特集 2013年11月26日

物置からひいおじいちゃんにまつわる資料が大量に出てきた

ひいおじいちゃんの、特にお葬式のときの資料が物置の中の茶箱からわさわさ出てきた
ひいおじいちゃんの、特にお葬式のときの資料が物置の中の茶箱からわさわさ出てきた
祖母宅にずっと前から何が入っているのか分からない物置がある。

10年くらい前に物置自体は取り替えたようだが、中身は入れ替えただけで30年近く広げていないらしい。

近く事情から住居に合わせて物置も取り壊すことになり、いよいよ中身の確認をしたところひいおじいちゃんにまつわる資料が大量に出てきた。

売ったら10万円になった。
東京生まれ、神奈川、埼玉育ち、東京在住。Web制作をしたり小さなバーで主に生ビールを出したりしていたが、流れ流れてデイリーポータルZの編集部員に。趣味はEDMとFX。(動画インタビュー)

前の記事:古い「暮しの手帖」のくらべ記事を調べてみた

> 個人サイト まばたきをする体 Twitter @eatmorecakes

わりとよくあることらしい今回の騒動

今回は取り壊すことになった祖母宅の物置をあけたところ

→古いガラクタばかりが出てきたと思ったら
→昭和7年に亡くなった曽祖父のもろもろの資料が下の方に入っており
→なにやら迫力があるので
→軍事資料専門の古書店の方に見てもらったら
→そこそこ貴重なものであることが判明し
→子孫保管分を除き10万円で引き取っていただいた

というのがその顛末である。

自分ちのことについてこのように書かせていただき恐縮ですが、古書店の方によるとよくある話だそうなので参考にも読んでいただければ幸いです。
これが問題の物置。住居の取り壊し前の大掃除で出たゴミなどに囲まれていた
これが問題の物置。住居の取り壊し前の大掃除で出たゴミなどに囲まれていた

取り壊しになる前に開かずの物置を開けよう

冒頭にも書いた通り物置は10年ほど前に新しくしたものの、中身自体は30年ほど前から全く手がついていない。

父がいよいよ内部を片づけるというので、興味から立ち会うことにしたのだった。

すでにある程度は父が片づけており、大胆に賞味期限をすぎた食品などが出てきていたらしい(ちなみに先日書いた「暮しの手帖」の古い号の数十冊も実はこの物置から出てきたものだそうだ)。
賞味期限が盛大に切れたジュース
賞味期限が盛大に切れたジュース
コンビーフも缶からして古い
コンビーフも缶からして古い
口に入れられる状況ではなさそうだということで、父がすべて中身を出して分別し終えていた。中身は「どろっどろだった」とのこと。オー。

そのほか、古い灰皿や鍋、箱の粉洗剤(アタック的な)などができていていたそうだ。

私が生まれた34年前のカレンダーも

そんなわけで、ガラクタばっかりだから期待はしないでよという父からバトンタッチする形で物置に詰め込まれたものを上からどんどん出していくことに。

最初に出土したのは大皿、小皿、急須と言った陶器類。

ほほう、などとひげをなぜながら一同で古い品々を楽しみつつ片づけていく。
かわいいけれど中が黒く変色(?)してしまっていた耐熱容器
かわいいけれど中が黒く変色(?)してしまっていた耐熱容器
なんか派手な壺
なんか派手な壺
「万葉頒布会」と箱にある陶器類もごっそり出てきた。月々いろいろな陶器が届いていたらしい
「万葉頒布会」と箱にある陶器類もごっそり出てきた。月々いろいろな陶器が届いていたらしい
こちらはクスリなどを量る秤らしい。しらべると「瓢箪秤」というものだった
こちらはクスリなどを量る秤。しらべると「瓢箪秤」というものだった
かと思えば私が生まれた1979年のカレンダーが出てきて泣く。祖母の字だ(生きてます)
かと思えば私が生まれた1979年のカレンダーが出てきて泣く。祖母の字だ(生きてます)
「一同」というのは、古い物好きのライター西村さんと地主さんが来てくれているからです(奥は父)
「一同」というのは、古い物好きのライター西村さんと地主さんが来てくれているからです(奥は父)

徐々に本気で古い物が出てき始める

34年前のカレンダーはさておきおおむねはガラクタである。

西村さん、地主さんには興味のあるだろう古地図や古いガイドブックを持って帰ってもらえるかもと思っていたのに申し訳ない……と焦るころ、徐々に本気で古い物が出てき始めた。
これは……祖母(左)!
これは……祖母(左)!
物置のはじに何にも入れられずに数枚の額縁が立ててあり、そのうちの1枚がなんと現在93歳の祖母の少女時代の写真であった。

