特集 2017年8月8日

そろそろ街によくあるでかい彫刻の見方をわかっておきたい

こういったものを前にして我々は何も思ってこなかった。鑑賞法をわかりたい
こういったものを前にして我々は何も思ってこなかった。鑑賞法をわかりたい
公園の真ん中に、ビルの一階に、学校に、でかい彫刻作品がある。そうした芸術作品を私達は数多く目にしている。

しかしあれに対して何の思いも持たずにここまで来てしまった。あれのよさが一向にわからない。

もういいかげんあのでかい彫刻をどう見たらいいのか学びたい。見方を聞いてしまおう。美術の評論家を呼んできた。
2006年より参加。興味対象がユーモアにあり動画を作ったり明日のアーという舞台を作ったり。

前の記事:雨に濡れた子犬を革ジャンで抱きかかえるのは本当にかっこよいのか?

> 個人サイト Twitter(@ohkitashigeto) 明日のアー

大手町のNTTデータビルにあるでかい彫刻(蓮田脩吾郎 / NTTデータ大手町ビルオブジェ)
大手町のNTTデータビルにあるでかい彫刻(蓮田脩吾郎 / NTTデータ大手町ビルオブジェ)
今回知り合いをたよって美大の助手さんであり、美術評論家でもある塚田優さんに来てもらった。一気に回るため大手町~竹橋間の「ちょっとわかりづらそうな」彫刻を事前に5つ選んだので一緒に見ていく。

まずは大手町のNTTDATAビルにある彫刻作品である。

みんなどうやって楽しんでいるの?

――塚田さんは街を歩いていてこういうの出くわしたら見るんですか?

「あまり見ないですね(笑)。なんだかんだで歩くときも目的があるので、よほどのことがない限り足を止めたりは……評論家として恥ずかしい話ではありますよね。待ち合わせ場所だったら見るかなあ」

――こういうのってみんな楽しんでるんですかね?

「子供とかだったらくぐりたいって思うんじゃないですかね」

――くぐりたい!とか、でかいな!とかはわかります。でもそこから先に全然進めないんです。良いなと思った記憶がない。

「そこから先に進もうとすると三次元性を楽しむとか素材を楽しむとかということになると思います」

いきなり聞き慣れない言葉が出てきてこわい。美術評論家こわい。しかし今日はカタイ言葉をできるだけひもといてなんとか分かるようになりたい。
美術評論家の塚田優さん(左)。専門家つきっきりで美術を味わうというのは贅沢な時間だった
美術評論家の塚田優さん(左)。専門家つきっきりで美術を味わうというのは贅沢な時間だった

三次元性を楽しむ

――三次元性を楽しむってなんですか?

「たとえば今日来る前に正面から撮った写真はネットで見てたんですけど、来てびっくりしましたよ。意外と厚いな!って。横から見て。

正面から見るとパツーンと真っ平らになっていて厚みっていうものを感じさせない形に意図的にしてますよね。だから図版で見る限りはこの作品の厚みってあまり想像しないと思うんですよ。

けどやっぱり現場に来てみると3~40cmくらいありますよね。ちょっと反っていたりとか。あとこれは金属ですよね。ある程度古いんだなとか。間近で見ると実感する。

それと一番上に折り目みたいなものがありますよね。ああいうディティールがあるのもわからなかったですよ、写真では」

三次元性と言われるととっつきにくいが「写真じゃなくて目の前にして感じること」ということだろうか。「なんかここに分厚くて反ってる金属あるなあ」感をまず楽しむ。

なんとなく「ぼくはおにぎりが好きなんだなあ」感が出てしまうが、問題ない。裸の大将も芸術家だ。目指すはあそこだ。
真ん中にはうっすらと接合部らしき水平の線。厚みは40cmくらいある。古い金属の質感
真ん中にはうっすらと接合部らしき水平の線。厚みは40cmくらいある。古い金属の質感

