例の「ベタ踏み坂」
ちょっと前に「ベタ踏み坂」の別名で話題になった橋がある。島根県松江市の島とと鳥取県とを結ぶ江島大橋という橋である。
島根と鳥取を結ぶ江島大橋。この地図によれば海上部分は島根側と言うことになるので、本記事では島根名物としたい。
「上に避けてるのが島根」とは何のことかというと、この橋のことだ。島根と鳥取を間違えない、という話題にもかかわらずすでに県境ぎりぎりの物件を引き合いにだすこの分かりづらさ。
うすうす感ずいていらっしゃると思いますが、要するにぼくがかねてから気になっていたものを強引にまとめたものなので、そういうことが起こるのです。とにかくまあ聞いてください。
タクシーの運転手さんは「あー、以前はよく橋見に来る人いたけど、最近はあんまりだねえ」と言ってました。
さてこの島根名物江島大橋、なにが名物かというとすごく急坂なのだ。「江島大橋」で検索すると画像やレポートがたくさん出てくるので、詳細に興味ある方はそれらをじっくりご覧頂きたい。
冒頭の写真がその急坂っぷり。橋の西側、島根側の江島から見たところだ。
ぼくは米子空港に付くやいなやタクシーでまさにこの橋を渡って島に渡ったのだが、その車窓風景がすばらしかった。
鳥取側からのぼっていくと…(ムービーから切り出したので良い画像ではないですすみません)
頂上手前でカーブして先が見えなくなって…(ムービーはブレすぎてて使い物になりませんでした)
のぼり詰めた先に…
どーん!と視界が開ける。
崖のような下り坂の向こうに中海の風景が。さすがの急坂である。ちょうど夕暮れ時だったこともあり、すばらしい風景だった。画像が粗いのがくやまれる。
船を避けています
で、橋を降りて振り返るとこんななわけです。
「冬に凍結すると怖い」とタクシーの運転手さんがおっしゃるのも頷けるこの急坂っぷり。なぜこんなに急なのかというと、船を避けているからだ。
必死に船の邪魔にならないようがんばる姿は、東京湾の
ゲートブリッジを思い出します。
鳥取側とこの江島との間の距離はそう遠くない。なので急坂にならざるを得なかったというわけだ。道路作るのってたいへん。
「島根は上に避けてる」とはこういうことだ。じゃあ「鳥取は横に避けてる」とはなにか。
前から気になってたぐんにゃり
江島大橋のそば、米子空港の東に奇妙な線路と道路がある。
米子空港駅と大篠津町駅の間の線路と道路がぐんにゃり曲がっている。
上の地図をご覧いただくと分かるだろう。空港敷地に押されるようにして膨らんじゃってるのだ。おもしろい!おもしろいよね?おもしろいんです。
実はこれ最初からじゃなくて、滑走路を延長した結果なのだ。
1984年の航空写真を見ると、元の空港は短かった(国土地理院「
地図・空中写真閲覧サービス」より・CG841X/コース番号・C5/写真番号・14/撮影年月日・1984/05/10(昭59)に加筆)
まさに滑走路を延長している最中の写真があった!(国土地理院「
地図・空中写真閲覧サービス」より・CG20063X/コース番号・C3/写真番号・11/撮影年月日・2006/10/10(平18)に加筆)
つまり「滑走路伸ばすから迂回して」って鉄道と道路にお願いした結果なわけだ。こんなことあるんだ!すごい。
米子空港の歴史はけっこう古くて1943年に海軍の基地としてスタートしている。1984年のをよく見ると、当初は海側にも突き出ていなかった。
現在の姿になったのは2009年。
Wikipediaによれば鉄道は地下化する案もあったようで、かなりたいへんだったようだ。そりゃそうだ。
ともあれ、そのたいへん具合がこうやって形となって残っていると、ぼくなどはぐっとくるのだ。
で、さらにおもしろいのは、元のまっすぐな道が残っている点。
米子空港駅そばの陸橋から南を見たところ。駐車場として元の道路が残されている!
