日常にオリジナルサインを
小学生の頃、スターになった将来に備えてサインを創作しようと試みた記憶はある。平凡に成長し、何者にもなれないと悟ったときに破り捨てたが、サインは何も著名人の特権ではない。印鑑文化の日本と異なり、海外のビジネスシーンではサインが基本。誰もが日常的にオリジナルのマイサインを用いているという。
ならばサインを作ることで、僕はグローバルでワンランク上のビジネスマンにステップアップできるだろう。そして、やがて株式を上場してカリスマになり、サインを求められる存在になることだろう。スターだからサインが必要なのではなく、サインがスターを引き寄せるのかもしれない。
しかし「ビジネスサイン」というのは、どうやって作ればいいのか? 教えを請うべく、手書きサイン創作サービスを展開している「署名ドットコム」を訪ねてみた。なお、同社は「自筆サイン普及協会」も運営しており、日本にビジネスサイン文化を根付かせる講演活動なども行っている。
本も出している
専務の古泉さんが色々教えてくれた
こうした手書きサイン創作専門会社というのは国内に数えるほどしかないようだ。しかし、近年そのニーズは高まっており、同社にも月あたり数百の依頼があるという。
「最近は役所や銀行などでも印鑑不要のケースが多くなり、代わりにサインをする機会が増えているようです。ビジネスでも簡単に書けるサインがあると便利ですしね。経営者に限らず、若手や新社会人の方もマイサインを作りにきます」(古泉さん)
なお、同社ホームページでは新社会人に「自分だけの剣を持とう」とのコピーでビジネスサインの価値を啓蒙していた。かっこいい。
ということで、剣の作り方を指南していただく。
「詳しいことはこちらの本に書いてあります」と社長の林さん。ビジネスサインの作り方を教えてもらう見返りに宣伝
最も基本的なポイントは「どこまで画数を省くか」。デザイン性だけでなく、書きやすさも考慮しながら最適解を求めていく。
なお、署名ドットコムでは、基本メニューとして9種類のデザインパターンを用意している。漢字と英語、そして「どこまで崩すか」によって分類した型の中から好みのものを選んでオーダーできるという。
サンプルを見せてもらった。
これまで約3万4000個のビジネスサインを創作してきたそうだ。ヒトの遺伝子より多い
■実用型
最も一般的で使い勝手がいいのがこれ。あまり大きく崩さず、元の字の形を重視したデザインだ。画数の多い漢字はなるべく線を省き、視認性を維持しつつもサインとして滑らかに筆が運べるよう考えられている。
古木勝之
Tomonori.M
■速写型
とにかく素早く署名できるよう、姓または名の一部、あるいは一文字全てを大胆に簡略化。限界まで画数を削減し、最初から最後まで一気に書き上げられるようデザインされている。オバマ大統領のサインもこれに分類されそうだ。
坂内和士
D.Mori
■個性型
さらに大きく崩した「個性型」。主に芸能人のサインに見られる。誰もが一回は練習するやつである。元の字を大胆にデフォルメ。インパクト重視で誇張、変形、装飾を加えている。オーディションに受かったアイドルとか、ドラフトにかかった高校生などがオーダーしにくることもあるらしい。
箭内恵子
Jouji.T
かっこいいサインをつくるコツ
視認性は「実用型」>「速写型」>「個性型」。一方、デザイン性は「個性型」>「速写型」>「実用型」といったところであろう。なるほど、確かにこんなの書けたらいいだろうなーと思う。宅急便の受け取りサインをこれにして、配送のにいちゃんをびびらせたい。
古泉さんに、かっこいいサインを作るいくつかのメソッドを教えていただいた。
■サイン全体の構図を決める
まず決めるべきは、サイン全体のフォルム。三角形、四角形、円形など、どんな図形の中に文字をおさめるかによって、印象が変わるという。
たとえば、以下は「三角形」の中に名前をおさめ、どっしりとした印象を与えている。
坂内和士さん。底辺がしっかりした三角形の構図は安定したイメージになる
一方、四角形は落ち着きのある構図、円形は可愛い印象を与える構図。
