新品の軟式ボールは触り心地がよい
ある日、知人からこんなLINEが届いた。
彼もキャッチボール仲間の一人
「M球」とは全日本軟式野球連盟公認のボールのこと。12年ぶりに規格が改定された新球だ。それが近所のホームセンターに入荷したという。さっそく向かってみると…。
あった
即購入。新品の軟式ボールは縫い目も硬く尖っており、なんとも触り心地がよい。浮かれた勢いで行きつけの居酒屋に持参した。
ボールを握りながらホッピーを飲む
テレビではナイターを放送中
最高なのである。思わず隣にいた初対面の紳士にボールを手渡すと「あっ、これはいいですね」と感動していた。
巨人ファンでそろばん十段
こんな素敵なヨロコビを提供してくれたメーカーにお礼を言いたいほどだ。いや、言いに行こう。
新公認球の製造メーカー、ナガセケンコー
降り立ったのは東武線の鐘ヶ淵駅。
のどかな駅前
歩くこと数分で新公認球「ケンコーボールM号」の製造メーカー、ナガセケンコーに到着。
通されたのは「軟式野球資料室」
技術部の桜庭常昭さん(63歳)と総務部の宮本憲一さん(59歳)がにこやかに迎えてくれた。
右が桜庭さん、左が宮本さん
もともとはここに工場もあったが、40年ほど前に群馬と千葉に製造拠点を移したそうだ。
工場の建物だけは残っていた
さて、M号球の話だ。
「野球が好きで、M号球を握りながらお酒を飲むととても楽しいんです。今日はそのお礼を言おうと思って来ました」
そう伝えたところ、手を取り合って泣くというような劇的な展開はなかったが、おそらく喜んでもらえたと思う。
軟式ボールは小学校の先生たちが開発
そこへ、M号球が登場。Mには「メジャー級」という思いが込められている。
中央に光る「M」の文字
これが全日本軟式野球連盟の公認を受け、2018年から公式試合で使用されている軟式野球ボールだ。
宮本さんが言う。
「野球は大正時代にアメリカから伝わってきました。日本で最初に野球をやり始めたのは東京大学。でも、硬式ボールなので子供がプレイするには危ない。そこで、京都の小学校の先生たちを中心とするメンバーが軟式ボールを開発したんです」
開発メンバーの中に文房具屋さんがいて、彼から「自転車のペダルに貼ってある滑り止めのゴムシートを2つ合わせて球形にしてはどうか」というアイデアが出た。それを神戸のゴムメーカーに伝えて作られたのが下のボールだ。
日本初の軟式野球ボール
世の中に一個しか残っていない貴重なものだ。恐る恐る触らせてもらった。
おお、小さくて軽い
「当時は規格がなく、サイズや重さもバラバラでした。ボールの規格が統一されたのは昭和13年からです」
写真中央、その模様から「菊型ボール」と呼ばれた
宮本さんいわく、野球はGHQが戦後の日本を立ち直らせるために利用したという説もあるそうだ。
ひいきのチームは「強いて言えばジャイアンツ」
「それぐらい日本国民に愛されていたスポーツだったんでしょうね。皇室杯の大会を各地で開催して、宮様が始球式をお務めになったり。チームもどんどん増えていって、昭和40年代は24時間操業しないと生産が間に合わなかったそうです」
直径は2ミリずつ大きくなっていった
ここからは技術的な話。桜庭さんが軟式野球ボールの変遷を解説してくれた。
下段が左から初代(昭和13年~25年)、2代目(昭和25年?35年)、3代目(昭和35年~44年)、上段が左から4代目(昭和44年~60年)、5代目(昭和60年~平成17年)、6代目(平成17年~29年)となる。
「直径は68ミリ、70ミリ、72ミリと、2ミリずつ大きくなっています。72ミリというのは硬式球と同じサイズですね」
よく見るとデザインも少しずつ違う
握ると2ミリの差が想像以上に大きいことがわかる
古い製造道具も展示してあった。
「昔はカットしたシート、業界用語でヒョウタンというんですが、それを貼り合わせて球形にしていました。そこの工場でおばちゃん方が手作業で貼っていたんですよ」
縫い目やディンプルは鋳型で成形する
2枚のゴムを瓢箪型に切って貼り合わせる
貼る前はどら焼きのような形状
現在は押出し機でゴムを切断したのちに、中の黒いゴムと表面の白いゴムの間に空気がたまらないように真空状態で接着しているそうだ。
中心の3ミリ下をミートするイメージ