祖母は大正9年生(1920年)まれ。その少女時代ということは1930年代の写真か。
こんな写真が残っているとは思いもしなかったとのこと(物置の奥の方は亡くなった祖父が管理していて祖母は内容をほとんど知らなかったそう)
こんな写真が残っているとは思いもしなかったとのこと(物置の奥の方は亡くなった祖父が管理していて祖母は内容をほとんど知らなかったそう)
しかも祖母、「この隣の子、幼馴染なんだけど女優になったのよ。SKD(松竹歌劇団)に入ってたの。朝霧鏡子さん」というじゃないか。

女優さんの知り合いがいたなんて知らなかった。西村さんがさっと検索すると1999年に亡くなる直前まで映画にも出演していたようだ。遺作は井筒和幸監督の「のど自慢」。おお、その映画知ってる。

「本名は水谷小夜子さんって書いてあります」と西村さんがいうと、「そうそう、さよちゃんって呼んでたわ」と祖母も懐かしそうだった。

この写真が出て、一同の間に少し物置の内蔵物への希望の空気が流れ始めた。
この下にも何か写真があるみたい!
この下にも何か写真があるみたい!
って、開けたらナポレオン(額縁にもともと入ってたやつですな)
って、開けたらナポレオン(額縁にもともと入ってたやつですな)
おじのボーイスカウトの賞状もあった。デザインがかっこい
おじのボーイスカウトの賞状もあった。デザインがかっこいい
続いての木箱をばこっと開けると浦島太郎の玉手箱風の箱が
続いての木箱をばこっと開けると浦島太郎の玉手箱風の箱が

ご先祖登場

この箱の中身、あけてみるとどうもいわゆる「お形見」のようだ。
もんぺの型、赤ちゃんの靴下、めがね、肩章やら
もんぺの型、赤ちゃんの靴下、めがね、肩章やら
祖母に聞くと誰のものかわからないという。品物からして一人の遺品ではなく、いろいろなご先祖の詰め合わせのようだ。豆菓子風に言うとご先祖アソートだ。

どうも亡くなった祖父が受けついでそのまましまってあったものらしい。
家計簿!
家計簿!
一冊入っていた手帳は見ると家計簿のようだった。昭和8年の10月からはじまっている。

めくれば日々きちんとつけるというよりも思い出したときにきまぐれにぽつりぽつりという感じで昭和25年までつけられていた。

激動の時代につけられたものだと思うのだが、罫線を無視して自由に書いたり大きくページを飛ばして最後のページにみっちり書き込むなど自由な書き方である。

この適当さ……子孫は私で間違いない!
めがねはつるが長かった
めがねはつるが長かった
使っていた本人にかなり似ているのではという写真が撮れた
使っていた本人にかなり似ているのではという写真が撮れた
これまで出てきた食器や道具は確かに古いとはいえ、あまりその古さに実感がわかなかった。

だがこうして直筆の文字や身につけていたものが出てくるとさすがにその古さが身にしみる。古さがリアルだ。

私も過去と繋がっているのだという実感がじりじりする。何か、たぐりよせる紐のようなもので繋がっている感じがあった。

そうか、これが血か。

茶箱から大量に曽祖父が

いまや誰か分からなくなってしまったご先祖に対してしみじみしつつ、ここからが私にとってはさらに怒涛であった。

物置の一番下の大きな茶箱。この中身が全部曽祖父に関する資料だったのだ。
この大きな箱に
この大きな箱に
どっさりと
どっさりと
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ほとんどが亡くなったときの記録

ここで「曽祖父」というのは私の父方の祖父の父にあたる人である。昭和7年に戦死している。

古賀伝太郎といってなにやら戦時中に有名になった人らしく、いつかの親戚のあつまりで「伝太郎さん、ウィキペディアに出てたわ~」「へえ~そりゃあそりゃあ~、でウィキペディアってなに?」といった具合で名前があがっていたのは小耳にはさんでいた。

そのまま「へえ、ウィキペディアに~」くらいの知識しかなかったのだが、身近な祖母宅の裏の物置にまさか大量の資料があるとは。
こちらが曽祖父、古賀伝太郎です。私もきちっと写真を見たのは初めてのこと。こ、こんにちは…。ひ孫の及子は元気です
こちらが曽祖父、古賀伝太郎です。私もきちっと写真を見たのは初めてのこと。こ、こんにちは…。ひ孫の及子は元気です
職業軍人で満州事変のころ劇的な戦死をとげたらしく、ずいぶん手厚く悔やまれたようだ。

