新宿新都心に残る淀橋浄水場の残滓
明治31年(1898年)に運用が開始された淀橋浄水場は、昭和35年(1960年)に東村山浄水場が完成すると共に機能を移し、その後まもなく昭和40年(1965年)に廃止された。
その跡地は新宿新都心として再開発がなされ、今に見られる超高層ビル群へと姿を変えたのだ。
今や東京の代名詞となった新宿新都心の風景
広大な貯水池の跡地には摩天楼が聳え立ち、浄水場であった頃の面影は見られない。
……とはいえ、当時のものが全く残っていないというワケでもない。三角ビルという愛称で知られる新宿住友ビルディングの敷地には、淀橋浄水場で使用されていた制水弁がモニュメントとして残されている。
中央通りから少し奥まった場所に鎮座する制水弁
排水用に使われていたらしく、その直径は1メートル
関東大震災後の施設再整備の際に導入されたものだそうで、昭和12年の印がある
赤煉瓦張りの壁に囲まれた中、無骨ながらもカッコ良い鉄の管がなかなかの存在感を醸している。
ただ、場所が少々分かりにくく、もう少し人目に付きやすい場所に置いた方が良いのではないかと思うが……人の往来の邪魔になっちゃうのかな。
さて、新宿新都心にはこの制水弁の他にもうひとつ、浄水場時代の遺物が残されている。
都庁の裏手に広がる新宿中央公園
園内には富士見台と呼ばれる築山が存在するのだが――
その頂上に建つ東屋が、旧浄水場時代のものなのだ
この東屋は見た目通り六角堂と呼ばれており、明治39年から昭和2年の間に建てられたものと考えらえている。浄水場時代から残る現存唯一の建造物だ。
元は浄水場の見学施設だったとのことで、浄水場を訪れたビジターはこの六角堂から貯水池を眺めていたことだろう。
よくよく見ると、公園の東屋にしては装飾が凝っていたり、古いモノであることがわかる
東屋へ至る飛び石も、浄水場で使われていた煉瓦を再利用しているという
新宿新都心へと一直線上に続く「水道道路」
淀橋浄水場の遺構を確認した上で、いよいよここからが本題である。
浄水場へと水を引き込んでいた水路の跡は、現在は都道431号線となっている。そのルートは、実際に地図で見てもらうのが手っ取り早いだろう。
江戸時代に掘削された玉川上水は地形に合わせてくねくね蛇行しているのに対し、明治時代に築かれた水道道路はまるで定規で引いたかのように一直線だ。
土木技術がより発達した明治時代には、地形を無視した最短距離で水路を通すことができるようになったのだろう。
曲線の多い玉川上水も、それはそれで趣きがあるが
なお、玉川上水に関しては過去に当サイトライターの加藤さんが記事にされていますので、詳しくはそちらをご覧下さい(参考→「
四谷から42km、玉川上水をさかのぼる」)。
暗渠になっている区間が多いとはいえ現在も水を湛えている玉川上水とは異なり、水道道路は水路としての機能は完全に失われ普通の道路となっている。
とはいえ、元は水路であったことを示すなんらかの痕跡は残されているはずだ。かつて水が通っていた水路の名残りを求め、水道道路を歩いてみようではないか。
というワケで、淀橋浄水場の跡地である都庁から出発します
かつての浄水場の南端にあたる通りが水道道路(都道431号線)だ
割と普通な感じの並木道を西へと進む
一見するとどこにでもあるような普通の道路であるが、かつてここに水路が通っていたことを考えると、なんとなく感慨深いものがある。
通りに並ぶ建物をよくよく見ていると、新しいものばかりでなく昭和の風情を残す建物もいくつか存在しており、なかなかに素敵な感じだ。
こういうタイル張りの建築、実に昭和らしい趣きがある
この建物もかなり古そうなオーラを放っているではないか
超高層ビルが建ち並ぶ、まさに大都会東京の象徴というような新宿新都心のすぐ側に、このようなレトロな建築が残っていたとは。意外な発見に心躍らせながらのスタートである。
程なくして山手通りに差し掛かった
最初のうちは水路跡としての痕跡はまったく見当たらず、どちらかというと道路よりも建物を見て楽しんでいた。
しかしながら、山手通りを過ぎた辺りから、徐々に水路跡ならではの特徴がみられるようになったのだ。
土を盛って築かれた水路みち
山手通りを渡った途端、首都高中央環状線の高架によって遮られていた視界が開け、一直線状に続く水道道路の様相が明らかとなった。
交通量が多くてやや見づらいが、確かにかなり先までまっすぐだ
また進むにつれて少しずつ、路面と左右の土地とに高低差が生じ始めてきた。周囲と比べ、一段高く道路が造成されているのだ。
道路沿いに建つ建物をよくよく見ると――
傾斜する土地の上に建っていることが分かる
道路との高低差を利用して、地階を設けている建物が多い
水を円滑に流すには、できるだけ平坦な土地に水路を通さなければならない。なので低い土地には盛り土を施し、その上に水路を築いているのである。
ちなみに盛り土に用いられている土は、淀橋浄水場の貯水池を掘って出た土を使っているという。残土を処理しつつ水路を引くための土地を造成する、実に一石二鳥な工法である。
ごくごくわずかに傾斜する上り坂を行く
音楽関係の機材屋だろうか、路肩に置かれたケースがカッコ良い
周囲の土地との高低差はさらに増し、水道道路との行き来には階段を使用するように
ほう、こちらは「本村ずい道南階段」とな。……ん? ずい道……隧道ですと?!