彫刻は生で見ないといけない

「赤瀬川源平さんがね、面白いことを言っていて、作品というのは生である、と。味を取り逃してしまう恐れがある。けれども生じゃないとわからないものがある。例えばスポーツ中継にはズームがあったり生以上に見えるようだが、それはすでに人が料理したものである。他人の視点が入ってきたものである、と指摘されています。(※)

だからこそ彫刻は生で見る価値があるんですよ。絵画よりも。情報量が桁違い

彫刻という三次元のものがメディアに載ると二次元の変換がどうしても起こってしまいます。絵画は同じ二次元の情報なのでそこまででもないですが。だから彫刻は生で見てなんぼですよ」

やはり彫刻は生で見るもの。自分の目で見るもの。だとしてもなぜ自分は何も思ってこなかったのか。心が動いたのは……Loftの時間になったら動く看板くらいなものだ!

※『日本美術応援団』赤瀬川原平、山下裕二 2000 日経BP社刊 にあるらしいです
一番上に斜めの線がある。また、上の右肩下がりは背景の階段に合わせているのでは?と推測
一番上に斜めの線がある。また、上の右肩下がりは背景の階段に合わせているのでは?と推測

まず形としてどうかを楽しむ

――赤瀬川さんが言うように生で見ることによって今、折り目みたいなディティールがあることがわかったりしましたよね。だけどそれをどう楽しめばいいんですかね

「こういう抽象的な彫刻作品の場合、純粋な造形物として見るっていうのは一つの手段としてあると思うんですよ」

――純粋な造形物として見るっていうのは「なんだか知らないが、カタチとしていいな」ってことですか?

「僕の想像なんですけど、あの細工がなされたのは結構最後の方だったんじゃないかなって。作品の真ん中に線が入ってますよね。多分作れるサイズの最大がここまでで、もう一個つなげたんですよね。

でもそのままだと何かバランス悪いんとちゃうかって考えて、アクセントでああいう線を入れたのではないかという推測はできると思うんです。そうすると座りが良いなあって。

あの細工がないとちょっと人前に出れないなっていうか。女の人が化粧をする感覚に近いかもしれません」

そもそもまず作者は形としての良し悪しを配慮して作ったのだろう。その証拠に細工がある。だからこっちもまず形として楽しむ。ということだろうか。

よし、楽しんだ。としたら次はなんだ。今日は、え、君、手羽先の軟骨そこまで食べるの?というくらいまで作品をねぶり倒すつもりだ。
業者の人も何ら気にかけるそぶりはない。
業者の人も何ら気にかけるそぶりはない。

どんな名画でも15分が限界説

「後はこういった書いてある文字を読んでみるとか。ここにあるのは作者側が出している最低限の情報、文脈なので。

下調べとか作家に対する理解も全然なくとりあえず素手で行っていける限界っていうのはこんなところですね。でもこんなものでも割と今15分ぐらい暇をつぶしてますけどね」

――暇をつぶせる時間が美術作品のよさの尺度なんですか!?

「そう言ってしまうと語弊がありますが、昔、予備校の先生が言ってたんですけど、どんな名画でも15分が限界だよって。2時間も3時間もその絵の前に私はいた!って語る人もいますけども。まあ、2時間とか3時間も見られる作品ってなかなか出会いませんよ(笑)」

なんてこった。15分が限界なのか。『フランダースの犬』のネロがルーベンスの絵を見たとき、あれも15分までなのか。「もう15分くらい見たしな…」そんなことを彼も思っていたのかもしれない。
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公共彫刻はクライアントワーク

――そもそもこういうのって「形としてイイ! 純粋な造形物としてイイ!」と思わせるために作られてるんですか?

