芸能の世界にはハの字のポーズがあるぞ
ある日SNSに誰かが誰かの舞台を見に行った写真が流れてきて気づいた。この小さく手をハの字にやるポーズってあるなと。
先日ラジオのゲストで呼ばれるという奇跡が起きた。そのときの写真がこれだ。アンガールズの山根さんとアナウンサーの方がハの字で私を立ててくれている。
マスターしておくべきかどうか見極める
ある。確実にある。しかしこれはどういう事情でこうなっているのだろうか。やるとどんなメリットがあるのか。
上品に写る方法だったりはたまた芸能人らしく見える方法だったり、もしかしたら私達のくらしの役に立つことがあるかもしれない。一度この手のハを習得しておきたい。
そして俳優として活動している望月めいりさんに来てもらった。「これですよね!」と
芸能界の端の方でも行われている
今回多少なりとも事情を知る人がいるとよかろうと、映画や舞台の俳優として活動している望月めいりさんに来てもらった。
このハの字のポーズ「そう言われてみると私もするようになってました!」とのこと。やるんだ!
望月さんは特に誰かに教わったわけではなく、映画の出演が始まり舞台挨拶などでゲストを招いた写真を撮られるうちに自然に伝染していったそうだ。
友達の舞台を見に来て一緒に写真に写る時のポーズをして、と言われデイリーポータル編集部の安藤さん(右)は「普通はこんな感じにやるかなー」と望月さんは「指が失礼に当たるんじゃないですか?」たしかに。
どういうポーズなのかを改めて考えよう
このポーズが行われているのは「誰かの舞台を見に行ったとき、出演した誰かと写真を撮るとき」だったり「舞台上にゲストを呼び込んで写真を撮るとき」だったりする。
それはおそらく「私よりもこの人を見てください」という意味であるし、それぞれ「見に行った人<出演した人」「舞台上の出演者<舞台上に来たゲスト」という不等号「<」の形そのままに立場を示したポーズとも言える。
一般的なツーショット写真だがこれだとどちらが「本日の主役」かと考えると差がない。
「私<(よりも)この人」の意味
安藤さんが暮らすIT企業の日常とちがって芸能の世界は毎日が誰かの晴れ舞台であり、そこには「本日の主役」が明確にあるのではないか。そこと並び立つこと自体が失礼な世界ということなのかもしれない。
3人中出演者が1人いた場合はこういうことになる。この場合1人がさぼると
左2人が出演したんだなということになってしまう。決してサボれない
このポーズは人を立てているとするならば
こうした乾杯ジョッキの下に潜り込む仕草があってもおかしくはないが…両方するパターンはあってもここまでは見ない。
阻止しようとした場合はこんな写真になるが見たことはない
なんでハの字?
それではあの手は何を表しているのだろう? 先ほどちらっと話に上がった不等号記号「<」なんだろうか?
だけどこういうパターンもありますよ、と望月さん。思い出した。これある
あの三宅裕司さんと写真を撮る機会があって、「あ、なんかそういうポーズあるな」と思ったのだった。とすると盛り立てるというより「これを見て」という指示なんだろうか。
これを見てのポーズということだったのだろう
この自転車を見てください、でも有効ではあるし
それは人が片側に寄せられても大丈夫である
バレエでも似たような動きありますね、と望月さんは言う。
バレエではこうやって人を飾り立てたりする、と右の望月さん
バレエでは大きく体を作って集団で主役の人を飾り立てたりするそうだ。たしかに扇子でビラビラ~ヒューヒュー!みたいなことはバブル期のディスコだったり大衆演劇などでやってそうなイメージはある。囃し立てるというやつでもある。
とするとこれは人が金屏風のようになる瞬間であり、マンガでいう線がたくさん描かれた背景、集中線や効果線ということなんだろうか。
そうであるなら小さいハの字の意味はなんなんだろう。大きくしたほうがいいんじゃないか。
効果のための線ということならハの字をもっと大きく、頭を頂点にして二等辺三角形を作ってみた。なにか頭にパワーが集まってしまう。安藤の頭がムダによくなっていってしまう感じでよろしくない。
逆に小さいハの字で顔だけを立たせてみたのがこれ。これもよくない。人の顔がピンク・フロイドのアルバムみたいになっているし、真ん中の安藤さんもこれは馬鹿にされている気がするねと。
大きくするのは意味がなかった。パーの手でハの字なのだが、手の形を変えてみたらどう見えるのだろう?
