個人博物館として続いてきた日本玩具博物館は現在、一般財団法人として運営していく道を模索しているところだという。貴重な収蔵品がこれからも守られていくことを願いたい。
帰りも駅まで送ってくださった井上さん、本当にありがとうございました!
冬に始まるという次の企画展、また見に行きます!
子どもの頃から色々なおもちゃで遊んできた。積み木とかカルタとか、レゴブロックとかプラモデルとかゲームウォッチとか。シンプルなものも複雑な仕組みのものも色々あり、それぞれの面白さがある。おもちゃとともに自分の幼少期はあった。そういう人は多いんじゃないだろうか。
そういったおもちゃ・玩具全般を世界中から約9万点も収集している博物館が兵庫県姫路市にあると知った。しかもその博物館はたった一人の人が個人の意志で始めた私設博物館だという。1974年に開館し、もうすぐ50周年を迎えるという「日本玩具博物館」というその施設をたずね、館長にたっぷりとお話を聞いてきた。
先日、私は「日本玩具博物館」に初めて行った。そこで開催されている特別展「中国民衆玩具の世界」を見に行くためだった。中国の古い郷土玩具が地域ごとに、約1,300点も並ぶ展覧会で、それらは日本の郷土玩具に似ているようにも思え、でもやっぱり違う形や色彩を持っていてどれも魅力的だった。
で、特別展も素晴らしかったのだが、常設展示の内容と、それらがぎっしり並ぶ博物館全体がとにかくすごかった。関西にこんな施設があったのか!と思った。大阪の「みんぱく」こと「国立民族学博物館」も大好きだけど、それのおもちゃ版というような趣もある。感動して、後日改めて取材を申し込んだ。それをお受けいただけることになって、再訪することになった模様をこれから書きます。
私が住む大阪方面から「日本玩具博物館」へ電車で行こうと思うと、まずJR姫路駅に向かって、そこから播但線というローカル線に乗り換えることになる。
姫路を離れると車窓の外には田園風景が広がりはじめ、のどかな雰囲気に。
姫路から15分ほど電車に乗った「香呂(こうろ)」駅が最寄りなのでそこで下車。今回、取材しに来た私を、日本玩具博物館の館長である井上重義さんが車で迎えに来てくださっていた。
香呂駅から日本玩具博物館までは徒歩で15分ほど。前回は古い民家や田んぼを眺めながら歩いたのだが、それもまたよかった。今回は香呂の町の変化について井上さんに聞きつつ助手席に座る私。
「この辺もね、商店街もあったし、市場もあったんですけど、無くなりましたねぇ。それほど遠くない場所に24時間営業の大きなショッピングセンターができましたからね。道路工事で道は広くなったんですけど、昔の方が賑わいはありましたね」と井上さんは言う。
なぜこの香呂の町に日本玩具博物館ができたのかと聞くと、この町に「香寺民俗資料館」という1971年に開館した民俗資料館があって、そこに井上さんが来館者として来たのがきっかけだったという。
当時、姫路市内にそういった主旨の資料館はなく、画期的だった。香呂は井上さんの妻の故郷でもあり、義父から土地を借りることができたため、そこに自宅を建てることにした。この自宅がその後、日本玩具博物館へと発展していくことになる。
聞けば井上さんはもともと山陽電鉄という鉄道会社に勤める会社員だったという。
入社した当初は駅員として働いていた井上さん。ある時、古書店で『日本の郷土玩具』という本を手に取った。斎藤良輔という玩具研究家の書いた本で、その本の中の、高度経済成長期に日本の郷土玩具が新しいおもちゃに取って代わられ消えていくことを嘆いた文章に心を打たれたという。井上さんは24歳だった。その本との出会いが大きかった。