「もちろんそうさせたいと思いつつも、作家が背負っている彫刻の歴史っていうものがあるじゃないですか。これまでの彼の作品だとか彫刻の歴史だとか。だからほんと両方です、両方。

たとえばこういう公共彫刻の場合はクライアントワークですから、ここの天井の高さはここまでとか、いろんな条件があるんですよ。そういった全体の景観に対して、自分の作品以外のところにも気を使っているのかもしれません」

さっきから作品の前で作業着姿の業者の人が電話をしている。この作品も彼とおんなじようにお客さんの言うこと聞いて作られたのだなあと。でかい彫刻、今や大人だからこそ染みるものがある。
かつてここにあった東京中央電信局。特徴的なカーブがある
かつてここにあった東京中央電信局。特徴的なカーブがある

下調べのおもしろさで左脳を加熱する

「ちょっとここから文脈の話になるんですけど、これ調べてきたんですよ。さっき文字のところにも書いてましたが、これって東京中央電信局のオマージュ作品なんですね。東京中央電信局がここにあったっていう記念碑らしいんですよ。

それで面白いなって思えたのが、ここ。これって電信局の形なんです。調べてみたら電信局ってこういう形が連続している建物なんです。1920年代の分離派とかモダニズムといった様式を取り入れた最先端の建物なんですね。

でもこうした形のオマージュを作品の間で表現するのはなかなか粋な仕事だなあと僕は思いますね」

ここで東京中央電信局を検索してみた。あの形だ。股部分のカーブだ。なるほど、これはおもしろい。これがあってこうなってるのかという歴史のおもしろさだ。下調べは左脳のおもしろをブーストさせる。
この彫刻作品の間の空間、これが「彫刻してない部分」であり、東京中央電信局をオマージュした形になっている
この彫刻作品の間の空間、これが「彫刻してない部分」であり、東京中央電信局をオマージュした形になっている

彫刻してない部分が重要

――でも、なんで作品の間で表現することが粋なんですか?

彫刻家は"彫刻してない部分"に対する感覚もすごく研ぎすましてるんですよね」

――彫刻してない部分ってのがその「作品の間」?

「そう、ここのくりぬいてる部分です。単純にオマージュするのであればこの間はくり抜かないはずです。電信局の形の浮き彫りをするとかそういう風なやり方になると思うんですけど、あえてスパンッとくり抜いて何も手を加えていない」

――なるほど。彫刻家は彫刻してない部分にも気を遣うべき、という考え方があった上で、「オマージュ作っとけよ」という課題をその彫刻してない部分で達成したのが粋ってことですね

「そのせいで道行く人にとってはオマージュ作品なのか余計わかんなくなってると思ってると思うんですけどね(笑)。

でも作者にとっては自分が考えている彫刻のあり方があって、一方、昔の建物を讃えろというクライアントワークを両立させないといけない。そのためにこうしたんだと思いますよ」

造形物としての良し悪し、自分が考える彫刻のあり方、クライアントワークや現実的な問題。3つの課題をクリアして今こうやって立ってるのだ。ここにきてようやくありがたみみたいなのがわいてきた。
こういう書かれてる文字も読む。テーマの線をとり入れたと書いてあった。ここから検索してもおもしろかっただろう。文字盤読む→検索、これを今後も取り入れたい
こういう書かれてる文字も読む。テーマの線をとり入れたと書いてあった。ここから検索してもおもしろかっただろう。文字盤読む→検索、これを今後も取り入れたい

作家の傾向でもあった

――他に調べるとしたらどういうことを調べたらいいですかね?

「作者の他の作品ですかね。実際、向こう側が見える形の作品をよく作ってるんですよこの人。蓮田修吾郎さん。

北海道の納沙布岬に高さ13メートルのでっかい彫刻があって。平和と北方四島の返還を祈って作られた作品だそうです。それもね、作品の間から北方四島を眺めるんですよ。作家の作風ですね。間から祈る。」

蓮田ファンならこの作品を前にして「よっ!」という感覚になったのかもしれない。蓮田さんは間から祈りがちだったのだ。なんでだろう、若い頃に見た天橋立の股のぞきがおもしろかったのかな……と、調べることで思考はまたちがうところに行く。

