近所でも観光は出来る
なんとなく、うっすら知っていた新川や古川、左近川周辺などのことも、しっかりパネルを読んだり写真を撮りためてみることで新しい発見がありました。
家から自転車で10分程度の範囲でも目に止まっていなかった遺構や情報があり、ちょっとした観光気分で楽しめます。
遠くに行かなくても、近くにも小さな旅は落ちてるなと思いました。地元観光、いかがですか?
こんにちは、葛西という街に住んで16年の松本です。葛西は東京都江戸川区の南端にある街です。
よく「あー、千葉の葛西ね」なんて嫌味でも冗談でもなんでもなく素で千葉県と勘違いされてますが東京23区に属します(僕は千葉県生まれで浦安に住んでたころもあるので千葉と言われて嫌というわけではありませんが)。
葛西は江戸時代から運河が横切っていたり一部が埋立地だったり、水との関係が深い街です。今回はおもに、葛西を横切る3本の川について書きたいと思います。なお、それ以外の水辺などについては先日suumoタウンというサイトで書きました。そちらも後でご覧ください。
葛西は東西を荒川(中川)と旧江戸川に挟まれ、南側が東京湾に面した水辺の街です。さらに街を南北に分断する形で川が走っています。
北の新川と南の新左近川です。
上の地図で黄色、赤、紫のピンが立っていて青く蛇行した線が新左近川です。新左近川の西側は新左近水門(黄色のピン)、東側は左近水門(紫のピン)があります。
薄く青で塗りつぶした部分は1970年くらいまで海で、左近川の河口に当たる部分に海岸水門(赤いピン)がありました。正確には海岸水門から西(左)が新左近川で、東(右)は左近川という事になります。
(スクロールが面倒でしょうから同じ地図を貼りました)
上部にある紫の線は新川。西側は新川排水機場(緑のピン)、東側に新川東水門(オレンジのピン)があります。新川の真ん中へんから北東(右上)に伸びている赤い線は古川です。
新川と古川、いかにも関係がありそうな名前です。はい、関係あります。まずは新川の説明から。
新川は葛西の北の端を東西に横切る川で、江戸時代に古川の流れを改良する形で開削された一部人工の川です。
赤い線で示した古川はかつて船堀川と呼ばれ、旧江戸川から西の中川(今の荒川)に抜けていました。
自然の流れである古川(当時船堀川)は蛇行しており運河として使うのが難しかったため、徳川家康の命により江東区の小名木川などと共に開削されたのが1590年ころから1629年(寛永6年)くらいの話。なんと400年前!
40年ほどの間に全体的にまっすぐ開削され、千葉県との県境である旧江戸川と江戸城を繋ぐ水運の要として整備されました。
整備の過程で使われなくなった船堀川の一部が古川と呼ばれるようになり、運河として使われた部分が新川と呼ばれるようになりました。
新川周辺は行徳の塩や野田の醤油や味噌を運ぶため大いに栄え、川っぺりには味噌や醤油を売る店、料理店などが立ち並んで賑わったのだそうな。
その後、大正時代くらいまでは運河として活用された様ですが、荒川放水路の完成や物流の中心が鉄道など陸路に移っていく過程で水門が築かれ、運河としての役割を終えます。
現在はなんやかんやあった結果として、江戸情緒を再現しつつ新川千本桜という観光名所になっています。
どうですか、これが現代人が思う江戸情緒です。良いですね。
そして新川の西側にある新川排水機場。江戸情緒から一転の現代土木です。豪快に流れる水は旧江戸川から来たものかな。
新川排水機場の裏側はこんな感じ。隣には火の見櫓が再現されています。江戸情緒と現代の融合。
東側(旧江戸川側)の新川東水門は工事中でした。
工事してなければ、水門の内側に船溜まりがあるようです。
新川はこんなもんで、さて古川はというと。
古川の元々の流れに沿って川っぽいものが残るのが地図の赤い線の部分。三角という地名から北東に伸びます。下の写真がだいたい三角のあたり。
古川は現在暗渠&親水公園として整備されています。
古川はもちろん、新川も運河としての役割を終えた戦後の高度経済成長期、都会の川はどこも同じように排水によってドブ川と化しました。
そこで、ドブ川に成り果てた古川を埋め立てるのではなく何故か清流として取り戻そうという話になり、1974年に全国初の親水公園として整備されます。
現在も 景観地区として指定して建物の用途や高さ、色や看板のルールを決めて落ち着いた環境を維持しているそうです。
へー、どうりで葛西駅の辺り(とても落ち着かない感じ)と違うと思いました。建ってる家も広くて立派で、なんだか葛西っぽくありません。
新川から辿っていくと、古川の痕跡を見ることが出来ます。下の写真は川と道路を隔てる護岸の壁ですね。こういう遺構、よくないですか?