『日本の郷土玩具』に強く影響された井上さんは、車掌になったタイミングで、自分でも本格的に郷土玩具収集を始めるようになった。
「当時の車掌の仕事というのは週に2日は非番日といって、朝から勤務して翌朝に仕事が終わったら丸一日休みだったんです。それが週に2日ありまして、それに休みの日を加えると、多い時で週に4日ほど休みがあったんです。その休みを利用して日本全国をまわっていました。だから年休は完全消化。不良社員ですねぇ(笑)」と、休みのほぼすべてを収集に費やした。東北や九州へも足を延ばした。
ある時、凧を収集しに大分県の豊後高田市に行ったところ、凧の作り手から、イギリスの大英博物館から収蔵品として注文があったという話を聞いた。海外から見て貴重なものなのに日本国内ではそれを収集、保存しようというような話はまったくない。
それを聞いて井上さんの収集熱はますます高まり、1974年には自宅の一部に「井上郷土玩具館」という展示スペースを設けた。土日だけ開館し、コレクションを無料で観覧できるようにした。当然、仕事をしながらのことである。なんという行動力。井上さんは当時35歳だった。
その後も井上さんは仕事をしながら収集も続け、1984年、45歳の時に「私なりの視点で、子どもや女性のもので忘れられ消えようとしている大切なものを精力的に収集して体系化して、消え行く文化遺産を後世に伝えたい」と会社をやめたという。それを機に「日本玩具博物館」と施設名を改めた。
そこから今年で38年目、井上郷土玩具館時代も含めるとすでに48年の歴史を持つ施設になっているわけである。井上郷土玩具館の開館当初、約5千点ほどだったコレクションは今や約9万点に。収集品が増加するたびに展示館を増やし、現在では敷地内に6号館まで建っている。
と、ここまでは日本玩具博物館ができたおおよその経緯で、いよいよ実際の展示内容の話である。井上さんに各コーナーの概要を教えてもらいつつ館内を歩く。
日本玩具博物館の展示内容は大きく分けて、日本の近代玩具、日本の郷土玩具、世界の民族玩具、日本の伝統人形、ちりめん細工の5つである(そこにその時々の企画展と特別展が加わる)。このうち、1号館から入館して最初に展開されるのは「日本の近代玩具」のコーナーである。
――もとは郷土玩具を集めていたとのことですが、ここにはもっと広くおもちゃ全般が展示されていますね。
「そうです。ここには明治時代のものから近年にいたるまでの近代玩具が展示されています。日本玩具博物館と名前を改めた翌年の1975年が国際児童年に当たっていたんです。それもあって、これからは日本の近代的なおもちゃや世界のおもちゃも集めていく必要があると、収集に力を入れ始めました」
――ブリキのおもちゃのような古いものから最近のものまですごい数がありますね。
「明治、大正、昭和期の貴重なおもちゃも多数あるんですが、この博物館が幸いだったのは、1999年からインターネットのオークションが始まったんです(日本版のYahoo!オークションがスタートしたのが1999年)。そのオークションを毎晩毎晩見ていました」
――ヤフオクの登場が大きかったんですか。
「当館が1998年にサントリーの地域文化賞をいただいたんですね。その副賞は賞金が200万円だったんです。その賞金で博物館のホームページを作って、それとともにパソコンを使うようになりまして、ちょうどそこにオークションが始まった。これは幸いでしたね」
――井上さんがパソコンの前に張り付いて入札したりしていたんですか?