祖母によると亡くなった現地と、出身地の佐賀、東京の3ヶ所で葬儀が行われたそうでそりゃあ記録資料も大量になるというものだ。
葬儀の様子が記録された写真アルバム
葬儀の様子が記録された写真アルバム
記録は手書きの巻物にも。絵がかわいい
記録は手書きの巻物にも。絵がかわいい
「記念巻物」という木箱には…
「記念巻物」という木箱には…
巻物になった弔電が大量に保管されていた
巻物になった弔電が大量に保管されていた
こんな感じでびっちり張り込まれている。この作業はマメだった祖父がやったのではと祖母(伝太郎さんが亡くなった当時、祖父は14歳だ。若くしてものすごいマメさ)
こんな感じでびっちり張り込まれている。この作業はマメだった祖父がやったのではと祖母(伝太郎さんが亡くなった当時、祖父は14歳だ。若くしてものすごいマメさ)
奥さん(私にとっての曾祖母)の古賀房子宛のお悔やみの手紙や写真も大量にあった
奥さん(私にとっての曾祖母)の古賀房子宛のお悔やみの手紙や写真も大量にあった
戦死したときの様子が載ったことで贈呈されたらしい雑誌
戦死したときの様子が載ったことで贈呈されたらしい雑誌
亡くなったときのことや葬儀の様子などを伝える新聞記事のスクラップも巻物になってこれまたたくさん(おそらく祖父製)
亡くなったときのことや葬儀の様子などを伝える新聞記事のスクラップも巻物になってこれまたたくさん(おそらく祖父製)
戦死をテーマにした長唄に
戦死をテーマにした長唄に
絵葉書
絵葉書
いよいよかというところでは銅像やら記念碑も立ったらしい。なんだなんだ
いよいよかというところでは銅像やら記念碑も立ったらしい。なんだなんだ
このころは「軍神」とも呼ばれていたそうでひいおじいちゃん、なんだかどえらいことになっていた。

そんなつもりないのに急に「ファミリーヒストリー」がはじまってしまった。

保管できるひとー!

新聞に載ったりなんだりというのは時代が時代だったから、ということなのだとは思うが何にせよ家族にとっては先祖にまつわる品々だ。

ぜひとっておきたいのだが資料が茶箱1杯分、そのほかに亡くなる以前のものも追加でぼろぼろと出てきている。

狭小住宅に住みこれからもその予定の私や父にもちょっと保管できる量ではない。
任命書(かたくていいい紙)も明治から昭和にかけて箱に入ってずいぶんあった
任命書(かたくていいい紙)も明治から昭和にかけて箱に入ってずいぶんあった
褒章の記、このサイン明治天皇の直筆じゃろうか
褒章の記、このサイン明治天皇の直筆じゃろうか
軍服(外套)まであってもうどないしたら
軍服(外套)まであってもうどないしたら
と思ってとりあえず着たらぴったりでびっくりした
と思ってとりあえず着たらぴったりでびっくりした
祖母によるとすでに叔父に保管してもらっている物もあるそうで、あとは可能なところを父や私やきょうだいで保管するのがよさそうだ。

写真などこれは、というものをより分けた。

それで残ったものについてだが、さすがに捨てることはできない。ちょうど西村さんが古地図を探すので行きつけの古書店が軍事資料も扱っているということだったので教えてもらった。

連絡を取ってみると、ものによっては引き取ってくれるという。

「ファミリーヒストリー」かと思いきや、さあここからは「開運! なんでも鑑定団」がはじまりますよ。

節操もなくNHKからテレビ東京へチャンネルを変えて先へ進みます。
鑑定団の団員(そいういう呼び方しないか)として神保町の秦川堂書店より永森さんご登場です
鑑定団の団員(そいういう呼び方しないか)として神保町の秦川堂書店より永森さんご登場です
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値段の検討がつかなさすぎるわれわれ

「茶箱1つ分くらいであればできれば宅配便で送っていただければ見ますよ」というところを無理にお願いして(ありがとうございます!!)古書業この道15年の永森さんに祖母宅まで直においでいただくことができた。
分かる範囲でジャンルに分けて広げておいた。ライター西村さん(右)は古いものが好きすぎてこの日も来てくれています
分かる範囲でジャンルに分けて広げておいた。ライター西村さん(右)は古いものが好きすぎてこの日も来てくれています
祖母や父は、古書店に引き受けてもらって追々誰かに役に立ててもらえたらもうお金はいいというスタンスだ。