なるほど、これはおもしろい。塚田さんの話を聞いていくと鑑賞法がちょっとずつ更新されていく。次も純粋な造形物として見てみよう。次は大きくてかっこよくてわけがわからない大手町サンケイビルのあれだ。
大手町サンケイビルにあるバカでかい彫刻作品(アレクサンダー・リーバーマン / イリアッド・ジャパン “Iliad Japan”)
大手町サンケイビルにあるバカでかい彫刻作品(アレクサンダー・リーバーマン / イリアッド・ジャパン “Iliad Japan”)

なにが彫刻なのか? どこまでが彫刻なのか?

――これって彫刻っていうんですか? 模型を作って業者が作るんですよね?

「建築や彫刻をどう定義するかの問題ですね。彫刻1人で作るもの、建築みんなで作るもの、と分けてしまうとそれは建築になってしまう。

彫刻の歴史って、昔は土偶や埴輪があって、権力者の銅像があって、裸婦があって、今はこういうのでまた土偶に近くなってる。もはやどれを彫刻と言っていいかわからないところにアートの実践は進んでいます」

――立体のものは全て彫刻って言っていいんですか?

「例えば湖畔に堤防を作って、それをまるまる作品にしちゃったケースもあります。堤防そのものがアート。そうするといっぺんには見えないですよね。そういった作品をランドアートとかアースワークと呼んでいます。壮大な世界です。彫刻っていうのは。

なので定義はとてもむずかしいんですが、ひと目に収まるくらいだったら彫刻って言ってもいいのかなあとは思います。今のこれは一望できるので彫刻。と言ってもさしつかえはないかなと」
そのあと塚田さんに彫刻界のビートルズってだれですか?と聞いたら「……クフ王のピラミッドですかね」と言っていた。これはどえらい世界に足を踏み入れてしまったかもしれない。
どうなってるんだろう?的なおもしろさはある
どうなってるんだろう?的なおもしろさはある

服を選ぶときのように色や形を面白がる

――まず目の前の物を楽しんでみるってところからですかね。

「これだと単純にでかいっていうのがまずありますね。そして面白い形。こういった抽象的な形の組み合わせっていうのは単純に形に反応ことがまず第一ですかね」

――アートの歴史とか知らないふつうのおばちゃんとか子供も楽しめるべきものなんですかね?

潜在的にやっぱりみんな楽しめると思うんです。形が面白いとか色が面白いねって。服を選ぶときみんなそういった感覚で選ぶじゃないですか。それと同じことが彫刻作品とかにも言えるんですよ。

だってこれ『ど、どうなってんの!?』って形してますよね。全部同じ形ってわけじゃないし。

さっきは一つのものがポンと置いてあっただけですけど、こういう風に組み合わされてるとこうなってるんだとか色々思う。そうすると素手で行ってもけっこう面白いですよね」
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「どこからが作品なんですか?」台座問題が出てきた
「どこからが作品なんですか?」台座問題が出てきた

台座が大事、台座大問題

――これどこからが作品なんですかね?

「それは台座の話ですよね。あの、台座ってすごく彫刻の中でもすごい問題になっていて」

――え、台座って問題になるんですか?

「台座、問題ですよ。大問題ですよ。彫刻の歴史は台座の歴史。権力者や裸婦の時代は画一化されたものでよかったんですけど。

純粋な形で彫刻を作ろうってやりはじめたブランクーシって人がいるんです。台座が形態として作品と一体化している、ということをそれ見て評論家が語るわけです。台座は作品の一部として超大事だぞと。

後にアンソニー・カロっていうこれも有名な彫刻家なんですけど、台座からおっこちそうな作品を作るんですよね。本来彫刻は上に乗るものなのに、台座より下に行くっていうチャレンジ」

