はたして本当にかっこよいのだろうか
「雨に濡れた子犬を革ジャンで抱きかかえる」という場面が思い当たるだろうか。
世代にもよるだろう。物語において不良がヒーローとして扱われた時代にそのような描写が流行ったのだと思う。(あの恐ろしい不良が! 誰も見てないところで! 雨に濡れたかよわい子犬を! 大事な革ジャンで! 自分は傘もささずに!)と、かんたんに言えば悪い人が良いことをするギャップによるかっこよさである。
もちろんそうした場面を私たちは見たことがない。誰も見てないところで善行を積むのが不良だからだ(見ているところでやってたら善行積むわ不良行為するわのただの気まぐれな人である)。
そうした場面を意図的に作り出してみよう。仲間内で革ジャンを持っていた者に被写体として協力してもらった。
被写体には自前の革ジャンを持ち込んでもらった。雨に濡れることは伝えてある。子犬はプラスチックの置物、雨はじょうろで代用することにした。
まずは雨に濡れる子犬を再現してみよう
雨も子犬も本物ではないが、かよわい感じやかわいそうな感じは伝わる
被写体には不良が雨に濡れる子犬に気づくところから再現してもらった
写真からじょうろや白衣の人部分を除けばやさしさが見える
「お前も独りなのか…」と不良が語りかける
大事な革ジャンで守って温める不良
そしてカメラ目線。これらの3枚を通じて私たちは雨に濡れた子犬を革ジャンで抱きかかえるのは本当にかっこいいことを知る
思っていた以上にかっこよかった
言ってみれば手垢のついた表現である。本当にかっこよくなるかは懐疑的であったが、実際にやってみると思っていた以上の結果が出た。
なるほど、これはたしかにかっこいい。革ジャンと子犬のギャップが生まれている。「雨に濡れた子犬を革ジャンで抱きかかえるとかっこいい」は真であることがわかった。
さて、このかっこよさはどこからうまれてくるのだろうか。不良の革ジャンと子犬の組み合わせからだろうか。ならば条件を変えてみよう。
たとえば「不良の革ジャン」を「医者の手術着」に変えてみるとどうなるのだろう。
これが革ジャンでなかった場合はどうなるのだろうか。仮に手術中の医者としてみよう
手術用の医者が雨に濡れた子犬に衛生的な衣類をかぶせる
雨の中子犬を温めてえらいなと思うが、医者は本来人助けをする職業でありギャップは生まれない。それどころか「医者よ、手術はどうした」という気持ちがわきあがり、かっこいいがかすんでしまう
不良の革ジャンだからこそかっこいい
先程不良が革ジャンをかぶせるところがかっこいいとは思えなかった方もこれを見れば納得だろう。
医者が手術着をかぶせてみたところは不良ほどかっこよくはない。これは本来人助けをする医者が子犬を守るという善行をしたところでギャップが生まれないからであろう。
よって今回の実験において、不良の革ジャンは必要である(悪人の◯◯、たとえば鬼のパンツなどで代替可能かもしれない)。
さて今度は子犬という条件を変えてみよう。ここは子犬である必要があるのか? 他にかっこよくなるものがあるのだろうか?
たとえば子犬を小鳥に変えてみてはどうだろうか?