誠実、やわらかい、エッジが立ってる…などなど、「どんな自分を表現したいか」を考え、構図を選ぶのがコツであるという。
古木勝之さん。横長の長方形がガッシリとした印象を与える。「剣道4段!」といった佇まいがある
■直線と曲線、どちらかを活かす
文字を形作る線は「直線」「曲線」の2種類。どちらを活かすかによっても、印象は大きく異なる。直線を強調するとシャープになり、曲線を多用するとやわらかくなるのだ。
タテヨコの直線を活かした藤本拓也さん。名前全体を貫く横線が、一本筋の通ったデキる男感を漂わせている。間違いなく平社員ではなかろう
山口知果さん。こちらは曲線を強調し、やわらかい印象。トップにも部下にも信頼される女性マネージャーである。その人当たりの良さで、チームを上手にまとめてくれそうだ
名は体を表すというが、サインはそれをデザインに落とし込んで表現する。マイサインは「自分はこういう人間です」という周知にもなるし、日常的に使っていくことで「なりたい自分」に近づいていけるのかもしれない。
他にも、ひとつの文字を強調してロゴっぽくするテクニックや
最終筆を利用して、その人の趣味や職業にちなんだモノを図案化するテクニックも。こちらは「和」の字の形を活かし「ギター」を表現
その他、詳しいことはこの本に書いてあります
どのサインもだいたい3~4筆で書けるよう設計されているという。慣れると2秒で署名できるようになる
日常用語をサインにする
サイン作りの基本的なコツは分かった。
だが、せっかくなのでビジネスサイン書体のすごさをもっと感じたい。
たとえば名前とかじゃなくて、もっとくだらない言葉、まぬけな言葉もサインにしたらかっこよくなりませんかね? ねえ古泉さん。
「くだらない言葉ってなんですか…?」
た、たとえば「うんこ」とか…?
……
それまで柔和だった古泉さんの表情がとたんに険しくなる。そのままパーテーションの奥に引っ込んでしまった。
「うんこ? なんで?」。どうやら、専務と社長によるトップ会談が行われているようだ。パーテーション越しに、特に社長の困惑が漏れ伝わってくる。このビジネスを立ち上げて約10年、必死で取り組んできたのは日本にサイン文化を根付かせるためであり、「うんこ」という文字をデザインするためではないのである。
古泉さんが戻ってくる。すかさず土下座に入ろうとする僕に専務は言う。
「ひらがなは難しいんですよ。だから、うんこじゃなくて『便秘』とかはどうですか?」
「便秘」ならイケます
なんと、まさかの逆提案。なんだー、嫌いじゃないなら言ってくださいよ。
翌日、メールで送られてきたのが以下である。便秘以外にも色々作ってくれた。
まずはこちら「牛丼特盛」。A5ランク牛を使用し、2900円くらいしそうな雰囲気が出た。そのままお品書きに使えるんじゃないかという完成度
難しいといいつつ、ひらがなも作ってくれた。ファッションブランドのロゴを思わせる「じゃがいも」。野菜の中でも朴訥なイメージだったのに、随分とあか抜けたものだ。カレーなどにおいそれと使うのはためらわれる
そして、「今日便秘」。リスキーな状況でありながら、あえて四角形の構図を採用しどっしりと構えている。「本日は便秘で候」といった、武士の潔さを醸し出している。この人は、漏らしても凛としているんだろうか
日常的な言葉にすらここまで意味を持たせるビジネスサイン書体。これは楽しい。
ちなみに、僕のサインも作ってくださいました。かっこいい! 仕事デキそう!
本人の10倍かしこそうなサインである。年収1000万円稼いでいないと割に合わない。
書き順も指南してくれます
サインは万年筆で書くのがいいというので、さっそくアマゾンで5000円のビギナー用を注文した。
このサインに見合う人間になれるよう精進していきたい。
サインがかっこいいと、やたら署名したくなる
さっそく先日、行きつけのサウナで初めてマイサインを使った。貯まったポイントカードを入浴券に引き換えるサインだが、まるで億の取引を交わしているかのような錯覚を覚えた。これは楽しい。もっともっとサインしたい。今は宅配便の人が来るのが待ち遠しい。