隧道とはすなわちトンネルのことである。これまで水道道路を横切る道路はいずれも坂道で水道道路と接続していたが、ここではトンネルを掘って道路を通しているようだ。
まぁ、確かにこの高低差となると、トンネルを掘るしかないのだろう
水路の下に設けられたトンネルというのも面白い、さてはてどんなものかと階段を下りてみたら驚いた。
想像以上に立派なトンネルだったのだ
堂々たるドーリア式(古代ギリシャにおける建築様式のひとつ)風の円柱を意匠に取り入れた、新古典主義っぽい感じのトンネルである。
調べてみると、この本村隧道は大正12年(1923年)に発生した関東大震災の直後に改造されたとのことだ。
関東大震災において、首都東京は壊滅的な被害を受けた。淀橋浄水場もまた例外ではなく、破壊された水路は修復困難と判断され、道路として整備されるに至ったという経緯がある。それ以降、淀橋浄水場には甲州街道に埋設した導水管で水を送るようになった。
要するに、この道が水路として使われていた期間はそれほど長くなかったということだ。とはいえ、そのお陰でなんとも不思議な直線道路ができたのだから、結果オーライではあるのだが。
本村隧道の辺りで少しカーブし、再び一直線な道が続く
なんとなく、トンネルの気配を感じたので階段を下りてみると――
やっぱりあった、こちらは本町隧道とのことだ
だがしかし、その竣工は1975年とかなり新しい
どうも怪しいので北側に回ってみると、コンクリートでふさがれたトンネルがあった
なるほど、確かにここにもかつては古いトンネルがあったようだが、規模が小くて車が通れなかった為だろうか、作り直されたようだ。
その際に南側の古いポータルは失われたものの、出口をずらして作られた北側のポータルはこのように残っているというワケである(コンクリで固められちゃってるけど)。
古い隧道の痕跡を見つけて満足しつつ、水道道路をさらに西へと進んでいく。
幡ヶ谷から笹塚の辺りまでは、水道道路に沿って都営住宅の団地が延々続く
斜面を横切るように通したのだろう、北側(右)は低いが、南側(左奥)は水道道路より高く見える
途中、南北の谷筋に通る中野通りと交差した。これまで水道道路は標高約40メートル程度を維持してきたのだが、中野通りとの交差点では約36メートルまで下り、それを越えると再び約40メートルまで上る坂道となる。
かつてはこの谷にも盛り土で築堤を築いて高低差をなくし、中野通りは水路の下に穿たれたトンネルを通っていたようだ。しかしながら関東大震災によって崩壊した為、その後は築堤を取り払い、今のような坂道になったらしい。
中野通りからの坂道を上り切ってからは、道路の北側だけが低く落ち込んだ地形となる。そのままさらに進んでいくと、やがて環七通りへと出た。
あれ? 水道道路はまだまっすぐ続いているはずなのだけど……
……って、ひょっとして、この細い路地が水道道路?!
ここにきて、思わぬ局面と相成った。新宿新都心から続いてきた水道道路は、いずれの区間も車の往来が多い二車線の車道であった。
しかし環七通りを越えたその先は、なんともローカルな雰囲気の細道へと変貌を遂げたのだ。果たしてこの先、水道道路はどこへと続いていくのだろう。
タイムスリップしたかのような路地を抜け、玉川上水との合流点へ
環七通りを越えると、水道道路の雰囲気は一変。細い路地に沿ってトタン張りの家屋がズラリと並ぶ、出発地点の東京新都心からはおおよそ想像がつかない光景へと変貌を遂げた。
まるで戦後にタイムスリップしたかのような光景である
いやはや、東京にこのような場所が残されていたとは。正直いって、驚いた。一面のトタン張り家屋が醸し出す独特な雰囲気に圧倒されながら一歩一歩進んでいく。
路地の幅に加えて、これらの家屋の幅を足してちょうど水道道路くらいの幅になるので、おそらくこの区域は水路が埋め立てられた直後に成立し、そのまま現在まで受け継がれてきたのだろう。
あまりひと気が感じられないので空き家が多いのかもしれないが、それでも生活感が漂うお宅も少なくない。まるでこの一角だけ時間が止まっているかのような、なんとも不思議な空間であった。
しばらく進むと活気ある商店街に出た。路地はクランク状に折れ曲がる
おそらく折れ曲がらずに家屋を突っ切るコース、この左の公園がかつての水路跡だろう
公園を進んでいくと、今度は住宅街へ入っていく
やがて行き止まりになったが、その突き当りの奥に見えるのは……
水道施設のタンクであった
というワケで、最終的には和泉水圧調整所という水道施設にたどり着いた。
ここは玉川上水の流路でもあり、かつてはこの場所に水路へ水を引き込むための取水施設があったのだろう。
ここが大都市東京における近代水道の出発点。そういえるのではないだろうか。
玉川上水との合流点、かつてはここから水を引き込んでいた
和泉水圧調整所の西側からは、暗渠化された玉川上水が続く
かつての水路跡の今
淀橋浄水場の跡地である新宿新都心から西へ約4km、水路の跡を辿ってみた。関東大震災で水路としての機能は失われ、道路としての歴史の方が長かっただけに、あらかじめ知っていないと普通の道路にしか見えないだろう。
だがしかし、やけに直線的であったり、盛り土で周囲の土地より高かったりと、水路跡ならではの特徴もしっかり残されていた。特に立派な装飾が施された本村隧道は戦前にまで遡る東京23区内のトンネルとしてかなり貴重なのではないだろうか。
活発な新陳代謝を繰り返す都市部において、その街中に残る古いモノを探しつつ、これからも散策を楽しみたいと思う。