しかし「お金はいい」という前にお金になるものなのかどうかがまったく分からない。

普通に考えて、ウィキペディアに載っていたとしてもたとえば友人のひいおじいちゃんの弔電とか大量にいらないだろう。どちらかというと私などは0円派であった。
さくさくと全体を見ていく
さくさくと全体を見ていく

思い出される黒歴史

実は祖母と私には古書店に対し恥ずかしい思い出があるのだ。

10年ほど前だろうか。祖母宅で幅を利かせていた大叔父の古書(概ねが純文学)を処分しようということになった。

作家の全集が5揃いくらいと、古い文庫本が大量にあった。

なんか古いし値が付くんじゃないのかね?! とわざわざ古書店の方にきてもらったところ、どうにも買い取りかねるといわれてしまったのだ。
今回、あのときのことを久しぶりに祖母とともに思い出してまたしょんぼりした
今回、あのときのことを久しぶりに祖母とともに思い出してまたしょんぼりした
なんとかと頼んで1000円で全部持って行ってもらえることにはなった。あんまり私達がしょんぼりしているので同情してくれたのかもしれない。

どうも全体的に価値のないものや状態の悪いものばかりだったようだ。

あのときもらった1000円のぴらっとした頼りなさを思い出す。
そんなことを思い出していたら西村さんが資料のなかから真っ黒で古そうな5円玉を見つけた。しかし平成元年のもの。なに…
そんなことを思い出していたら西村さんが資料のなかから真っ黒で古そうな5円玉を見つけた。しかし平成元年のもの。なに…

「すげえ……」

そうして祖母、父、私はなにもいい出せず永森さんを眺めるかそうでなければ黙ってまた資料を見たりぼんやりしていた。

一方、純然たるギャラリーとして参加している西村さんは自由だ。

「いくらくらいになりますかね」
「値ってついたりするんですかね」
「これなんか、どうですかね」

ちょっかい出しまくりである。
自分が気になる部分の解説まで求めるアグレッシブさ
自分が気になる部分の解説まで求めるアグレッシブさ
しかし永森さんもはっきりとした答えは出さず、かといっていい加減な受け答えをするわけでもなく、なにか上手にかわす感じである。

いよいよ、どうなのかが分からない。

しかし、15分くらいしたあたりだろうか。その永森さんがぼそっと、確かにこういったのだ。

「すげえ……」
あの後、さらにこまごましたものの出てきていた。生命保険の領収書とか(これに対して「すげえ…」っていったわけではないです)
あの後、さらにこまごましたものの出てきていた。生命保険の領収書とか(これに対して「すげえ…」っていったわけではないです)
あれ、いま「すげえ…」っていいました?! ぼそっと独り言で「すげえ…」っていいました?!

全く期待していなかったのだが、もしかしてもしかするのだろうか。

だって独り言で「すげえ…」って、マンガでいったら主人公が何らかの超絶プレーをしたのを見たザコキャラがいうセリフですよ!