「そうですそうです(笑)たとえばこの戦時下のおもちゃなんかもそうです。戦時中はアルミなど、金属製のおもちゃが供出という形で回収されたんですが、これなんかはどこかの蔵に眠っていて、供出をまぬがれたんとちがいますかね」
「それとね、こちらの『オキュパイドジャパン』と呼ばれるおもちゃがまさにそうです。占領下の日本で作られたおもちゃで、米兵さんたちがお土産に買ったり、向こうへ輸出するためのものなんです。日本製なんですが、パッケージは英語ですね」
「こういうものは当然、日本から外に出てしまっていますから、オークションがなければなかなか手に入れることができなかったです。オークションが始まった途端、こういうものがたくさん出てきたんです。今では値がつくものばかりですが、私どもは時期に恵まれて、貴重なものをたくさん手にすることができたんです。非常に品質のいいものが多いです。今も動きますよ」
「こっちはメガネを拭きますよ」
「こっちの熊は本のページをめくります」
――すごい精巧な動きをするんですね。可愛いな。
「おもちゃを収集するのに、最初は骨董市なんかにも行っていたんですけど、これからはインターネットオークションだと、もう一日中座っているようになって(笑)」
――こういうものはどうやって検索してチェックしていたんでしょうか
「『おもちゃ』という項目で全部見ていきましたね。」
――カテゴリ別に全部チェックしていく感じですね。
「今は見ていないですけどね。あと、当館の収蔵品は寄贈によるものも多いんです。有名なおもちゃコレクターの方が亡くなって、ご遺族から寄贈されたものが非常に多くあります。この博物館だったら大事にしてくれるだろうと」
――ちなみに井上さんがお子さんの頃に遊んでいたおもちゃはどんなものでしたか?
「私らが子どもの頃は鉄砲ですね。針金鉄砲とか、竹でできた弾が飛ぶものとかね。あとは『きびがら』という 、キビの茎を切って色々なものを組み立てるようなおもちゃとか」
「おもちゃを見ていると時代の変化がわかるんですね。これは笠木シヅ子の指人形です」
――笠木シヅ子の指人形で遊んでいた子どもたちがいたと思うと不思議です。
「それからこちらは、身近な素材を使って作ったおもちゃを展示しています」
「あの、麦で作ったカゴのようなものがあるでしょう」
「これは『蛍かご』といって、麦ワラで編んだものです。ここに「蛍草」という、蛍が好きな草を詰めてぶら下げると蛍が寄り集まってピカピカ光る。蛍は下から勝手に逃げて行くという、優雅なおもちゃですね(笑)」
――素敵!かごの隙間から光が見えるわけですね。
「それから貝殻で作った下駄ですとか、葉っぱで作ったお面」
「どんぐりなんかも世界中でコマにして遊ばれています。一番驚いたのは、あそこに竹に糸が2本通してあるのがありますね」
「引っ張ってぶんぶんとまわすコマなんですが、あれと同じ仕組みのものが世界中にあるんです。使う素材はその地域によって色々あるんですが、仕掛けは同じ。世界中のおもちゃを収集して一番思うのは、共通している部分がたくさんあるということなんです」
――なるほど。たしかに日本の近代玩具を見ていても、素材や色合いは違うけど自分の頃と似ているものがたくさんあります。
――ここら辺、徐々に私の時代に近づいてきた感じがします。キン消し、アラレちゃんとか。
――ビックリマンとかファミコンはもう完全に私の幼少期です!
「こういうものも文化財として保存していく必要があるわけです。もちろん平成のものも、今のものもそうですね」
――これからもずっと収集していく必要があるということですよね。終わりがないわけですね。
「おもちゃは弱者の文化財というか、誰かが守らないと、文化財として認知されていませんから。消える一方ですからね」
「こちらはちりめん細工のコレクションです。私が会社員時代に、古書市で『裁縫おさいくもの』という明治時代に発行された本を見つけたんです。着物の材料の縮緬の切れ端で作った色々なものを紹介している本です」
「ある時、博物館を立ち上げてから、来館者が『この本を探していた』と言われ、コピーをお送りしたんです。そしたらその方が、本に載っている作品を30点ぐらい自分で作って寄贈してくださったんです。その作品を本と一緒に展示したところ、それが新聞に大きく紹介された。そしたら今度はそれを見た方がこの細工を勉強したいと集まって、勉強会が始まった。次にはそれが全国的な手芸の雑誌に紹介されたんです」
――すごい!どんどん広がっていきますね。
「それで、ちりめん細工(『ちりめん細工』という言葉自体も井上さんが考案したものだそう)を勉強したい方が全国から集まるようになりまして、今度はそういう方を中心にちりめん細工の講座が全国に開かれるようになった。手軽にできる趣味として非常に広まっていったんです。ここにはそういう全国の方が作って寄贈してくださったものを展示しています。ちりめん細工は多くの方に受け入れられて、これまでにたくさん書籍も出させてもらいました」
「こちらは瓶細工です。これだけ並んでいるところはなかなかないと思います」
――これ、どうやって中に入れるんですか?
