保護された石仏にはない魅力
ご存じの通り、石材に神仏を刻んだ石仏は、日本全土に広く分布している。
中には平安時代や鎌倉時代などといった古い時代のものもあり、特に学術的、美術的に価値の高いものは、重要文化財や国宝などとして保護されていたりもする。
そういった保護されている石仏は、偉い人が築いたものである事が多い。
大分県にある臼杵磨崖仏。平安時代から鎌倉時代のもので、国宝&特別史跡のダブル指定。覆屋も備わり、バッチリ保護
だがしかし、数ある石仏の大抵は、庶民が築いたささやかなものである事を忘れてはならない。文化財として保護される程に立派な石仏など、全体からすれば極々少数なのだ。
野ざらしで置かれた石仏は雨風によって徐々に形を失い行く。人々が想いを篭めて刻んだ石仏が時代と共に溶けて消える、その儚い輝きを括目せよ。
というワケで、近所のお寺に来たのだが……
門前に並ぶ六地蔵は新しいものばかりであった
お寺にあった石仏は、どれも新品のようにぴかぴか。風化とは無縁の状態である。
まぁ、それはそうか。お寺の管理のもと、大事にされている仏様なのだから。今後たとえ時間が経ったとしても、良好な状態で維持されていくに違いない。
それはそれで大変良い事ではあるが、今の私が求めているものとは違う。やはりもっとこう、辻角に立つような石仏でないとダメなのだ。
そんな時、ふと道路沿いの墓地に目をやったら……
うぉ、なんか古そうな石仏が並んでいるではないか!
柔らかい石材のようで、割れていたり、剥がれていたり
これは嘉永元年(1848年)の建立であった
石仏というか墓石だが、石造という点では変わりない。江戸時代のものという事で、かなりの風化っぷりである。
それにしても、江戸時代のものが残っているとは少し驚いた。この辺りは比較的新興な地域。古いものが残っているとしても、せいぜい明治以降だろうと踏んでいたのだが、全然そんなことはなかった。
自分が住んでいる場所にも、ちゃんと昔から住んでいた人々の歴史がある。そんな事を実感できて、ちょっと嬉しかった。
路肩にまとめられた、各種の石仏
現在、石仏はいくつか集められ、一ヶ所にまとめて置かれている事が多い。
かつてはあちらこちらに散在していたのだろうが、道路や宅地の整備で邪魔になるのか、そういう傾向にあるようだ。
なんの変哲もない道路の傍らに――
石仏が密集して鎮座する一角が
五輪塔が刻まれた石仏
なんと、宝暦9年(1759年)のものだ
こちらの庚申塔(こうしんとう)は文政2年(1819年)
まるで墓石のような見た目だが、そうではなく集落の守り神である。かつては村と村の境界にこういった庚申塔を祀り、集落に悪いものが入ってこないように願ったのだ。
江戸時代のものであるが、頑丈な石材なのか状態はいずれも良好。もう少し風化が進んだものはないだろうか。そう考えながら辺りを見回すと、何とも凄いものが目に留まった。
道路の反対側、電柱の根元にポツンと小さな石があった
よくよく見ると、石仏じゃないか!
