ヤブイヌを見に行く、という希望
勤務時間に終わるわけがない労務量が僕におおいかぶさり、連日の残業である。
なぜだろうか。スキルアップを目指して成長しようとした末路だろうか。就業の限界、夜23時まで職場にいてやれるだけ仕事をし、帰って寝る。寝ている間もやり残した仕事の夢を見る。
深夜23時40分、帰宅。
ちなみにもちろん残業代は出ない。よって少し口を悪くて言えば「月々使い放題、定額制社員」状態である。
そんな追い詰められた僕の胸にあたたかい一つのイメージが浮かんだ。
そうだ、僕はずっとヤブイヌを見に行きたかったのだ
これがヤブイヌ。(『レッド データ アニマルズ2 アマゾン』)
イヌ科の始原を伝える動物
ヤブイヌは原始的なイヌの仲間で、イヌとも何とも判断の付かない短足の姿が何とも言えずかわいい。ゆる系動物としてまあまあ人気がある。
そして僕自身はかわいさのみならず、生物分類学を学んだ者として、ヤブイヌの「原始的な形態」に強い関心がある。
タヌキなの? イヌなの?
原始的な形態は動物として「デフォルト」の状態であるはずなのに、絶滅せずに現存してしまうと、何にもなっていないその形態がかえって奇妙に感じられておもしろい。
タヌキとイヌの間ぐらいっぽいです。(『新版 絶滅哺乳類図鑑』より)
イヌでもない、タヌキでもないイヌ科の動物。
化石だけ最初に見つかり、絶滅動物だと思われていたのに現生種が発見された、といういきさつもシーラカンスと同じで、珍獣界では「一流の肩書き」と言えるだろう。
まさに神が哺乳類にもたらした奇跡だ。この目で見ずには死ねない。
これなんかもちょっとヤブイヌぽい?(『新版 絶滅哺乳類図鑑』より)
日が昇るころ出かけた(ヤブイヌの岬へ)
朝6時に家を出る。
休日出勤で削られまくったシルバーウィークは、もはや銀ではなく、銅ですらないが、そんなことにもめげず心をきりりと引き締めて出かける。目指す先は横浜だ。
僕の好きな曲に、スピッツの『死神の岬へ』という歌がある。
世の中に疲れた二人が、日が昇るころに家を出て、古い車で岬へドライブに行く、という歌だ。そして二人は岬で「やせこけた鳥」と「年老いたノライヌ」に出会う。
図らずも好きな曲と似たシチュエーションになり、思わず胸が高まる。僕はよこはま動物園で「原始的なヤブイヌ」に出会うことができるのだろうか。
よこはま動物園に到着
動物園はいかにも休日らしく、開園前から長蛇の列だった。僕は並びながらヤブイヌのことを思う。
群れでのろのろと散歩するするヤブイヌを、30分でも1時間でも眺め続け、ただ純粋に時間を過ごしたい。ヤブイヌのことを思えば、子供が騒ぎまわる行列に並ぶのも苦にならなかった。
開園
開園と同時にすみやかに目的の飼育場へと向かう。ゾウなんかには目もくれない。今日いちばん最初にヤブイヌに会うべきは僕だ、僕しかいない。
人ごみをかき分け、抜け道をすり抜け、僕はとうとうヤブイヌの飼育場にたどりついた。
あ、あそこに動いたの……
ヤブイヌ!
そこにヤブイヌはいた。
絵ハガキも図鑑でもネットでも、何度も見た姿だ。
短い足に、つるっとした首回り。
最高にかわいい。なんだろうこのマヌケばかさ加減。原始的かどうかなんてこと一瞬で忘れ去る、超ド級のかわいさだ。
あくび姿。ちゃんとキバもある!イヌ科!
が、しばらく見ていると何かがおかしいのに気づく。
……あれ、これ、いくら探しても1頭しかいないじゃないか。10頭ぐらいいると聞いて、群れる姿に憧れて見に来たのに、1頭しかいないじゃないか。
しかも実は、ヤブイヌまでけっこう遠い。
そして動きも見ていて何だか不安を誘われる。
同じ道を繰り返しえんえんと踏み歩いているのだ。そういう習性らしいのだが、それでもちょっと病的である。
さらに飼育小屋の中に戻りたいのか、特に小屋の扉の前を何度も行きつ戻りつ往復する。
うろうろうろうろ(戻して、小屋に戻して……)
なんだかいたたまれない。
ヤブイヌは全然群れて歩いてなどおらず、ただ一匹、おびえているかのように、飼育場の塀の中をひたすらに変な小走りでぐるぐると回り続けていた。
そしてそれを眺め続ける僕。
ヤブイヌ。
もしかしたら、もう人前になど出たくないのかもしれない。しかし営業時間だから彼だけが人前に出ることを与儀なくされているのかもしれない。疲れ果てたヤブイヌと、それを眺める疲れ果てた僕。
「営業時間だから」という言葉が心の中に巡る。
人が増えてきた。
ヤブイヌを前に、みんな思い思いの感想を述べていく。
「あれ、イヌ?タヌキ?」
「ずっと同じところ歩いてね?」
「クマにも似てない?」
「なんか畑の作物荒らしそうなイメージ」
みんな好き勝手なことを言っては去っていく。(最後のは言い得て妙だが)なんだか切ない。
ヤブイヌはいま、どんな気持ちなのかと思うと、何ともこらえきれない気持ちになる。もういいだろう。写真撮影もそこそこにして、僕は動物園を去ることにした。
ヤブイヌに気持ちを聞きたい
帰りにミュージアムショップで買ってきた
よこはま動物園のヤブイヌは、この2年で3匹が亡くなったのだという。動物園での生活は意外とストレス大きいのだろうか。1匹しかいなかったのは、やはり保護のためだったのかもしれない。
そこで今日はヤブイヌに対するこの気持ちを開放するために、買った3匹のぬいぐるみを野に放ちたいと思う。
ねえ、ヤブイヌ、
「原始的」って果たして悪いことだったのかな?
ヤブイヌたちは野に還った
ただ癒されたくて見に行ったヤブイヌなのに、今や、ヤブイヌと深く分かり合えた気さえする。あの一匹だった奴、今日は疲れていないだろうか。
ヤブイヌは飼育下でも繁殖できる動物らしいので、日本で生きていけないということはないらしい。これから先横浜でもどんどん繁殖し、いつか群れて歩く姿を僕に見せてほしいと思う。
よこはま動物園はいい動物園でした(バードショウ最高)