「ね。どうやって中に入れたのか、わからないんですわ(笑)こっちの『糸毬』の方については今から50年近く前に、これを作れる方に出会って教わったんですけど」
本当はちりめん細工とその関連コーナーだけでさらにかなりの情報量があったのだが、日本玩具博物館のコレクションはまだまだある。記事内ではショートカットさせていただくことにして、もう一つの展示館である4号館へ進みたい。
「この4号館ができたのが1979年なんです。一階に日本の郷土玩具、二階に世界の玩具が展示されています」
「去年まではここに『こけし』を並べていたんですが、今は『神戸人形』が注目されていますので内容を変えたんです。当館は『神戸人形』が作り始められた明治の中頃のものから現在のものまで約450点ぐらいを収集しているんです」
「で、ここが日本の、北海道から沖縄までの郷土玩具ですね。昭和の初めから郷土玩具の収集ブームが起こるんですが、戦争の被害で失われたものも多かったと思います。それを逃れて残ったものも、収集家の方が歳をとって亡くなられている場合が多いです。ここにあるのは遺族の方から寄贈されたものと、私が昭和40年代に収集したものが中心になっています」
「これは山梨のだるまですね」
「白いだるまが作られているのは全国で山梨しかないんですね。なぜ山梨でそれが作られたかというと、蚕ですね。蚕の繭が白くできあがるようにということだそうです」
――なるほど……。ここにある郷土玩具の一つ一つにそういう意味合いがあると思うとクラクラしますね。
「ここが大阪のものですね。猿が重なっている人形は住吉大社の『喜々猿』というものですね。喜びが重なるという意味合いがあるそうです。住吉大社には『裸雛』という、裸のおひなさんもありますね」
――こうやって展示されているものもあくまで一部なんですよね?
「そうです。この下にね、衣装缶があります。開けてみましょうか」
「こういうものが300箱、下にあるんです」
「本当はもっと整理して、きれいに見せたいんですけどね。今は、出し過ぎですわ(笑)」
――ははは。でも、迫力がありますよ。この圧倒される感じが好きです。
「この建物の展示品だけで4千から5千点はありますからね」
――ここをじっくり見ていくだけでどんどん時間が過ぎていきますよね。
――2階もまたすごいですよね。前回来た時、本当に圧倒されてしまって戦意を喪失しました。
「世界各国の民族玩具がこういう風に集まっているところは世界でもあまりないと思います。というのは、手に入らないんですね。1990年代の後半ぐらいを境にして、こういったものが姿を消してしまうんですね。理由の一つには中国製の製品が世界を席巻したということがあります」
「私どもはその寸前に間に合って、このように多くのものを収集することができました」
――それは井上さんが実際に海外に行って集めたんですか?