遠くに目をやると、反対側にも元道路が。滑走路によって分断されたさまがよく分かる。
線路もこのとおりぐんにゃりと。道路と違って「元線路」の痕跡は見つからなかった。
この迂回っぷりと、さきほどの江島大橋を合わせるとこの記事のタイトル「上に避けてるのが島根、横に避けてるのが鳥取」になるというわけだ。
こういうことです。
ぼく的にはもうこれで島根と鳥取を間違うことはない。
JR山陰線の謎のぐんにゃり
さて、横に避けた鳥取の空港だが、島根の空港も実はおもしろいのだ。
その島根の空港とは出雲空港。米子空港と同じように湖に出っ張っている。
米子空港とは左右逆に、東が宍道湖に出っ張ってます。
1967年の様子(国土地理院「
地図・空中写真閲覧サービス」より・MCG673X/コース番号・C6/写真番号・16/撮影年月日・1967/05 20(昭42))
1989年。これもちょうど延長工事の真っ最中(国土地理院「
地図・空中写真閲覧サービス」より・CG893X/コース番号・C11B/写真番号・4/撮影年月日・1989/05/27(平1))
それにしてもなんで人はおっさんになるとこうやって古地図だの地形図だのを持ち出すようになるんだろうか。いかんな。最近のぼくの記事には若々しさが足りないな。
で、この出雲空港の西側の一帯が、まるで空港の滑走路を延長していったかのように道路や田んぼが葉脈のように筋状になってるのが気になるのがおっさんの嗜みだ。そしてさらにその先を見るとJRが変なことになっている。
宍道湖西側の一帯が葉脈状に。そしてJRが変に曲がっている。(オープンストリートマップをキャプチャ・加筆/©
OpenStreetMapへの協力者)
このJRのルート、さきほどの米子空港の道路と同じく、なにかを迂回しているのだろうか?と思ったら、ちょっと違っていた。なんと出雲空港は川を埋め立ててつくられており、JRはその川を渡るために曲がったのだ。
1947年の航空写真。すごい!川を埋め立ててる最中!(国土地理院「
地図・空中写真閲覧サービス」より・コース番号・M497/写真番号・51/撮影年月日・1947/09 23(昭22)に加筆)
上の写真を見ると分かるが、出雲空港はかつての河口だ。川の流れのままに滑走路が作られている(ちなみに、すこし西には海軍大社航空基地という
別の滑走路があったそうだ)
そして問題のJR。鉄道が敷かれた時にはまだ川があったので、それを渡るためにこのようにぐんにゃりと曲がったのだ。
こういうことです。
なるべく最短距離で川を渡るには流れに対して直角に橋を架けることになる。ここまで川とほぼ並行に走ってきたJRは、その直角を得るためにここでえいやっと曲がったのだ。
なのに、その川がなくなっちゃった。そしていまや謎のぐんにゃりだけが残った。
「アメ村三角公園」型
見渡す限りの田園風景で途方に暮れた
もちろんこの川の跡を見に、現地に行った。JR山陰線の荘原駅で下車し延々歩いたよ。
前出の写真たちを見れば分かるように、一面田んぼだ。いつもと勝手が違って最初は戸惑ったが、楽しかった。
ただしめざしたのは、問題のJRのぐんにゃり部分ではなく、もうすこし東のとある道の部分。なぜここかは、後述する。とにかくぼくは川の跡を見たかったのだ。
荘原駅。
味わい深い語順の標語が駅前で出迎えてくれた。
遠くに出雲空港が見える。
めざしたのはこの斜めの道。ちょうど滑走路の延長、つまり川の上だ。
なぜここかというと、この斜めの道が「アメ村三角公園」型だからだ。どういうことか。
1947年の埋め立てから間もない頃の様子(国土地理院「
地図・空中写真閲覧サービス」より・コース番号・R514-4/写真番号・43/撮影年月日・1947/10 03(昭22)に加筆)
上の写真で分かるとおもうが、もともと川があったからつながると思っていなかった道が、埋め立てによって接続することになり、互い違いを解消した結果斜めに。
この経緯は大阪アメリカ村のあの三角公園と同じなのだ。
アメリカ村周辺の1948年のようす。まだ堀がある(「堀江」という地名はダテじゃない)。(国土地理院「
地図・空中写真閲覧サービス」より・コース番号・M84-1/写真番号・95/撮影年月日・1948/08/31(昭23)に加筆)
こういうことです。
三角形って利用しづらいので、公園や中途半端な謎の空間になってよけい目を引く。それがいい。
こういうケース、日本中にちらほらあるが、いちばん有名で分かりやすいので「アメ村三角公園」型と名付けた次第。
(さっきのJRのぐにゃりもこの三角公園のメカニズムも、先日の
「名古屋根」の記事でご紹介した『
環境ノイズを読み、風景をつくる。』 で取り上げられてるので、他の事例にご興味ある方はぜひ)
これはいわば川が埋め立てられたならではの現象だ。だからここへ見に来たのだが、それ以外にもここには「ならでは」がある。島根のここならではの。
ヤマタノオロチがJRを曲げた
その「アメ村三角公園型」の元河川の斜め道路は、高くなっている。元川なのに!