かなり風化しており、なんとか顔を識別できるくらいである
胴体の部分には「祈」の文字が
ボコボコとした気泡の穴が特徴的なこの石は、栃木県で採れる大谷石であろう。
大谷石が知られるようになったのは明治時代。普及するようになったのは大正時代以降。故にそれほど古いものではないと思うが、柔らかい石という事もあってか、風化っぷりは群を抜いている。
造形から察するに、元々素朴な感じの地蔵だったのだろうが、風化によってますます朴訥な感じとなっている。ぶっちゃけ、ちょっと怖い。
ここでは双体道祖神(どうそじん)がまとめて祀られていた
顔は消え、服装で男女と分かるくらいだ
こちらはまだマシな状態である
痛々しいが、なんとか表情も見える……気がする
道祖神もまた村の境界に据える厄除けの神。文字で刻まれる事もあれば、このように男女のペアの像として祀られる事も多い。
背後に刻まれた文字は風化で読めず、いつに作られたものかは分からないが、やはりその風化っぷりはなんともしみじみさせられる。
捜せばあるある、古い石仏
他にもないかと散策を続けていると、他にも何ヶ所かでまとめられた石仏を見る事ができた。
その状態は様々。状態の良いものは良く、悪いものはとことん悪い。かなり両極端な傾向が見られた。やはり風化の具合は、石材の性質が強く影響するらしい。
小さな社に置かれていた二つの石仏
一つは庚申塔の仏である青面金剛
寛政4年(1792年)のものだが状態は割と良い
一方、こちらの石仏は表面が剥がれ落ち、のっぺらぼうである
表面はすっかり剥げてしまっているものの、かろうじて「三丙辰」という文字は残っている。丙辰の年であり、なおかつ3年となると、安政3年(1856年)の作成という事になるのだろう。石仏の種類は庚申塔だと思う。
隣りに置かれた青面金剛はしっかり残っているのに、それより新しい庚申塔はボロボロ。こうも差がついてしまうとは、石材選びは重要だ。
何気ない住宅街の一角にも石仏ごろごろ
種類は道祖神、青面金剛、馬頭観音。いずれも集落や街道の厄除けだ
造形が複雑な双体道祖神は加工しやすい柔らかな石材が使われるようで、やはり風化が顕著
ハンコのようなフォントがカッコ良い、青面金剛
教育委員会の案内板付きで置かれている、文久3年(1863年)の賽の神(道祖神と同じく集落の厄除け)
文字のない裏側は、ゴツゴツと未加工な感じでカッコ良い
賽の神と一緒に置かれていた明治時代の記念碑。馬の線刻画がかわいい
他に石仏はないかと住宅街を徘徊していると、ふと思いがけないものを見つける事ができた。
何気ないごく普通の道路である
一見すると杭か何かと思いそうなこの石
なんと、道標であった
藪鼻という地名は江戸時代のものなので(現在の藤沢市長後の事だ)、この道標もまた江戸時代のものだろう。
道標があるという事は、この通りはかつての街道だったという事か。私はてっきり、この辺りは現代に入るまで未開の野山だったのだろうと思っていた。
本当に何の変哲もない道路なだけに、「え、この道って街道だったの?」と素直に驚きだ。この地に住んで約30年。思いがけぬ、新発見である。
石仏から知る、その土地の背景
「庚申塔」や「道祖神」が置かれているのは村の境界であるなど、祀られている石仏の種類によって、そこがかつてどんな土地だったか分かるのも面白い。
洗車場の側に祀られているのは……
「水神宮」の石碑と石殿だ
こういうのを見ると、中を覗いてみたい衝動に駆られる
水を扱う洗車場の側にあるから「水神宮」……ではなく、近くに川が流れているのだ。
現在のように護岸などされていなかった昔、この地の人々は川の氾濫を鎮める為、水に関わる神様を祀ったのだろう。
現在は遊水地の整備が進められている。もはや氾濫とは無縁の川だ
遊水地予定地の側に鎮座する「弘法大師遍照金剛」と刻まれた石碑
なぜかブロックを詰んで、その上に据えられていた
道路整備や圃場整備をするにしても、少し位置をずらせば良いと思うのだが、あえてブロックを積んでまで移動させなかったこの石仏。
動かしたら災いが起きるとか、そのような言い伝えでもあるのだろうか。
川沿いには桜が植えられている
春は近そうですな
想像以上に多い江戸時代の石仏
風化した石仏を求めて地元を一日散策してみた今回、想像以上に古いものが多くて驚いた。何の変哲もないベッドタウンであっても、意外と歴史はあるものなのだ。
その土地の人よって刻まれ、その土地で風化していく身近な石仏。ボロボロであっても、それはそれで愛着が湧くから面白いものです。
あまり水質が良くなさそうなこの川で、釣りをしている人がいて驚いた。鯉でも釣っているのだろうか