だんだん台座、台座言ってるのが可笑しくなってきた。おれは台座より下にいってやったぜ。そんなに大したことなのか?という思いが門外漢にはつきまとう。

「僕は美大に勤めてるんで学生の講評とか聞くんですけど、彫刻を作っている先生はやばいですよ。

『なんでこの台座はこの高さなの?』『なんでこの台座はこの材質なの?』とか。作品の講評そこそこに台座についての尋問。どこからどこまでが作品なのかっていうのは大事なんですよね。」
公共彫刻は周りの環境に左右される。只今ビアガーデン開催中。ベンチと机の色は作品に合わせているのではないか。となると、彫刻作品が環境に作用を及ぼしていることになる
公共彫刻は周りの環境に左右される。只今ビアガーデン開催中。ベンチと机の色は作品に合わせているのではないか。となると、彫刻作品が環境に作用を及ぼしていることになる

意味ってわかるものなの?

――抽象的なものに対して意味はなんだ?って思ったりしちゃうんですけど、意味が込められてたら自然とわかるものなんですか?

「うーん、そこから先は知識が必要になっちゃうんですよね。意味を知りたいなら勉強してくださいというのは心苦しいんですけども。

アンディー・ウォーホルっているじゃないですか。あの人、実は毎週ちゃんと教会に行くような敬虔なキリスト教徒だったんですね。

現代美術になると直接的に神様を表現するわけではないので、そういった宗教的な意味が作品に込められているのかは分かりづらいですね」

――ぼくらは意味まで探りに行くべきだと思いますか?

「それはもう自分の気持ち良い方でいいですよ。野球の外野席で見る気分でいいと思うんです。内野席じゃなくて外野席。

外野席って応援してる人と応援してない人がいるじゃないですか。自由でいいんですよ。広島なんてスクワットしてるぐらいですし。えっ、知らないですか! 広島のスクワット。こうやるやつ、あるじゃないですか。頑張りたい人はそれくらい頑張ってもいいんですよ」

塚田さんスクワットをやってみせてくれたのだが、こちらは美術だけでなく野球にも疎くて理解してあげられなくてごめんと思った。
塚田「またこの間からビルが見えるのがシュールな光景だなぁって」美術の人がシュールという言葉を使うと重みがある気がした
塚田「またこの間からビルが見えるのがシュールな光景だなぁって」美術の人がシュールという言葉を使うと重みがある気がした

無意味にできるのが美術の特徴

――作ってる方はなにかの意味をこめるものなんですか?

「いや、意味にならないでほしいってことも多いですよ。そういった意味のないことができるのって美術だからなんですよ。

文学だと言葉だからどうしても意味が出ちゃうじゃないですか。でも彫刻とか美術はまるっと無意味を差し出すことができる表現手段なので、そういったところをけっこう20世紀の美術は追求していました」

――無意味を差し出す??

「純粋な色と形と質感ですね」

――あ、純粋な色と形って言葉をよく聞きますね。純粋に見て楽しいってことか。でも文学はちがうとして、音楽は同じですかね。耳に心地よさがある。

「そうですね。音楽とかもそっち側ですね。たとえば僕はね、今これ見て目がすごく楽しいですよ。こうやって目がいろんなところに動くじゃないですか。美術作品を見てないとこんなに動かないですから。

だって普段こんなに首を曲げませんよ。でもこうやって美術と向き合うと首を上げざるをえなくなる。身体的な要素あると思うんですよ」

身体で楽しいと思えるものだから意味とかない。やっぱり美術鑑賞はこちらにウホウホっとした感じが必要なのかもしれない
こんだけ首が上がるのは美術作品を見ているから
こんだけ首が上がるのは美術作品を見ているから

変な意味があったらどうするのか

――でもこれすごくへんな意味があったらどうします? たとえば作者に「ベーコンエピを作ろうとしたんだ」って言われたら。麦の穂の形をしたパンです。なんだパンかよ、みたいなものを意味としてあげられたらげんなりしますか?

