういった気概を感じるのだ。それ以上に必要なことがあるのだろうか。
河原は公園内とは異なり、1人で管楽器を吹くのが正解であった。今後友人らと楽しく音楽を奏でようという際、人が集まらなかったらこの知見を活用していきたい。
また皆でピクニックできるようになったら集まって楽器でも鳴らしたいね
楽器を外で弾いているのが楽しそうだなと思ったのでまねしてみたのだが、ふたを開けてみればその楽しさは複数人でわいわいと楽器を弾くところから生まれるものであった。
昨今、なかなか思うように人と外で遊ぶことができない世の中である。
もしまた気兼ねなく外に出られるようになったら皆さんも実際に大きな公園に出て、思い思いに笑い合いながら楽器を弾き鳴らしてみてはいかがだろうか。きっと誰の目から見ても楽しく映ることだろう。
今回、そういう真面目な話ということでいいですか。