舞台は沖縄寄りの鹿児島の離島
タイトルにある通り舞台は島。名前は沖永良部島、おきのえらぶじまと呼ぶ。鹿児島県に属するけど、沖縄本島から与論島を挟んでふたつ隣で、シーサーも見かけたりと文化的には沖縄寄り。太古にサンゴ礁が隆起してできた島で、国内二番目の規模を誇る鍾乳洞がある。最近はケイビングがよく話題になったり、大河ドラマ「せごどん」にも登場したので知ってる人もいるかもしれない。
ここが母の出身で、自分もまた、幼い頃に夏休みを過ごして、祖父母の畑仕事をたびたび手伝いに行っていた。良い意味でかなりの田舎で、島を歩けば、牛舎の匂いが漂ったり、塀からヤギが顔を出して驚いたり、島が細くなっている場所は左右どちらからも岸が見えたりする。
小さな離島でLCCもまだ飛んでいない。だから東南アジア諸国より移動費がかさむし、しょっちゅう行く訳ではないけれど、思い出のある故郷のひとつ。だったんだけど…その島に2017年、天皇皇后両陛下がやってきた。
それをニュースで知ったとき、あまりに突拍子がない話で固まった。うまく言えないが、草野球してたらイチローがやって来たみたいな…。いや撤回、ぜんぜんうまく言える気がしない。何にせよ、これは島はじまって以来の大事。あのとき、島はどんな様子だったのか?ちょうど今年1月に島へ行ったので、当時の話を聞いてきた。
「喜びの声をどうぞ」と言われてはじめて知った
そして、協会へお知らせが来たのが当日から一週間前。警察から「当日、観光客が近づかないよう(つまり邪魔にならないよう)に伝えてほしい」とルートを教えられて公な形ではそこで確定。「直前まで黙っていたのは観光利用されたくなかったからじゃないか」と古村さん。
もちろん、ご訪問先や現地でお世話に関わる関係者の方には、「8~9ヶ月前(2017年2~3月頃)には知らされていたようだった」のこと。そりゃあそうだ、天皇陛下のアポなし訪問なんて、いくらなんでも受け入れきれない。
全力のホスピタリティを目指して島は動き出す
それから関係者は全員、来るその日に向けて動き出す。
ユリ農家は当日に咲くようユリを育て、配膳を担当する人は教育を受け、ホテルは特別室を用意するために工事に着手。畑に来られた際に土で汚れないようにと、舗装もされたらしい。国際サミットやオリンピックが開催される国や街ではあらゆるインフラの整備が発展すると聞いたことがあるが、それに通じたことが起こっていた。
とくにおもしろいなと思った話が、配膳。両陛下が役場でとられる食事にあたって事前に、鹿児島の一流ホテルから教育係が指導に来ていたらしい。鹿児島は沖永良部にとって身近な都会で、進学先が多ければ鹿児島へ働きに出る人も多い。そういう構図が頭にあるので、「鹿児島から指導に来た」という表現は実に生々しく感じる。
いっとき「心臓バイパス手術」という言葉が盛んに報道されていた。そのタイミングでご来島は一度流れていたけど、訪問予定だったユリ農家の方のユリを贈って、後に病状は快方へ。それもあって、とくに美智子様が今回の沖永良部島への訪問を希望されたということらしい。
それってめちゃくちゃ美談じゃない?島の人ならみんな知ってるけど、報道されていないので世間一般では知られていない。この状況は離島ならではかもしれないな。
300~400人の警察官が数週間前から前乗り!
そして準備は着々と進み、いよいよ当日まで2~3週間というところ、島に大きな変化があったという。
2日間の滞在とはいえ、国の象徴。分かってたつもりだけど、行幸という事の大きさがようやく掴めてきた。ちなみに沖永良部島の前後に屋久島と与論島も行かれていたので、ここも同じく配備されていたのかもしれない。
そして本番の数日前、警察車両に先導されて「良さげな車」がルートを走る様子を目撃。宮内庁が道の舗装に凸凹がないか確かめていたんじゃないか、とのこと。車で移動中のガタつきに至るまで確認するという徹底ぶり。
ちなみに自分の祖母も下見の車を目撃していて、「すごい車だった」と言うので、どんな車だったか聞いたところ「いやもう見たこともない車」という答えしか返ってこなかった。ひとまず分かったことは、祖母にとってもはや言葉で表現できる範囲を超えるものだったらしい。
行幸に沸く沖永良部島
そして当日の2017年11月17日、ご来島。
御料車の走るルートに沿って島の人たちがお出迎えするポイントが指定され、周辺地域ごと集まって待機。その都度速度を落としてゆっくりゆっくり。高齢の方の中には拝んでいた人もいたという。ちなみにこのとき、1グループごとに5~6人の警官隊が付いていた。なるほど、それはどおりで400人近い人数が必要になる訳だ。
そして二日間に渡り、冒頭で紹介したガジュマルが植えられてある小学校へ行かれたり、子どもたちの黒糖づくりを見られたり、銅像の由来を聞かれたり、ご療養中に贈られたユリを育てた農家の方にも会われたとのこと。
余談だと知りつつも、ひとつだけ沖永良部島の歴史を話しておきたい。この島は戦後からほぼ8年間、アメリカ軍政下にあった。が、復興の中心はやはり沖縄で両国から事実上ほぼ見放された貧しい時期があり(隣の島では教師が教科書を入手するために本土へ密航したというエピソードも)、そんな中では島内での物々交換も当たり前だったという。で、海が近い東端では、岩のくぼみに海水をぶつけ乾かしぶつけを繰り返し、塩をつくった。
上の銅像は、そんな塩を遠方まで売り歩いたという母親の苦労を表したもの。祖母も曾祖母の手伝いについて行って回り、塩以外ならなんでもいいからと交換したお盆を抱えて夜に月を見ながら帰ったのだと話してくれた。
そういう島の歴史を思うと、祖母のような世代の人たちにとってひときわ行幸の意義は大きかったのだと思う。
警官隊が続々とやってきてTシャツが完売御礼
話は戻って後日談。天皇皇后両陛下はそれから与論島へ向かわれたが、それで話が終わると思いきや400人近い警察官は以降の一週間くらいは島に留まったという。
そして400人の警察官も島を去りすべてが落ち着き。ふたつある町のひとつの知名町は、毎月出している広報誌の「特別号」を発行(たびたび出していた写真)。どこをめくっても両陛下お二人のお姿が。取材のあと、観光協会で2部もらったので1部を祖母にあげたら、町が違うので「これが噂の!」みたいな感じで喜んでいた。
行幸は町に歴史をつくる
島に陛下がやってくる。すると、地元ホテルに特別室ができたり、配膳レベルが上がったり、畑の脇が舗装されたりする。400人の警察官が前乗りしたり、そのあとは土産物を買ってくれたり、広報誌も特別号を出す。行幸を中心に織りなす、島の動きが分かりおもしろかった。
ガジュマルの下に建った行幸を祝う石碑を見たときは、昔から知ってる場所だけに、違和感もなくはなかった。しかし、後日立ち寄ったいくつかの地方でも過去に天皇陛下が来たことを祝う石碑が目について、あぁそうか、数百年、ときには千年以上語り継がれることかと納得。
ではでは、平成が終わります。
最後にちょっとだけおきのえらぶの紹介
取材協力:おきのえらぶ島観光協会