「仮に作者がそう言ったとしたら、あーそうなんですねって言うしかないんですね。

草間弥生が水玉を描いていた時期があるじゃないですか、あの人は実際にあれが見えてたって言ってますからね。病気も患われて幻覚とかの症状なんですけど、にわかには実際に見えるものとも思えない。でもそう言われると、受け取らざるを得ないんですよね。

でも、あーそんなところから来てるんだっていうのはほかの表現でもあるじゃないですか。ベーコンエピもありえますよ」

意味を知ってげんなりしたとしても、目の前にある作品の価値は変わらない……だとしてもパンだったら「パンかよ」ってなると思います、ぼくは。
――映り込む自分の顔が曲がって面白いなと思うような作品が公園にあったりするなあと思って選んだんですけど、そんな単純な楽しみ方でいいんでしょうか? (多田美波 / Chiaroscuro)
――映り込む自分の顔が曲がって面白いなと思うような作品が公園にあったりするなあと思って選んだんですけど、そんな単純な楽しみ方でいいんでしょうか? (多田美波 / Chiaroscuro)
塚田「こういう表面が反射することによってどんな場所でも唯一無二のイメージが写し出されるっていうこともあると思いますよ」鏡面は置かれた場所を映し出すので環境になじみやすいとも
塚田「こういう表面が反射することによってどんな場所でも唯一無二のイメージが写し出されるっていうこともあると思いますよ」鏡面は置かれた場所を映し出すので環境になじみやすいとも
塚田「これも台座問題が影を落としていますよ。作品と同じ材質になっていてもはや台座なのか分からなくなってる」台座ぁ。おのれ台座ぁ…
塚田「これも台座問題が影を落としていますよ。作品と同じ材質になっていてもはや台座なのか分からなくなってる」台座ぁ。おのれ台座ぁ…
塚田「実際この作家さんはこの方法論で他にも作ってますね。この辺の微妙なカーブとかもね、カーブした金属の映り込みが独特の味わいになっている。下のタイルの境目の歪みかたとかきれいじゃないですか。僕こういう歪みかた好きですよ。こういうゆらゆらとした感じ」これはたしかに造形物のおもしろさが伝わりやすい
塚田「実際この作家さんはこの方法論で他にも作ってますね。この辺の微妙なカーブとかもね、カーブした金属の映り込みが独特の味わいになっている。下のタイルの境目の歪みかたとかきれいじゃないですか。僕こういう歪みかた好きですよ。こういうゆらゆらとした感じ」これはたしかに造形物のおもしろさが伝わりやすい
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でかい公共彫刻界の大物イサム・ノグチ

――次に見るのはイサム・ノグチという作家のものなんですが企画の発端になったんですよ。イサム・ノグチって名前はよく聞くけどなんなの?と思って調べてみたら「あー、おれはこういうでかい彫刻を公園でよく見てきたけど全くわかってない!」と思って
背後にスペースがなく、写真におさまりきってないんですが(イサム・ノグチ / 門 “GATE”)
背後にスペースがなく、写真におさまりきってないんですが(イサム・ノグチ / 門 “GATE”)

色の位置関係

「これ2色で使われてるからギューンとした前後感がありますよね。黒が奥にいって赤だからバーンと前に見えてくる。色のついた彫刻には三次元の位置関係にどう影響するのかを観察してみる楽しみ方もありますね」
色の効果で赤は前に、黒は奥にいく。ふたつはまっすぐに配置されていない
色の効果で赤は前に、黒は奥にいく。ふたつはまっすぐに配置されていない

調べるとレゴであることがわかった

「あとこれはね実はレゴブロック的な作品なんですよ。

この作品の制作年が1969年なんですよね。1964年に東京オリンピックありましたよね。あの時に高速道路建築ラッシュがあったんですよ。その時に生産された高速道路用の梁と桁なんですってこれ。

形の決まったものを組み合わせて作品を作ったっていうのがレゴブロック的。そういった既製品を使っているからこそちょっと組み合わせるだけでおかしげなイメージになるっていうか。