もうちょい進むと橋の欄干が残っていました。良いよー、良いよー。
橋のすぐ先で古川が開渠になりました。下の写真の左下が上流で、右奥に流れて暗渠に消えます。その先に新川があります。
上流まで遡っていきましょう。
親水公園なんて言っても、人工の川でしょ?そんなの有難がって東京の人は変わってるねなんて最初は思ってました(僕は房総半島のど田舎出身なので)。
そんな気持ちで遡っていたんですが、これが思いの外よかった。
ちょうど春という季節が良かったのか、花や緑が良いのです。
僕もおっさんになったからでしょうか、こういうなんてことない風景をとても良いものと感じます。
水遊びできそうな岩場などもありました。
水遊びをしたあとに使うっぽいシャワーなどもあります。
途中、環七通りを暗渠した上流も水遊び場が整備され、最終的にはまた暗渠に消えていきました。暗渠より出て暗渠に消える川、それが古川です。
すこし奥にはバルブがありました。
ここでもう一度地図をご覧ください。葛西の南の方(地図でいうと下)を横切る青い線が新左近川です。正確には、赤いピンの海岸水門を挟んで東(右)が左近川、西(左)が新左近川となります。
東側は旧江戸川とつながっていて、そこにも当然水門があります。左近水門です。水門と言っても、ここも暗渠がちで、近づいても「ホントに水門なの?」って感じがします。
水門の目の前が地面って。なかなか無い光景です。核シェルターっぽくも見えます。
フェンスの隙間から下を覗くと水が流れていて、たしかに水門でした。
水門の近くの護岸には、なにやら大きな魚が打ち上がっていて干からびてました。
葛西の川や水門はとにかく暗渠に次ぐ暗渠、そして開渠。ここも、少しの暗渠を経て地上を流れる小川となります。
海岸水門の跡地までは、自然の流れに従った蛇行で進みます。
底が泥なので清流の小川って感じはしないけど、鴨が食事をできる程度にはキレイみたいです。
この先も道路にぶつかるたびに暗渠になって、その先でまだ地上に出ます。江戸川区は親水公園に取り憑かれているんですか?ってくらい旧河川を整備しますね(実は他にも親水公園がいくつもある)。
暗渠と開渠を行ったり来たりしながら水門の跡に至りました。 かつて、葛西の臨海町や清新町(上に載せた地図で青く塗った部分)が海だった頃に使われていた水門です。
昭和47年(1972年)から始まった埋めたて事業により、昭和51年(1976年、僕が生まれた年)にはすっかり埋立地に囲まれたようです。
水門としての役割はその辺でほぼ終わったはずですが、ごく最近まで水門の形で建っていました。
今は土台以外が解体され、解説のパネルと巻き上げ機が展示されています。
ここから先が新左近川親水公園となります。と、その途端ドーンと広がる川。かつての海です。
人はなぜ、『かつては川だった公園』とか『かつては海だった埋立地』とか『かつては入り江だった池』とかいう、『かつて』に惹かれるんでしょうか。
物や地名、動植物の名前を知ることで世界の解像度が上がりますが、歴史を知ることでも世界の解像度が上がります。知ることでただの地形やコンクリが遺構になります。
新左近川も最終的には水門に行き当たります。
新左近水門も、新川東水門同様に絶賛工事中です。
江戸川区や江東区はゼロメートル地帯というか、むしろマイナスメートル地帯で江戸川や荒川が氾濫すると水に浸かります。
ただ、1981年以降40年くらい目立った水害は無いようです。これも堤防や水門を整備したおかげでしょう(江戸川区だけでなく東京全体で)。
江戸川区のハザードマップを見ると、水害が起きれば江東五区(墨田区・江東区・足立区・葛飾区・江戸川区)はほとんどが水に沈んでしまうから外に逃げろと書いてあります。江戸川区で沈まないのは、埋め立て地の清新町と臨海町、葛西臨海公園くらいのものです。
そんなゼロメートル地帯で水害を恐れてきたはずの江戸川区で、これだけ親水公園が整備されているのは不思議ですね。
日本初の親水公園とか、二本の人工河川を維持するためにあるっぽい4つの水門とか、江戸川区って不思議な区だなぁと思った次第です。
なんとなく、うっすら知っていた新川や古川、左近川周辺などのことも、しっかりパネルを読んだり写真を撮りためてみることで新しい発見がありました。
家から自転車で10分程度の範囲でも目に止まっていなかった遺構や情報があり、ちょっとした観光気分で楽しめます。
遠くに行かなくても、近くにも小さな旅は落ちてるなと思いました。地元観光、いかがですか?
▽デイリーポータルZトップへ | ||
▲デイリーポータルZトップへ | バックナンバーいちらんへ |