意外とある「人口0の町」
東京都の各区のウェブサイトには必ず「町丁目別人口」という資料が公開されている。 世帯数、男性人口、女性人口、総人口が町丁目別にまとめられた統計データだ。この資料はダウンロードして眺めてるだけでもけっこう面白いのだけれど、たまに人口が0の町があるのだ。
例えば、大田区の京浜島の倉庫街や羽田空港などが、「人口0」というのは納得出来る。しかし、都心の人口密集地帯に、突如エアポケットのように現れる「人口0の町」というのもいくつか存在する。 今回、各区で公開されている統計資料を元に、ぼくが個人的に気になる「人口0の町」をピックアップしてめぐってみた。
新宿区神楽河岸
まず訪れたのは、「新宿区神楽河岸」だ。新宿区の資料をご覧頂きたい。見事に(?)人口0だ。
新宿区はさすが都心の区だけあって、どの町にも人が住んでいて、都庁と高層ビルと公園しかない西新宿二丁目でさえ2世帯5人のひとが住んでいる。 したがって、神楽河岸は新宿区唯一の人口0の町と言えるだろう。
神楽河岸周辺は千代田区、新宿区、文京区の三区境地帯だった
新宿区神楽河岸。最寄り駅は飯田橋駅だ。 実は飯田橋駅周辺は千代田区、新宿区、文京区の区境が集中している地点でもあり、境目が好きなぼくにとってはお酒を飲まなくてもメートルの上がるおとくな地帯でもあるのだ。
どうだろう、この境目っぷり。新宿区と千代田区と文京区の端っこが一挙に集結してるのだ。ただの端っこも3つ集まれば知恵でも出そうだけど、残念ながら何も出ない。ぼくみたいな境目好きな人間が興奮するだけだ。
ところで、神楽河岸には「セントラルプラザ」というビルが建っている。その敷地がほぼそのまま「新宿区神楽河岸」なのだ。
セントラルプラザはラムラというショッピングセンターと東京都飯田橋庁舎が入っているオフィスビルなのだ。したがって、誰も住んでいないというわけだ。なお、となりの高層マンションには住民がいるのだけど、マンション棟部分は千代田区飯田橋四丁目で千代田区になってしまう。
内部に区境が存在するビル
セントラルプラザのオフィス棟とマンション棟は、ビルで繋がっているのだけど、その真ん中あたりに「区境ホール」という場所がある。
ショッピングセンターとスーパーの間にあるこのちょっと広い空間が「区境ホール」だ。その名のとおり、このホールの真ん中に千代田区と新宿区の区境が走っている。
歩道も千代田区と新宿区に分かれている
セントラルプラザの区境ホールを飛び出した区境はそのまま外を走り、歩道に出た辺りで折れ曲がり、ちょうど歩道を二分するようにすすむ。
したがって、この歩道では目と鼻の先にある放置自転車の看板と、路上喫煙の禁止だけれども、それぞれ千代田区と新宿区で管轄が違うのだ。
もともとは外濠だった神楽河岸
さて、この神楽河岸、一体いつからひとが住まなくなったのか、それとも、元々ひとの住んでいない場所だったのだろうか? そんな疑問に答えてくれる案内板が藪の中にひっそりとあった。
この案内板によると、もともとこのあたりは飯田濠とよばれる江戸城外濠の一つだったらしい。昭和47年、再開発によって、濠を埋め立ててビルを建設したのだという。
「角川日本地名大辞典13東京都」によると、神楽河岸という地名自体は、通称として江戸時代からあったものだけど、住居表示の地名として現れたのは埋立が行われてかららしい。
新宿区神楽河岸についてわかったこと
・新宿区神楽河岸は元々「飯田濠」というお濠だったので、ひとは住んでなかった。
・昭和47年にお濠を埋立ててビルが建設されたが、オフィスビルだったので住人は0のまま。
・歩道の上を区境が走っているので、ちょっとズレるだけで放置自転車撤去の管轄が千代田区になったり新宿区になったりする。
千代田区神田相生町&神田花岡町
続いて訪れたのは千代田区神田相生町と神田花岡町だ。 ピンと来ないかもしれないけれど、実は両方ともJR秋葉原駅の北東部周辺の町名なのだ。
千代田区は丸の内や霞が関に人口0の町があるのだけど、この神田相生町と神田花岡町もこれだけの人口密集地域にも関わらず人口が0なのである。
ほぼガードの神田相生町
そしてここが神田相生町である。ありていに言えばガードだ。神田相生町の区画はほぼすべてがガードで、それ以外はほぼ何も無い。
「ほぼガードか。書くこと無いな……。」と、思っていたのだけど、地図をよくみるとガード脇にある「センタープレイスビル」の住所が神田相生町だということがわかった。しかし、セントラルプラザとかセンタープレイスとか、なぜか人口0の町にあるビルは中心がすきだ。というかどちらも翻訳したらほぼ同じような意味になるんじゃないだろうか?