それは現代美術の方法論の1つであるんです。レディメイドっていって20世紀の美術の大きなテーマだったので。その流れも組んでいるんだなぁってのは味わい深いですね」

既製品の便器を持ち出して「泉!」とマルセル・デュシャンが言ったのが1917年。あれは一発芸などではなく、ちゃんと「おかしげなイメージになる」という美術の方法論であり、その証拠に50年後のイサム・ノグチにまで受け継がれているのである。
――イサム・ノグチは意味込める系ですか? 塚田「どっちかなあ。さっきの純粋な色・形・質感という話したじゃないですか。本当に純粋であろうとすると何も手は加えないんですね。ミニマルアートっていうんですけど。でもこれは前後感ついてたり、なんか普通じゃつまんないなっていうのを感じる。僕はこれ普通にイサム・ノグチがレゴブロックで遊んだんじゃないかと」イサムよ、でかいレゴをしたもんよのう…
――イサム・ノグチは意味込める系ですか? 塚田「どっちかなあ。さっきの純粋な色・形・質感という話したじゃないですか。本当に純粋であろうとすると何も手は加えないんですね。ミニマルアートっていうんですけど。でもこれは前後感ついてたり、なんか普通じゃつまんないなっていうのを感じる。僕はこれ普通にイサム・ノグチがレゴブロックで遊んだんじゃないかと」イサムよ、でかいレゴをしたもんよのう…

イサム・ノグチと野口英世

――イサム・ノグチは日本の人なんですか?

「ほぼアメリカの人ですね。調べて初めて知ったんですけど。日本人のお父さんが渡米した先の彼女の子供。イサム・ノグチはアメリカの大学の医学部に入学したんですけど、でも自分は芸術のほうに行きたいなって。その肩を押したのがその医学部で先生をやっていた野口英世らしいです」

――「へえ、あんたも野口って言うんだ…」ってあったかもしれないですよね

「そうですね、NANAですね、NANA」

ノグチと野口! でかい彫刻から完全に外れてくやしいがそのNANAは読んでみたい。
「へえ、あんたも野口っていうんだ…」と野口英世とイサム・ノグチが
「へえ、あんたも野口っていうんだ…」と野口英世とイサム・ノグチが
こういう石の大きな作品が公園の中にあるなあと(速水史朗 / からみ合った柱 “Embracing Columns”)
こういう石の大きな作品が公園の中にあるなあと(速水史朗 / からみ合った柱 “Embracing Columns”)

祈りが込められてるタイプ

「これはさっき言った彫刻の歴史でいう土偶的な感じ。プリミティブな感じがするじゃないですか」

――原始的ってことですよね。子供が土遊びしてる感じとかですか?

「そうでありつつ何かの祈りとかが込められているものがプリミティブなもの。

ぼくはもうこれ子孫繁栄の祈りにしか見えないですけれど。突起物があることによってそれが確信に変わりました。

事前に写真で見て微妙にクネっとした感じが女性的だなぁとか思ってたんですが、実際に見たらもう完全に『あるやん』という。これは神様がいるタイプですね」

塚田さんが言わんとしてることはわかる。ここが女子校ならさわがしくて授業を中断するレベルで愛し合っている。この作品の三次元性はガンガン左脳に響いてくる。
クネッとした形が女性的。真ん中に接合部があって、子孫繁栄の祈りの作品ではないかと
クネッとした形が女性的。真ん中に接合部があって、子孫繁栄の祈りの作品ではないかと

なぜ神様ばかり込めてくるのか

――意味があるかどうかって話に、なぜすぐ神さまが出てくるんですか? 意味をこめるっていって、パンの意味とか込めないんですか?

「パンは……さっきのやつがギリギリじゃないですか」

――でもなんか美術だけ神様を込めがちじゃないですか。 F1マシンに神様込めないですよね?