子犬が小鳥だった場合はどうなのだろうか。かよわい動物という点では同じである
小鳥はかよわい。そのうえ小鳥がおとなしく止まっているというところに聖人性を感じる。その結果、よりかっこいい写真となった
以降、雨の部分はすべてこのような構図で撮影されている
もともとは子犬の置物というニセモノの子犬であったわけだが、ニセモノっぽさを高めてみるとどうなるだろう。お風呂に浮かべるあひるの玩具をあひるとして扱おう
先程の小鳥の件があるので今回も小鳥を抱えているのかなと思わせられる
しかし抱えているのはあひるの玩具である。しまった。この人は危なそうだ。一瞬で狂気が宿った。本当の意味での悪(ワル)だ。
かわいらしい子犬から「かわいらしい」部分だけを残し、どしゃ降りの中、こけしを守ってもらったのがこちらである
狂気性はまた増し、副産物として和の心というものを感じるようになった。もしくは水子供養への強烈な信心である
「雨に濡れた子犬」から「雨に濡れた」部分だけを抽出し「雨に濡れた軍手」にした。道におちていてよく濡れているものといえば軍手である。
一体どうしたことだろう。ギャップによるかっこよさは息を潜め、「まだ使える」といった貧乏くささがぐんと伸びた。これは軍手の実用性によるものだと思われる
濡れてるといえばこうした紙類である。今回は中華料理店のクーポンのチラシである
実用性のあるものを雨から守ると「かっこよさ」が息を潜め「貧乏くささ」が伸びることがわかった。それもどしゃ降りなのだから、うんとハードなやつだ。
「いらっしゃいませ…」このクーポンが店に持ち込まれた瞬間、店内に緊張が走ることだろう
濡れては困る物を守ってはどうだろうか。今回用意したのは乾物、それも昆布である。
表情によるものかもしれないが、悲哀や憐憫を被写体に感じる写真となった。雨に濡れた昆布を大事にしているこの人はかわいそうに見える。かっこよさはどこへいったのか。この人を法律や福祉政策で保護してあげたい。
食べ物つながりで雨に濡れそぼったツナ缶を保護してもらったのがこちらである
狂気と貧乏くささが入り混じったなんとも言えない思いである。家に帰ってこの人はツナ缶を吸うのであろう。食べるのではなく、音を立ててまずは吸うのであろう。
「かよわき子犬」の「かよわさ」を抽出し、こわれやすいラスクに置き換えてみた
雨からラスクを守る図。とたんに、こそ泥感が増したのはなぜだろうか。高級食材感と革ジャンとの組み合わせが、こそ泥感を高めるのであろう。
「かよわさ」から離れて「ひょうきん」を保護してみた。ずぶぬれの陽気な鼻眼鏡を革ジャンで守る被写体。混乱につぐ混乱である。カメラ目線なのもより混乱が深まる
ずぶぬれの卒業証書を守る被写体。不良が卒業証書を大事に持っていることはたしかにギャップである。しかしなぜだろう、かっこよくはない。卒業おめでとうという気持ちが強い。
まったく意味のない事物に置き換えてみてはどうだろうか。今度は大きなバネである
ずぶぬれのバネを雨から守り抱きかかえる被写体。またしても大いなる混乱である。工場の方なんだろうか。だとしてもなぜそんな大きなバネを?
もっとも意味のなさそうなものとして、これぞハンズの素材コーナーとでもいうべき半球状のスチロールを用意した
一体どうしたのだろう。なぜかSF映画のような雰囲気をおびてきた
人類がまだ猿だったときにこの物体に触れ、叡智を授かった。そんな歴史が今見えた。
かよわい動物と革ジャンの組み合わせの妙味
さまざまな条件で実験をしてみたところずぶ濡れの「かよわい動物」を「革ジャンで」雨から守る不良がかっこいいことがわかった。
これが「こわれやすいラスク」でもだめだし「ずぶ濡れの軍手」でもだめだった。
また、ギャップが生まれればよいのかといって「不良が卒業証書を大事にしている」というのもかっこいいとは言えなかった。悪いやつが内面に善人の心を持ち合わせているのがかっこいいのであって、学のない人が学業への執着心を持っていることはかっこよくはないのである。ただ「卒業おめでとう」という気持ちばかりが残った。
それにしてもなぜ不良の善行がかっこいいのだろうか。
我々は不良に甘い。物語の世界ではずっとヤクザものが人気であるし、ヤンキーが母校に帰ると国政にかつぎあげられるくらいまで喜ばれる。
だからこそ「ガリ勉」なんて知性を揶揄する言葉が生まれてしまうのかもしれない。東大卒よりも金太郎みたいなサラリーマンが理想なのかもしれない。優秀な人達が正当に評価されないことは社会にとっても損失である。
しかしいいかげんに認めよう。我々は雨に濡れた子犬を助ける不良が好きなのだ。なぜ不良が好きなのかはわからない。それでも手術中の医者が雨に濡れた子犬を抱きかかえてるのはかっこいいと思えないのだ。
「早く手術にもどれ」と思ってしまうのだ。
夏といえど真水をずっと浴びてるのは相当寒いらしい。そしてこのあと「あたしゃ高額納税者だ」というおばあさんが現れ、なにがなにやらだった