センタープレイスビルの一階にはマクドナルド、セブンイレブン、居酒屋などが入居しているので、もし神田相生町に住まなければいけなくなったとしても、なんとか暮らしていけるのではないだろうか?
目の前にはヨドバシカメラもあるし……。あ、でもヨドバシは神田花岡町だからダメだ……。 などと詮無いことを妄想しながらビルの周りをぐるりと廻ってみた。少し前まではこのビルさえもなかったので、その頃の神田相生町は働くひとさえいない、本当に「誰もいない町」だったのだろう。
ほぼバスロータリーとヨドバシカメラの神田花岡町
神田相生町のすぐ横にある人口0の町が神田花岡町だ。都バスロータリーの他、JR秋葉原駅、ヨドバシカメラなどがある。こちらは相生町とは違い、何も無いということはない。
ガンダムカフェの出入口は、バスロータリーやヨドバシカメラのある方とは逆方向の高架下にあるので、ガンダムカフェから同じ町内にあるヨドバシカメラに行くには、かならず他の町内を通過しなければならない。
ちょっと分かりにくい例えかもしれないけれど、これは新潟県上越市の二本木地区のように、地図上では繋がっているように見えるけれど、交通手段が無いので、妙高市を通過しなければ同じ上越市内の中心部に行けないのと同じタイプの隠れ飛地と言えるかもしれない。
なんと秋葉原のガンダムカフェは隠れ飛地だった。
実は町がかなり複雑に入り組んでいるヨドバシカメラ周辺
神田花岡町周辺、特にヨドバシカメラ前の道路は町域がかなり複雑にいりくんでいる。
この横断歩道を渡って、ヨドバシカメラに行くだけで3つもの町を越えていくことになるのだ。町を3つも越えるというとなんだか大仰な感じがするが、たった数十秒で越えてしまう。
町田駅前のヨドバシカメラの建物も東京都と神奈川県の県境をまたいで建っているけれど、ヨドバシカメラはこういう境目に建物を建てるのが好きなのだろうか?
町の変遷を見てみる
現在、人口が0の神田相生町と神田花岡町。鉄道のガードや駅であればひとが住んでいないというのも分かるのだけど、鉄道が引かれる前、江戸時代はどうだったのだろうか?古地図をひもといて、その歴史をたどってみたい。
1843年、天保14年の江戸地図を見てみると、「アイヲイ」という地名がかろうじて読める。
一方、花岡町はちょっと見当たらない。そのかわり「ハナフサ」という地名は見える。このころはアイオイ(相生)町にもひとが住んでいたと思われる。
時代はぐいっと進んで1880年、明治13年の地図では花岡町が登場する。
よくみると神社のマークの横に「鎮火祠」の文字があるが、これはウィキペディアによると、1869年、明治2年の大火を受け、明治天皇の勅命で作られた、火除の神を祀る「鎮火社」のことだろう。
その鎮火社の敷地がそのまま花岡町となったと思われる。このころの花岡町には神社の関係者などが若干住んでいたかもしれない。
1892年、明治25年になると、鎮火社は消えてしまい、その跡地がそのまま「荷物停車場」となった。鎮火社は1888年に台東区へ移転し、そのかわりに貨物線の線路が上野駅から伸びてきている。
あと、よくみると神田川から堀割が荷物停車場の方に掘られているのも確認できる。
この前ブラタモリでやっていたけれど、現在のヨドバシAkibaのあった辺りは堀割があり、鉄道輸送された荷物を舟に積み替える舟溜があったのだ。
さらに時代は進んで1978年、昭和53年の地図がこれだ。ほぼ、現代の町割りと同じだが、現在バスターミナルになっている辺りなどは貨物駅となっている。
おそらくこのころには相生町にも花岡町にもひとは住んでいなかったと思われる。
神田相生町&神田花岡町についてわかったこと
・神田相生町は江戸時代からあった。神田花岡町は鎮火社が作られたころにできた。どちらも江戸時代にはひとが住んでいたと思われるが、秋葉原駅が完成したころから人口が減っていったようだ。
・ガンダムカフェは神田花岡町の飛地。
