突然コネクション
「叔父が目黒寄生虫館の館長になったけど、どうする?」数年前、友人にかけられた言葉。どうするじゃないよ、なんだそれは。シンデレラストーリーなのか。
まあ、企画展こまめにチェックするほどファンなんですけど。(2009年、ロイコクロリジウムの特別展示)
そして先日、ついに訪問の機会を得た。またとないマニアックなテーマで。
「とある高名な寄生虫学者の論文に使われた寄生虫の原画を展示用に整理しているから見にこないか」というものである。
いざ目黒寄生虫館へ!
充実のグッズ達!※グッズは撮影禁止です。特別に許可を取って撮影しています。
迎えてくれたのは目黒寄生虫館5代目館長、小川和夫さん。
東京大学の名誉教授にして農学博士、魚類寄生虫学の専門家である。
そして私の友人の叔父様でもある。
寄生虫の原画といっても一体どういうものなのか。百聞は一見にしかず。まずは見てみよう。
さっそく鑑賞。中央は研究員で獣医学博士の巌城さん。
ここまでやるのかの緻密さ
これは!なんかすごい!
寄生虫の論文だから寄生虫の絵である事はわかる。それにしても恐ろしいほど緻密に組織や器官が描き込まれている。
写真や標本のようなある種のグロテスクさはない。
かっちり描き込まれたディテールに思わず見入ってしまう。
なんかもうシュールレアリスム。
それぞれの絵には学名、大きさなどのデータが添えられている。
対象をただ正確に記録するための均一で冷静な筆致は、全体と細部に息のつまるような緊張感をもたらしている。ええと、要するにかっこいい。やばい。
「これは展示室でも紹介している山口 左仲(やまぐち さちゅう)博士の論文に使われた絵です。1934年の論文ですから今から80年以上前に描かれたものですね」
館内パネルより。厚ぼったい丸メガネが知性を感じさせる。実際かなりの近眼だったらしい。
孤高の寄生虫学者、左仲博士
「山口 左仲(やまぐち さちゅう/1894~1976)
戦前から昭和後期にかけて寄生虫の形態・分類学に関する膨大な論文を執筆し、絶大な業績を残した寄生虫学者である。生涯で発見した寄生虫の新種は約1,400種にものぼる。
「この絵が使われている論文がこれです」
え?これ1冊全部?
--厚い!厚くないですか?
「これは魚に寄生する『吸虫』という種類の寄生虫をまとめたもので300ページあります」
--論文ってふつうこんなにボリュームがあるものなんですか?
「いやいや、今だとせいぜい10ページとかですよ。当時だってここまでのはないでしょう」
原画はこんな感じで印刷されている。
--ここになんか米粒みたいなのがぐわーっと描き込まれていますけど……
うおーびっしり。
「これは卵です。1個1個、その方向性にまでこだわって描かれている。普通ここまではしません。ここに子宮があって、このあたりに卵を抱えている、という事がわかる程度に図示します。というか目的はそれを伝えることなんですから」
--ですよねえ、こう言っては何ですけどオーバースペックですよね。
「ここまでくるともう左仲さんのセンスというか形態へのこだわりですね」
この春は整理された原画の中から「吸虫」と「条虫」という種類の原画を展示する。
ほんの、ほんの一部です。
まだまだ展示を待っている原画たちがこんなに。
しかしあれだけの論文を執筆しながらこの精度にして膨大な量の原画をいったいどうやって描いたのか。
著書のごく一部。1000ページを超えるものも。
「実は左仲さんは自分では描いてないんですよ。画工を雇ってね、描かせていたんです」
--なんと、ディレクションですか。
左仲が描画を指揮している姿をとらえた貴重な写真が残されている。終戦後、進駐軍の依頼でマラリア対策のために蚊の研究をしていた時の様子だ。
Mosquito Fauna of Japan and Korea(1950、モノグラフ)より。立ち姿で監督しているのが左仲博士。
「この写真は蚊ですけど、寄生虫を描く時も基本的には一緒です。顕微鏡を使って覗きながら描く」
展示されている左仲愛用の顕微鏡。プリズムと鏡を用いた「アッベ式」という描画法で覗きながらトレースする。
「多い時で7人の画工を雇って絵を描かせていました。使っていた顕微鏡はドイツのカール・ツァイスのもので、当時は家が買える程の値段だったといいます」
左仲のスケッチ(左上)とそれをもとに画工によって描かれた画。各器官のサイズや構造まで細かく指示されている。
--7人で、家が買えるような顕微鏡使って、それは効率的ですねー。ってちょっと待ってください。コスト感覚がおかしくないですか?左仲博士は石油王か何かですか?
「いや、もう資金はとにかく豊富でしたからね。養父がすごい人で」
--すごい養父!?