斜めの道やJRのぐんにゃりや、出雲空港があるこの宍道湖西側一帯は、出雲平野と呼ばれる。ここは洪水にたいへん悩まされてきた土地なのだ。
上の地形図を見ると分かるように、JRのぐんにゃりの部分を代表に、なんと元河川のほうが高さが高いのだ(色が黒いほど低い)。だから上の写真のような、川跡に近づくほど上り坂、という風景になる。
見れば現在現役の川・斐伊川も周辺より高い。いわゆる「天井川」だ。
天井川とは、川が土砂を運んできてどんどん川底が高くなってたいへん、という先日
萩原さんが見に行っていたあれである。
なにがたいへんって、上の断面図見ればわかると思うが、堤防が決壊したら大惨事になるのだ。
しかも、ただでさえ上流の地質が川で運ばれやすい岩石でできているのに加え、昔は「鉄穴流し(かんなながし)」という、積極的に土砂を川に流して砂鉄を取り出す産業が盛んだったのでもう土砂溜まりまくり、川底上がりまくりなのだ。
なので、古くから出雲平野では、川床が高くなりだしたら、低い方に流れを変える「川違え」というのを行ってきた。
JRの向きを変えさせた今はなき川(上の図の6番「新川」)も、みれば洪水対策として19世紀に大規模に作られた人工の川だったことが分かる。なんでわざわざ作ったもの(そして鉄道の向きまで変えさせたもの)を埋めたのかというと、西に向けて放水路を作ってそっちに流したほうが効果的だ、ってことになったからだそうだ。
このたいへんさ、クラクラする。
ともあれ今は平野の北のほうをなだめすかされて流れる斐伊川は、かつてはこのようにその暴れ回り人間に害をなし、そのさまからかのヤマタノオロチのモデルになったといわれる。言われて見れば上の川の流路変更履歴図は8つの頭に見えてくる。
なんせもともと斐伊川は出雲市のある西の方に流れていたのが、17世紀の大洪水で流れを変えて現在のように東に進路を変えて宍道湖に流れ込むようになったという暴れん坊っぷりだ。そりゃ退治されるわ。
そもそも海だったところが、斐伊川が運んでくる大量の土砂で埋まって(あとは海面が下がって)現在の出雲平野ができたという(国土交通省河川局「
斐伊川水系の流域及び河川の概要(案)」より)
いたるところに戦いの碑が
さて、すっかりDPZらしからぬ、正真正銘おっさん趣味の記事になってしまったが、あとすこし。
実際ここらへんを歩くと、このヤマタノオロチとの戦いの記念碑がいたるところにある。
さきほどの「アメ村三角公園型」道路のそばにあった碑。
氾濫を防ぐために作られた新川、後に河口が空港になったいまはなき川の開拓を記念する碑。
さらに歩いて行くと唐突に鳥居が出現。遠くに杜がある。遠すぎないか。出るの早くないか鳥居。
その名も「沖洲天満宮」。沖に洲とはなんと水っぽい名前。
と思って由緒を標した碑を読んでみればしょっぱな「洪水」の文字。
やはりここは「沖ノ洲」という島だった場所だそうだ。土砂の流出と開拓によって現在のような平野になる前の奈良時代のことらしい。
その島に洪水で(!)流されてきた祠がたどり着いたのをきっかけにこの天満宮ができたらしい。
そしてその天満宮の傍らには堂々とした「土地改良事業完工記念碑」が。
洪水との戦いへのひとまず勝利宣言っぽい。すごく興味があるのだが、碑の素材選びに難があり、ぜんぜん読めない。
どうがんばっても読めない。拓を採るにもでかすぎる。
最後神社とか、ほんと若々しさの感じられない記事で申し訳ない。だれかここまで読んでくれている人いるんだろうか。
でもぼくがエキサイトしちゃっていろいろ調べて面白くなっちゃったものはしょうがない。どうか10人ぐらいはおもしろがってくれる人がいますように。
ともあれ、もうぼくは島根と鳥取を間違うことはない。洪水との戦いで川の流れを変えた、という点で言うなら島根は板橋というより江東区だ。
実は鳥取市街の川の付け替えについても調べちゃっていたりするのだけど、これ以上加齢臭を放つわけにはいかないので今回はこれでおしまい。
といいつつ、この取材に出発する前に「こういうおもしろいところがあるんですよ!出雲空港!」って西村さんに言ったら「ぼく、鳥取なんですけどね」と言われて「あ」ってなった。
【告知:イベント「マンションポエムから見る東京」】
おかげさまで大好評だった記事「
マンションポエム」シリーズ。なんとスルガ銀行さんが運営するイベントでこのマンションポエムについて話します。
2014年11月18日(火) 19:00~21:00・ミッドタウンにて。詳細・参加申し込みは
こちら
マンションポエムだけでなく「
どこまで東京?」と3.11の「
首都圏帰宅ログ」と合わせて、なんとなく東京論みたいな話になればいいな、と思っております。みなさん、ぜひ。
ちなみに上の画像のポエムはぼくが作りました。