「それも多いです。ヨーロッパ、北欧なんかに行ったりしましたね。ただそれだけではなくて、当時は海外の雑貨を輸入する業者が東京にたくさんあったんです。そういうところがおもちゃも輸入していて、そこから買ったものも多いんです。今ではそういうものを販売する会社も少なくなってしまいました」
――1990年代の日本では海外の雑貨への関心が高まっていたんですかね。
「それはあります。1980年代、1990年代は、日本の人の海外に向けた関心も高まっていったんでしょうね。海外旅行にも行きやすくなりました」
――収集にはすごくいいタイミングだったわけですね。
「私どもは色々な時期に恵まれました。今では集めようのないものばかりですからね。今は日本の紙風船ですらも中国製のものがほとんどになっています。仕方のないことですが、時代の流れで消えてしまったものがたくさんあります」
「見てもらうとわかるように、コマやけん玉は世界中にあるんです」
――そうですね。形もあまり変わらない。
「国が違っても共通している部分がすごく多いんです」
4号館を出て特別展の会場である6号館へ。そこへと続く道の雰囲気がいい。木々に囲まれた小道。
「これね。ツバキの花園のような、全部ツバキなんですけど、整えるのに手が回らなくてね。ちゃんとしたいんですけどね」と井上さんが笑う。
取材時、6号館では私が前に見にきた「中国民衆玩具の世界」展が引き続き開催されていた。
ずっと館内を案内してくださっている井上さんもお疲れかと思い、休憩所で一休みすることに。
――改めて思いましたが、すごい情報量ですね。時間がいくらあっても足りないですね。
「来てくださった方はそうおっしゃいますね。思った以上によかったと」
――かなり時間に余裕を持ってくるべきですね。今さらですが、井上さんはこの規模の博物館を個人としてやられてるわけですよね。
「一応、そういうことですね。ずっとうちのスタッフとしてやってくれている尾崎織女学芸員の力も大きいですし、その他のスタッフや私の家族の協力もあってのことですけどね」
――井上さんに伺うのも変かもしれないですが、私設の博物館というのは全国にたくさんあるものなんでしょうか。
「もともと私設博物館の方が、公立博物館に先行してあったんです。公立博物館が続々とできるのは、昭和50年頃からですか、時の大平首相が『これからは文化の時代だ』と言って、自治体がこぞって作り始めたんです。それまでは私設のものの方が圧倒的に多かったんです。個人のみなさんが使命感をもってやられてたんですね」
――なるほど。
「私が博物館を始めた当時、姫路には博物館はなかったですし、兵庫県にも一館しかなかったです。それが今だと兵庫県内だけでも10館近くありますからね」
――井上さんも使命感や熱意を持って続けてこられたわけですね。
「子どもや女性にかかわるものが国から文化財と認知されずに姿を消していくのが悔しいという思いがあったものですからね」
――博物館を運営してこられて、大変な時期もありましたか?
「今が一番大変ですね。開館以来、多い時は一年に7万人も来館者があって、5万人、6万人という年も多かったんですけど、それが去年は8千人で終わってますからね。コロナのことで入館者が減ってしまって、それが大変ですね」
――ようやくコロナのことも落ち着いてた気がしますし、ここに来たらきっとみんな驚くと思います。
「みなさん、ノートに感想を書いてくださっていて、励まされます。遠くから来てくださる方も多いです」
――特別展の準備なんかも井上さんがされるんですか?
「私と尾崎学芸員でやるんです。ぎっしりつまった収蔵品をおろして、吟味してやっています。本当にね、こういうことをこんなに長いことやるなんて夢にも思わなかったですよ(笑)」
――それだけおもちゃの世界が奥深いということでしょうか。
「おもちゃというのは、人間の歴史とともに歩んできたものですね。そして、コマやけん玉を見ていてもそうですけど、おもちゃには時代や国を超えて共通する部分がたくさんあるということ。子どもが喜ぶものには世界中で共通する部分があると思いますね。それが残念ながら『たかが子どものおもちゃ』という思いからか、大事にされていない。そういうことに私どもは気が付いて、一生懸命集めてきたわけです。それがこうして形になっていったと思ってるんです」
と、一休みしながらお話を聞いた後も、井上さんは1号館に戻って、展示しきれずにしまってある品々について解説してくださった。
もちろん、展示されている部分だけを見ても情報量の多さにきっと圧倒され、楽しんでいただけると思うので、姫路(というか香呂駅)まで来てみて欲しい。どうしても「距離的に無理!でも気になる!」という人は、『日本と世界 おもしろ玩具図鑑(神戸新聞総合印刷)』か『世界の民芸玩具(大福書林)』という本に日本玩具博物館の収蔵品がたくさん紹介されているのでおすすめです!
個人博物館として続いてきた日本玩具博物館は現在、一般財団法人として運営していく道を模索しているところだという。貴重な収蔵品がこれからも守られていくことを願いたい。
帰りも駅まで送ってくださった井上さん、本当にありがとうございました!
冬に始まるという次の企画展、また見に行きます!
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