グーでも伝わらないことはないが、劇中のモチーフにそういうのがあるのかな?と別の要素を感じさせる
これがチョキになるとどうも自分が勝ってきてしまう
人を立てつつ自分もキメつつ
手がチョキだとピースだったりふざけたように見えますね、という話になったところで、そもそもなんでふざけてはダメなのかが分からなくなってきた。
これは自分のSNSやブログに載せるものなので楽しくありたいというのもあるだろう。そうだ、こうしたポーズは自分のブログやSNSで使われがちだ。なので自分は美しく見える必要があるのだ。
だけど美しくカッコよく顔を作るとどうしても主役を超えがちではないか。
精一杯キメ顔をした左の人が右の人の舞台を見に来た。このままの写真だと「なんだこのキリッとした人」感が強いが…
手をハの字にするだけでキメ顔がそれほど気にならなくなってくる
このハの字をするとどれだけ顔を決めてもボランティア活動(たとえば街の朝の清掃2週間)に行った感じが出てくる。ボランティア活動に行ってないのにだ。これは驚きの効果だ。
昭和のスター的なポーズも
一瞬で自我が薄くなってきたのではないか。植栽を立てる人だこれは
せっかくの晴れ舞台に立つ人を盛り立てないといけない。だけど自分も美しくないといけない。そうしたときに体の在り方としてこのハの字のポーズがあるのではないか。
ところでこのハの字で自分の存在感が消えるとしたらどこまで前に行っても大丈夫なんだろうか。
それがこちらだ。150cm程度。プラスマイナスが相殺された状態だ
人以外でも有効なのか?
ここでこのポーズは人に対して向けられたものであることに注目したい。望月さんによると「映画のポスターとかに向かってよくこのポーズをします」とのことだった。
人以外のどこまでが有効であるのかを試してみた。
ポスターなどは自然に見える、こうした場所の看板に対しても「この劇場で行われましたよ」なのかなとかなんとなく意味がとれる。こういうのはある。
ではこちらはどうだろうか。自転車が撤去されるところに私達がやってきましたよ、ということなんだろうか。こんな素行の悪い人たちによる晴れ舞台もなさそうだし……これはほぼなさそう。
道路標識、うーむ、こういう舞台のポスターなのかもしれないと思うとぎりぎりある、というところだが
地図になってくると脳が混乱してくる。これはない。盛り立てるには広すぎる。
また、人を盛り立てるといっても、フードコートにいる人を集団のまま盛り立てると目的が見えず、写真自体に狂気が宿ってくる。お前たちは何者なんだ。ない。
動物でもなんとかいける気はするのだが…サイズは重要である。ハトはないだろう。罠にしか見えない。ない。
幹を盛り立てるのは相当むずかしい。狂気やたぬきに化かされた感が出てしまう。なし。
あじさいを盛り立てる人たちはぎりぎりある……いや、ないか。手であじさいを浮かせてる人のように見えてきた。
これが緑の状態となるとかなりの狂気が宿る。ない。
空間となると意味がとれなくなってくる。成立さえ怪しくなってきた。
むしろポストを盛り立てるのはしっくりくるが
送水口となるとちょっと怪しくなってくる。この差はオブジェと人の形がどれだけ近いかによるのだろうか
でかくなってくるとよりないない感が強い。主演、でかい電灯の柱。異常な世界線である
真ん中に神仏を置くのも、「この神仏が出る舞台に来ましたよー」という意味だと考えるとなさそうな写真となる
「滝が主演されるということなので見に行ってきました~」とはならない。でもこの地球において、主役は自然なんですよ。これが本日の言いたかったことです。
どこで使うのがいいのだろう?
大きくハの字を作るポーズはヨガやピラティスの世界では胸や肩の筋肉を伸ばしたり、姿勢を整えたりする効果があるという。私達も小さくハの字を作ることでなにかよいことがあるかもしれない。
たとえばピアノの発表会に行ったとかだ。でもピアノの発表会は全員が主役みたいなものだから自分の子供に立てたところで他の子に悪いだろう。
たとえばお友達の舞台を見に行ったときのことだ。小さくハの字のポーズを作ると、なんだなんだ水臭いな、と言われてしまうのも想像に容易い。
それならばもっと色んな場面でバンバン使ってみてはどうだろうか。私ではない誰か、自己存在を消して、他人を立てる、それは利他的な姿勢とも言えるかもしれない。
だめだ、こんな芸能人みたいなポーズをとる人間はうさんくさくて仕方がない。
私達がこのポーズを生活に取り入れるには、生活を芸能人にするしかない。だとするのならば! だとするのならば、だ! なろう、芸能人に。遅いということはない。芸能事務所が主催しているスクールやワークショップに通って、しこたま授業料を納めよう。そして友人を作り映画や舞台を見に行き、憧れの小さいハの字を作った瞬間に感動して泣き崩れるのだ。ゴールはそこだ!