養父もとんでもない
東京帝国大学(現在の東京大学)で病理学の学位を取った左仲は1925年、実業家の山口玄洞から縁談の誘いを受け婿養子となる。
この玄洞さんがまた傑物で、洋反物の商売で財をなして貴族議員にまでのぼりつめただけでなく、「大正・昭和の寄付金王」と呼ばれ、学校や医療、文化財に多額の寄付を投じている。
「養子の左仲にも好きなだけ研究しろと。で、新婚旅行と留学を兼ねた世界一周旅行に送り出したんです」
なんかスケールのでかい話になってきた。
「その時に寄生虫学に関心を持って、帰国後、京都帝国大学(現在の京都大学)で講師をするかたわら、画工を雇ってたくさんの書籍や論文から引き写しをしたんです」
こうして作られた「虎の巻」(写真はもちろんその一部)製作になんと7年を要している。
「論文の印刷なんかもかなり高品質で、自費出版しているのが結構ありますから、かなりのお金をつぎ込んでるはずです」
「自分の仕事は百年後にも残るから、最高の印刷、最高の図版を必要とする」という考えのもと、品質にだわった。
かっこいい。私もそんな格言残したい。
「自分の記事は百年後も残るから、最高のサーバーを必要とする」黒歴史になりませんように。
目黒寄生虫館とのつながり
1962年より左仲は研究活動の舞台をハワイに移し、現地の海産魚の寄生虫調査に取り組む。
この時ハワイに同行し、助手として採集・描画などを担当したのが、寄生虫館の創設者、亀谷了の次男で2代目館長となった亀谷俊也である。
その縁もあって、左仲の死後、彼の研究の記録や資料はすべて寄生虫館へ寄贈された。この原画もその一部なのだ。
倉庫には膨大な資料と60,000点以上の標本が収蔵されている。
図版っぽい楽しみ方も
--吸虫を見ていると頭のところにO.s.という文字をよく見かけますがこれは何ですか?
一番上の、ぎょろっとした目玉にも見えるところ。下にも似たような器官がある。
「Oral suckerの略で口吸盤、つまり口の回りの吸盤ですね。吸虫の多くは口吸盤と、腹部にある腹吸盤(Acet.=acetabulum)という2つの吸盤を持ち、寄生する生き物(宿主という)の消化管に吸い着きます」
分類学の図版なので器官の名称が記されているのは当然といえば当然だが、私のような素人にはこういうところも面白い。
外見が全然違うのに口吸盤(O.s.)はちゃんとあるのがいれば......。
形状は他のものと一線を画すがよく見ると「OS が!口吸盤ある!よかった。なんかうれしくないですか。
中央の吸虫には「O.s.」も「Acet.」もない。住血吸虫といって血管内に寄生する種だ。
たとえば今回の口吸盤(O.s.)のようにひとつの器官にしぼってそれがあるのかないのか、どこにあるのか、比較してみるのも楽しい。
吸虫よ気付きをありがとう。ときめきを運ぶよ吸虫トレイン(すいません)
条虫は「デューン砂の惑星」だなこれ
もう1種展示される予定の条虫はサナダムシという呼び名で知られるマジで長い寄生虫である(短いのもいます)
寄生虫館では8.8mの成虫(日本海裂頭条虫)の標本が同じ長さのヒモと並んで展示されている。
「条虫はなんせ長いので全体を描かずに部分図で表示する事が多いです」
頭部(頭節)の拡大図と体の一部(体節)の断面図で表す事が多い。
「頭節っていうのは宿主の消化管にくっつく機能がある器官で、形状の個性が出やすいところです。溝状になって吸盤みたいに吸い付いたり、鉤といってトゲトゲみたいなのを打ち込んだり」
UMA感あふれる頭部の形状。SF小説の挿入画を見ているようだ。
パンキッシュな頭節!
「これらの絵を見ていて本当にすごいなと思うのは、修正した跡がほとんどないんですよ。顕微鏡覗きながら筆で描いてるのに」
--たしかに、フリクション使ってるわけじゃないですもんね。
「お、ありますよ修正」「お、ほんとだ!いい修正! レアな修正で盛り上がる。
左仲直筆と思われるサインも発見。
左仲は1976年に満81歳で逝去しているが、晩年の1975年にも600ページ近くの著作を上梓している。
「独自の研究や論文だけでなく、他人の研究や論文も世界中から資料として集めて寄生虫の分類を体系化し、本にして共有化している。資金があったとはいえ、1人の研究者の仕事としてはあまりにも壮大です。パソコンも、ワープロもなかった時代ですからね」
左仲直筆の原稿、情報の更新により、何度も上書きされている。紙面から伝わる熱気に背筋が伸びる……。
「今回の展示で原画の美しさにくわえ、左仲博士の業績や、昔の研究者のバイタリティのすごさを少しでも感じてもらえたらと思います」
カマキリに寄生するハリガネムシという寄生虫がいる。カマキリの腹の中で成虫になると、水の中で産卵するために宿主のカマキリを操って河川に向かわせ、飛び込ませる。
数奇な運命から寄生虫の世界に飛び込み、1,400もの新種を見出し、膨大な分類を体系化した山口左仲博士もまた、承認欲求にあふれた寄生虫達に導かれた宿主だったのではないか(かっこいい)
「ハハハ、そうかもしれないですねえ」
ややウケかー。
4月より常設展示がスタート。決して広くはないスペースだが、じっくり細部まで原画を鑑賞できる工夫が凝らされている。寄生虫好き(特に吸虫、条虫好き)や博物画好きの方はぜひ覗いてみてほしい。
権之助坂を転がるようにして駆けつけた。
タッチパネルで拡大可能!
具体的なスケジュールは未定だが、膨大なコレクションの中から少しずつ差し替えて展示していく予定との事。
更新情報などは寄生虫館のホームページでチェックしてほしい。2016年4月より、休館日が「毎週月曜日・火曜日」の週2日に変更となったので注意。
原画のポストカードできないかな (写真は「虎の巻」のポストカード)