そして、“次世代ボール”のM号球が誕生した。話の内容はさらに専門的になる。
「いままでの軟式野球ボールは、バットで中心を捉えても当たった瞬間にべちゃっとへばりついていました。飛距離を伸ばすために、その変形量を半分ぐらいに減らしたんです」
従来のボールを打った瞬間の写真
M号の開発では、飛距離を伸ばしてバウンドを抑えることが命題とされていた。
「要するに硬式球に近づけたということ。内側はカーボンを練って入れた黒いゴムを使って強度を増す。外側はボールらしく見えるように白いゴムをかける。黒いゴムで飛距離を伸ばし、白いゴムでバウンドを抑える設計です」
約136グラムだった重量も、約145グラムの硬式球に近づけるべく、2グラム増やして138グラムにした。それよりも重くすると腕が疲れるため、ギリギリの攻防なのだ。
物理の授業を思い出す図解
バッティング時の変形量を半分ぐらいに減らす、つまり硬くすることでポップフライやバックネットフライが少なくなる、しかも、回転がかかりやすいので遠くに飛ぶ。
「皆さんに言いたいのは、M号は硬式球と同じように回転をかけた打ち方をするとよく飛びますよということ。中心の3ミリ下をミートするイメージです」
さらに、縫い目の数を88から92に、ボール表面のディンプルの占有面責を70.2%から80.1%に増やした。新たに縫い目に入れたスリットは、自動車のタイヤと同様、「ここまで減ったら買い換えましょうね」という目安になる。
すべて、科学的根拠に則った改変
桜庭さんによれば、開発に要した時間は約5年。数えきれないほどの実証実験を繰り返して、究極の“次世代ボール”の完成にこぎつけたそうだ。
「それ、うちのじゃないですね」
感心しつつ、持参したM号球をまじまじと見る。ここで事件が起きた。宮本さんが言う。
「それ、うちのじゃないですね」
えええーーー!
「明らかにデザインが違いますから。おそらく中国製のコピー商品でしょう。新規格に合っているかも怪しいかな」
左がマイボール、右が「ケンコーボールM号」
スリットがある
スリットがない
“本物”を買って帰りたいと言ったが、ここでは販売していないそうなので、錦糸町のスポーツ用品店を紹介してもらった。絶対、帰りに寄る。
ちなみに、野球のボールで中が空洞なのは軟式用のみ。硬式用ボールもソフトボールも中身が詰まっている。
同じボールでも断面図はかくも異なる
なお、ナガセケンコーではテニスボール、生涯スポーツ用ボール、スクール用品など、ボールを中心とした様々な商品を製造・販売している。
こちら、商品の一部です
取材後は青空の下でキャッチボール
さて、取材は終了。最後のお願いをするときが来た。
「キャッチボールに付き合ってもらえますか?」
お二人は快諾。「いやあ、何年ぶりだろう」と笑いながら外へ出る。昼ごろまで大雨だったが、いまは雲ひとつない青空。絶好のキャッチボール日和となった。
相手の“ハート”をめがけて優しく投げる
宮本さんは10年以上ぶりとのことだが、パシン、パシンと心地いい音が響くナイスキャッチング。
桜庭さんともお手合わせ
「自分が作ったボールだけど、俺は投げらんねえと思うな」とおっしゃっていたが、桜庭さんも見事なグラブさばきだ。
300円をケチるよりは“本物”を買った方がいい
大満足してナガセケンコーを後にする。向かったのは錦糸町。
あった、ヤナギスポーツ
お値段1個670円。オリンピックで買ったM号は376円だった。300円をケチるよりは“本物”を買った方がいいに決まっている。
なるほど…
店員さんに売れ行きを聞くと、「公認試合球ですからね。やはりコンスタントに出ますよ」とのこと。
王さんの野球教室でもナガセケンコーのボールを使用
1通のLINEがきっかけで知ることができた軟式野球ボールの歴史。そして、M号球の開発秘話。今後は、M号球を片手に飲むお酒もさらに美味しくなりそうだ。
宮本さんによれば、王さんは現役引退後、ボールを触ったこともない世界中の子どもたちに野球を広めるための団体を設立。世界少年野球大会という教室をポケットマネーで開催しているそうだ。そこでも、ナガセケンコーが開発した柔らかい安全球が使われている。
錦糸町で“本物”のM号球を購入後、すぐに愛でたくなった僕はカフェに入店。飽きることなく、延々と眺めていたのでした。