商店街は駅前にある
最初に、商店街が駅前にありがち、ということの例をいくつか紹介したいと思う。
学芸大学駅
東京、東急東横線の学芸大学駅を降りると、そこはもう商店街の真ん中だ。
学芸大学東口商店街
地図で見るとはっきりわかる。真ん中を上下に走るピンク色が駅、左右に延びる青色が商店街だ。まさに駅前商店街になっている。
もう1つ見てみよう。
江古田駅
西武池袋線江古田駅も、駅を降りるとすぐ商店街が続いている。
同じようにピンク色が駅、青色が商店街だ。商店街は駅前にあり、駅前は商店街からなっている。
みんなの最寄り駅はどうだろう?商店街は駅前通りが中心になってないだろうか。
へんな商店街がある
ところが、ぼくの家の近所の「田端銀座」はなにか妙だ。
田端銀座という名の商店街
なにがおかしいって場所がおかしい。田端銀座なのに田端じゃなくてほぼ駒込(隣駅)にある。田端駅からはすごい遠い。
中央やや左の青い線が田端銀座だ。右に見えるピンクの田端駅より、左の駒込駅のほうが近い。そしてどっちからもそこそこ遠い。
なんでこんな不便なところに商店街があるのか?
街の専門家に聞いた
その疑問を街の専門家に聞いてみたのだ。
答えてくれたのは
中川寛子さん。住まいと街の解説者として、街選びなどの本や記事をたくさん書いている人だ。
こういう東京の模型を見ながら聞きました。
駅から遠い商店街の理由1:古い駅は街の外れに作られた
じつは古くからの田端の中心は田端銀座から坂を上った辺りにあって、田端駅は後から街の外れに作られたのだ。
なんでかっていうと当時の蒸気機関車が通ると街が煙だらけになるから、あんまり街の真ん中を通って欲しくなかった。
関東大震災時の田端駅
新宿もじつは同じだ。古くは新宿二丁目のあたりが新宿の中心だったのでかなり西の外れに新宿駅を作ったら、だんだんそっちが街の中心になってしまった。
いっぽう田端駅は今でもあまり街の中心という感じがしない。北口は唯一駅前の華やかさがあるものの、それ以外はご覧の通り。
南口は山手線随一の素朴さだし
西口は衝撃的な切り通しでその間お店もない
駅は街の中心というイメージがあるけど、意外とそうでもないようだ。
駅から遠い商店街の理由2:川跡由来
田端銀座のある辺りは、むかし川がとおっていた。
左下の道が川の跡。商店街は右上にむけて直交。
地図では緑色がむかし谷田川という川だった。それが大正から昭和にかけて幅の広いりっぱな道になり、その上にお店が並んでいった。
そういう経緯で作られた商店街は谷田川だけでもいくつかある。
谷中ぎんざ。いつもネコが階段に座ってる。
霜降(しもふり)銀座
霜降銀座は、歩いてみると分かるけど最寄りの駒込駅からそこそこ遠い。
まんなから左上に延びる青いのが霜降銀座。下の駒込駅からはちょっと歩く。
でも以前は商店街の入口に霜降橋という都電の駅(電停)があったので、じつは駅チカ商店街だったのだ。
理由3。都電がなくなったために駅から遠くなった商店街もある。これも中川さんの教えだ。
駅から遠い商店街の理由4:街道沿い
次の例はまず地図を見てほしい。
こちらは品川。どちらも、駅からも大通りからも微妙に離れたところを商店街が長く続いている。
これは街道沿いの宿場の名残りの商店街だ。ひとつめは中山道。ふたつめは東海道。
品川のほうを見に行ってみよう。
品川駅を出発
しばらく行くと
北品川本通り商店会に入る。
ここは東海道の宿場だった品川宿のあった場所。品川宿のことは品川駅ともいったので、むかしは品川駅といえばこっちだったのだ。
街道の名残の立派な松も立っている。
こういう商店街は歴史が古いだけに、とんでもなく古いお店が残っていたりする。
丸屋履物店(手前)、慶応元年(1865年)創業。
加藤畳店(湊屋)、宝暦11年(1761年)創業。
ただし地元の方によると、このところは古いお店もどんどん畳んでしまって、この2店くらいしか残っていないとのことだ。
ちなみに昔は品川宿ぎりぎりまで海がせまっていた。
当時の浮世絵にも残ってる
その名残りがこの傾斜
商店街の道から横へそれる道は結構な角度で下っている。その先が海だったのだ。
駅から遠い商店街の理由4:職住近接
働く人が電車を使わずに直接職場に行ける街の場合も、商店街は駅から遠くなりうる。
横浜市の鶴見区にある、沖縄タウンと呼ばれる商店街を中川さんに教えてもらった。さっそく鶴見駅から歩いてみよう。
やってきました鶴見駅
沖縄タウンはどこかなー
あれ、地下道に入ったよ
川も渡るのかい
なかなか遠いなー
・・ここ?
鶴見駅から歩くこと約20分。鶴見の沖縄タウンこと仲通商店街は、特に沖縄の雰囲気はない街だった。
左上のピンクの鶴見駅から、右下の青い仲通までやって来た。ザ・ベストオブ・駅から遠い商店街と言えよう。
商店街の入口からさらに5分ほど歩くと、だんだん沖縄のカケラが見えてきた。
100円ローソンに、
ゴーヤ!
そして見えてきたこの一角に、この街の沖縄が凝縮されていた。
おきなわ物産センターに沖縄そば
貼られていた新聞
新聞には、この街が沖縄タウンと呼ばれるようになった経緯が書いてあった。
「横浜市鶴見区には、京浜工業地帯で働き、日本の経済発展を支えた沖縄出身者やその子孫が多く生活している。」(読売新聞 2011.10.16 より)
つまり、沖縄から上京してこの街の工場で働いた人々がいたということだ。
さっきの地図を遠くから見てみる。工場は海側にたくさんある。北側に住む人々が電車を使わずに自転車やバスで直接工場へ向かう、その途中に青い線で見える商店街が出来たということなんだろう。
塩サイダーが気になる
おきなわ物産センターで買ったクリームパンと塩サイダー。
宮古島のクリームパンはみちみちに詰まっていて、宮城島の塩サイダーは甘じょっぱくてうまかった。
私鉄沿線を思い浮かべすぎた
商店街ってとくに私鉄だと駅前にあるよねーと思っていたが、それがじつは偏っていたと分かって嬉しかった。
なお、記事中の説明は中川さんの説明をもとにぼくなりに解釈したものですので、間違いがあった場合はすべてぼくの責任です。中川さん自身によるより包括的な考察が
「首都圏の商店街はなぜ低地にあるのか」という記事に公開されていますので、ぜひそちらもご覧ください。
お散歩の講師をします
江戸時代の海岸線に沿って地形を見ながらする散歩の講師をします。