・ヨドバシカメラは境界に建物を建てるのが好きなのかもしれない。
・人口0の町にあるビルは「中央」を英語でカッコよくいうのが好きなのかもしれない。
足立区舎人町&入谷町&古千谷一丁目
そろそろ、内容の地味さに飽きてきた方も多いと思う、しかしもう一箇所取材してきた場所があるので、今しばらくお付き合い願いたい。
で、そのもう一箇所とは足立区舎人町と入谷町と古千谷一丁目だ。
実はこれらの町。全て公園の敷地内にある町なので人口が0なのだ。
舎人公園はまだ作りかけの部分が多いため、住居表示が間に合っていないのだ。将来的には公園内にあるこれらの町は全て「舎人公園」という地名に住居表示されてしまう予定だ。
で、やっぱり境界に興奮してしまう……
どうしても境界が気になってしまう。 なんだかこの記事の主旨が「人口0の町を巡ってみる」というよりも、「人口0の町の境界を鑑賞する」 に変わってしまっているような気がしてならない。しかし、気になるのだからしょうがない。
こんなにキレイに整備された歩道なのに、実は複雑にいりくんだ飛地なのだ。
しかし、そんな飛地の上を、そのへんのおっさんはそこが飛地であることを微塵も感じさせない軽やかな足取りで歩いてゆく。 飛地であることを感じさせる歩き方というのを知らないけれども。
舎人公園の地下は日暮里舎人ライナーの車両基地
舎人公園の横を走る日暮里舎人ライナーは、舎人公園駅を出て北に少しいったところからググーッと下がってきて、軌道が地下にもぐりこんでいる。舎人公園の地下は一部日暮里舎人ライナーの車両基地になっている。
したがって、公園を歩いていると突然こんなシュルレアリズムの秘密基地みたいな建物が目の前に現れたりする。多分、日暮里舎人ライナーの車両基地に関係する何らかの出口的なモノなんだろうとは推測できるけども、用途はよくわからない。
急激に拡大する舎人公園
舎人公園は、もともと民家や農地だった場所を東京都が少しづつ買いあげて整備している公園だ。家にある古い地図帖を順に見て行ったらちょっと面白かった。
1978年の入谷周辺の地図。まだなにもない。よくみると現在日暮里舎人ライナーの足元にあるはずの道路すらない。舎人町と入谷町の飛地の錯綜ぶりはすさまじいものがある。
古千谷一丁目付近になにやら緑色の区画が発生。これが舎人公園の初期状態だ。この地図は1990年のものだが、公園自体は1981年に開園している。
公園の萌芽が見えた1990年から3年後の1993年の地図がこれ。いきなりこの大きさに成長。たった3年で急に大きくなるなんて、なんだか親戚の中学生みたいだ。
そして5年後1998年。トラックターミナルに隣接する部分が開園。あたりの土地をじわじわと侵食して公園がアメーバーのように広がっている……。
2008年、最初の頃に比べるとかなり巨大化した舎人公園。 10数年でここまで急激に広がる公園はちょっと珍しいのではないかと思う。
足立区舎人町、入谷町、古千谷一丁目についてわかったこと
・もともとは農地や民家だった場所を整備して公園にしているので、今はひとが住んでいないが、町の区割りはそのまま残っている。
・舎人公園の地下には日暮里舎人ライナーの車両基地があるらしい。そのため公園内に謎の建築物が唐突にある。
・ちょっと昔の地図から順を追って見てみると、公園がジワジワ拡大する様子がわかって面白い。
ひとの住んでない理由は様々
一口に「人口0」と言っても、元々お濠だったとか、公園整備のために住民が立ち退きしたなど、住民がいない理由は様々なものがあるということがわかった。
途中から「ひとの住んでいない町の境界探し」にウェイトが移ってしまった気もするが、人口にしても境界にしても、実際には見えなかったり、分かりにくいものの痕跡や手がかりを、地図を頼りに現実の町の景色の中から探していくという行為は、宝探しをしているようで、かなり楽しいということが分かった。今度は地下鉄線路を地上から辿る旅でもしようかしら……。