渋谷にも意味のないものはあるし、物語もある
渋谷の街に意味がないものは少なかったが物語を感じさせるものは多かった。
やはり自然にそうなったのではなく、誰かがそうしたからだろう。そこに意味はなくても意図は感じられる。
家の中には、必ずなぜそこにあるのか意味の分からないものがある(うちだけじゃないことを祈る)。
しかし、緻密に設計された都市には意味のないものなんてないのではないか?
道端に置かれているものは、きっと誰かがなにかの用途で設置したものに違いない。
歩きながら判定していくことにした。
街に意味のないものなんてない。きっと誰かが意図を持ってそこに設置したからだ。
そうした憶測に従って渋谷を歩いてみたいと思う。
ちなみに持っている旗は最終的に使ったり使わなかったりだったので触れないことにする。いきなりの無意味。
さっそく歩いていこう。と、まず見つけたのがこちら。
歩道橋から繋がっているこのパイプを伝って雨が流れてくるのだが、不自然に連結されているパーツがある。
これはなんだろう。ぱっと見では意味がなさそうに思える。
話し合った結果、もしそうしないことが可能ならそうしないだろうし、あえてやっているのだろうと判断して意味はあるということになった。
予想通り渋谷にはそうそう意味のないものは見当たらない。意味のないものを見つけられたらわれわれペデストリアン4人はたいへん喜ぶというのに。
意味がないものは本当にないのか……。我々は意味のジャングルに迷い込んだのかと思いかけたところ、こんなものがあった。
もともと繋がっていたけど今は繋がっていない塩ビ管(?)と思われるものだ。
今はたぶん廃棄されずにただ底に残っているだけのようす。つまりゴミ。捨てるにしても、茂みの中にあるから入るのはちょっと面倒だ。
ゴミだから意味が無い、としてもいいだろうか。「目にうつる全てのことは メッセージ」と昔の偉い人は言っていなかっただろうか。保留にしたい。
意味とは、あるなしのデジタルではなく、濃淡のあるスペクトラムなのかもしれない。
「果たして意味とは?」と分からなくなりながら、そうこうして見つけたこちらの段差プレート。
そう、段差プレートの先が花壇になっていて、車が通過したりできないのである。
これは意味がないと言えるのではないか。段差プレートの意味をなくしたい人の設置方法である。
満を持して全員一致の意味なし!
そして歩いていると、意味がないものを続けざまに発見する。
こうして意味のないものを見かけると目がキラキラと輝くのを感じる。意味はないからこそ、そこに価値を感じ始めたところである。チューリップの球根を売られたら買う勢いだ。
(このように意味のないものに価値を感じ始めると、ものが捨てられなくて部屋がごちゃごちゃになる。)
引き続き渋谷川沿いを歩いていると、こんな景色を目にした。
これ、意味があるのだろうか? ここから出ても渋谷川に落ちるだけである。法律上必要なのだろうか。
ビルが火事のときここから脱出する人々の様子をじーっと想像する。見えてきた……気がする。
このブロック、意味ない状態にあると言えばあるのだが、禁煙の看板を移動するために取り外されている。
その様子を想像すると、端的に「意味なし」と判断することはできない気がしてきた。これも想像の力である。
意味はないかもしれない。ただそこに木の支えがあったという物語を想像させる。
その横には歩道橋の工事現場があって、いい景色だった。
こうした工事途中の状態の歩道橋に対して、意味があるかどうこう言うことはできないだろう。
前述した通り意味はスペクトラムな形で存在するのだ。時の流れの中に偏在するものであり、物語的存在とも言える。
そして我々の意味を巡る視察の最後に迎えていたのがこちら。
郵便ポストの上に厚底スニーカーがあるのと遭遇すると、意味と価値でもなく、その背景にやはり物語を感じられる。
片方だけの靴で帰ったのか、誰が乗せたのか、となりのブローチのようなものは何なのか……。
意味に思いを馳せると物語が生まれる。
渋谷の街に意味がないものは少なかったが物語を感じさせるものは多かった。
やはり自然にそうなったのではなく、誰かがそうしたからだろう。そこに意味はなくても意図は感じられる。
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