「それはもう宗教画という一大ジャンルが存在してますから。

美術っていうのはさっきも大北さんが言ってたように、何か意味があるんじゃないかという勘ぐりをさせるじゃないですか。なんでそういう思考回路に僕たちがなったかっていうと美術っていう表現がまずどういう風にはじまったかにさかのぼるんですね。

美術って何かをコピーするものなんですよ。洞窟壁画なら牛が描かれているとか。

例えば18世紀のはじめての百科事典と呼ばれている百科全書というものに、絵画の起源は『愛する人のために落ちる影をかたどったもの』だと書かれているわけです。

つまり何か現実にあるものがコピーとして再現されているような気がする、そういう錯覚を美術という表現は起こすことができるんです。

だから本当はいないけれども神様の顔はこんな感じですよ、と仏像とか宗教画が作られる。

文字が行き渡るのは印刷物が出現する16世紀とかなので。文字が読めなくても何かを伝えることができる美術というのは、それ以前の宗教が力を持っていた世界の中ですごく重要なものとして扱われてきたという歴史があります。

美術と宗教が近いもののように感じるというのはそういった歴史的な経緯があるんじゃないのかなと」

なるほど、という言葉に税が課せられるとしたら国産の軽自動車1台分くらいはなるほど税を納めた。意味、意味いってるのは宗教と絵画の歴史からだ!!
塚田さんをして「あるやん」と言わしめた接合部。これが本当に必要だったのか、あごひげに手をやりながら考えたい
塚田さんをして「あるやん」と言わしめた接合部。これが本当に必要だったのか、あごひげに手をやりながら考えたい

言葉で理解したいから意味をきく

――そもそもずっと違和感があるんですけど「これ意味はなんですか?」とか「テーマはなんなんですか?」とか意味を聞きがちだなーと思うんですよ。おばちゃんは。おばちゃんは、というか世間というか僕もなんですけど

「やっぱりぼくたちは言葉の世界で生きているんでね。答えが欲しいという心情は分かりますけれども。

でもやっぱり彫刻あるいは作品を見ることはそういったことを一旦忘れてみる。一旦『この形ってなんだろう??』というところから始める。自分を今までの常識とかから外して、とりあえず生のままで単純に自分の目だけで向き合ってみる。

そこから始めて、もう一度現世に戻ってくる。そういった体験をさせてくれるのが『作品』と呼ばれるものなのかなと思いますけれど」

いったん原始人とか赤ちゃんになって作品と向き合ってから、またおばちゃんになって「意味なんやの!? 意味わからへんわ」と考えたり。なるほどなるほど。これは忙しくなってきた。

その見方でいいんだよと背中を押された気分

ある程度歳を重ねていくと、それなりに芸術作品というものの隣を通り過ぎる。そして自分なりの味わい方みたいなものもなんとなく身につける。

「意味わからんわとかおばはんは言うけど、芸術って多分そんな意味ないよなあ」とか「ありのまま楽しむって言っても、何も考えずにこの音楽に身を任せて踊ればいいのよ!ってのもなんか恥ずかしいよなあ」とか。

なんとなくこうかなという芸術の味わい方みたいなのが自分にあるのだが、はたしてこれが正しいのか自信がないのだ。

これは自分のトイレの仕方が正しいのかどうかという問題に似ている。

今回いろいろ話を聞くと、意味を考えるのも感覚で味わうのも「どっちも正しい」ようだった。

言葉にすると特別大したことではないし、今までが間違っていたわけでもない。しかし「それでいいんだよ」と言われたような安心感がある。

なんていうかトイレの仕方を「それでいいんだよ、そうだ、みんなそうしてるよ、便座に座るんだよ。そうそうそう、いいよ、便座に腰掛けて、そうだ、トイレットペーパーは三角に折られていてもひきちぎっていいんだ!」と認めてもらったようで気持ちがいい。
台座に「絆」って書いている箱根駅伝の銅像。台座は大事問題が再び
台座に「絆」って書いている箱根駅伝の銅像。台座は大事問題が再び
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