このセリフを聞けただけで正直私としては大満足といっても過言ではない。満腹だ。寝ていいですか。

もうしばらくかかりますので 1932年~33年ごろの東京陸軍幼年学校の写真をご覧ください

さて、うっかり横になりそうなところだが上体を起こそう。その後もしばらく永森さんによる検分タイムは続いた。

待っているだけなのも手持ちぶさたですし、この合間に今回あわせて出てきた亡くなった祖父(伝太郎さんの息子ですな)の手による1932年、14歳のときに入った幼年学校時代の写真アルバムをご紹介します。
左が祖父(それにしても知らん家のひいおじいちゃんやらおじいちゃんばかりが出てくる記事で重ね重ね恐縮です)
左が祖父(それにしても知らん家のひいおじいちゃんやらおじいちゃんばかりが出てくる記事で重ね重ね恐縮です)
運動会の写真。フランス班、ロシヤ班、というのは外国語の専攻ごとに学年縦割りでチーム分けされていたのだそう
運動会の写真。フランス班、ロシヤ班、というのは外国語の専攻ごとに学年縦割りでチーム分けされていたのだそう
祖父はロシヤゴ班だったらしく、この運動会では負けた模様
祖父はロシヤゴ班だったらしく、この運動会では負けた模様
「職員ノ釣上ゲ競争」とあった。バケツやら浮き輪やら味噌樽やらを釣竿で釣る競技か
「職員ノ釣上ゲ競争」とあった。バケツやら浮き輪やら味噌樽やらを釣竿で釣る競技か
マンガ競争……?!
マンガ競争……?!
先生をおぶって走るらしき競技もあった。おんぶされているのは校長さん
先生をおぶって走るらしき競技もあった。おんぶされているのは校長さん
校長先生、「水泳地」ではこのような立派な写真もあった
校長先生、「水泳地」ではこのような立派な写真もあった
生徒のみなさんも体の良さがハンパない
生徒のみなさんも体の良さがハンパない
全員どうかという笑顔。「あとの戦争で亡くなった方もだいぶいらしゃったわね~」という祖母のひと言で我にかえる
全員どうかという笑顔。「あとの戦争で亡くなった方もだいぶいらしゃったわね~」という祖母のひと言で我にかえる
祖父は元気なうちは毎年必ず一冊は写真アルバムを作っていた。添えられたコメントの文字も美しく私は祖父が作った一族のアルバムを見るのがいまも大好きなのだ。

あの達筆さ、マメさは子どもの頃からのものだったのか。

じゅ、10万円

さて、しみじみしている間に永森さんも出土品の全体を見終えたようである。

まずありがたかったのは、こちらで必要のなもの以外の全てを引き取っていただけるということ。

個人的な写真や形見の類はすでに除いてあったが、電報や書類が引き取ってもらえるとは。
これからはちゃんとしたところで保管してもらえるかと思うとありがたい
これからはちゃんとしたところで保管してもらえるかと思うとありがたい
そして、すでに冒頭でも書いたとおり驚くべきことに引き取り金額が10万円だったのである。

これは資料が資料としてまとまっていること(葬儀のものが写真も書類もきちんとひとまとまりになっている)が大きかったようだ。これ、間違いなくマメだった祖父のおかげである。

研究者の方や趣味で明治末期から昭和初期のことを調べている方に需要があるらしい。
この金額には祖母も驚いてへなへな~っとした
この金額には祖母も驚いてへなへな~っとした
役立つ形で引き受けていただけたらお金はいいですから、といっていた祖母と父だったが、いざ10万となるとやはりうれしそうで、よかったよかった、である。
受け取った現金、どこへ行ったかと思ったらお仏壇に上がっていた
受け取った現金、どこへ行ったかと思ったらお仏壇に上がっていた

最後に判明する有名な禿頭

ちなみにずっと外野を固めてくれていた西村さんもせっかくだからということで資料の一部、古書的にはあまり価値がないといわれていた新聞記事の切り抜きの巻物を引き取ってくれ、しかも自宅でちゃんと読んだそうだ。

どこからわくんだそのエネルギー。しかしありがたい。

そして一番の見どころとして以下のように報告してくれた。この西村さんのメールが私にとっての今回の物置騒動を締めくくるものとなったのでここに転載して本稿を終えようと思います。

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古賀連隊長(伝太郎さんのこと※古賀注)は士官学校時代から髪の毛が一本もなく「禿さん」として有名だったそうです。

「古賀聯隊長(こがれんたいてう)は有名なヤカン頭で一夜岡野さん(※救援に赴いた横浜での宿泊先)の座敷でぐつすりねこんでゐた處(ところ)眞暗闇のため副官にヤカン頭を踏まれビツクリして飛び起き「こんな明るい電燈(頭)を踏むやつは誰ヂヤ」と怒鳴り一同を大笑ひさせたといふ挿話もある」
確かに最初に写真を見たときから毛がないなあとは思っていた
確かに最初に写真を見たときから毛がないなあとは思っていた

物置、すごい

物置のガラクタにおもしろいものがあったらともくろんではいたものの、こういうことになるとは思わなかった。

10万円が舞い込んだり、全く知らなかった曽祖父の人生や祖父、祖母の若いころにふれたりいろいろあったが、今だに当時のことをなんでもよく覚えている祖母の口から改めて昔のことを聞けたのが一番よかった。

でもこれだけなんでも覚えている祖母がなんで賞味期限切れ切れのジュースを後生大事に保管していたのかも不思議なのだった(気持ちは分かるけど)。
祖母宅の花瓶代わりのマグカップが20年以上前の合併で現在はその名前のない太陽神戸銀行のノベルティだった。なにしろ全体的に古い
祖母宅の花瓶代わりのマグカップが20年以上前の合併で現在はその名前のない太陽神戸銀行のノベルティだった。なにしろ全体的に古い
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