置き去られ、みんなのとこに戻るまでが旅
さあいよいよ帰る時間だ。ガラス戸を開けて靴屋を出ると、ひんやりとした空気が心地よい。
右手に便所サンダル、左手にちぢみほうれん草。
みんなに何から話そうか。おつかいに行って帰ってきた子どもってこんな気持ちなんだろうなと、ひとりにやにやしながら新幹線を待つ。
わたしを置き去りにした新幹線の鼻先が、小さく遠くに引っ張られていって小指の先ほどになり、とうとう見えなくなった。
振り返れば、ちらほらとあったはずの人影は消え、がらんどうのホームの向こう、憎らしいほどに空が青い。
※この記事は年末年始とくべつ企画「新幹線の駅にひとり置き去り」の中の一本です。
東京駅発、新潟行きの新幹線に乗りますと、発表されたのは前日の朝だった。
新潟は雪が降ったらしい。
あわてて予定よりも一つ大きなリュックを選び、長靴を奥底に忍ばせ、ダウンジャケットを新調した。
わたしが置き去りにされたのは熊谷市だった。
平らな土地、とにかく暑い夏。
東京駅からたった40分。つくばの我が家よりも近いぞ、埼玉県熊谷市。
ピカピカに磨かれた床は誰に踏まれることもなく、どこからかピーン、ポーン、と呼びかける音が、だだっ広いコンコースをさらに遠くに引き延ばす。
遠出に浮かれる蟹の群れを睨みつけていると、隅から小さく、話し声が聞こえることに気づいた。
つかの間の休憩時間だろうか。顔をしかめるほどたっぷりと日が射す窓と、無表情に回転運動を続けるエレベーターとのすき間に二人組が座っている。
ーすみません、少しお伺いしたいのですが。
恐る恐る声を掛けると、「どうぞどうぞ、なんでも聞いてください」と、朗らかな声。
事の経緯をお伝えすると、エッそりゃ大変と目をパチクリさせる。しかしすぐに「歴史系がいいですか、それとも自然がいいですか」と、おすすめの場所を教えてくれた。
・まず熊谷市といえば「妻沼聖天山」
熊谷駅からバスで北に向かって30分。小さい日光東照宮と言ったらいいかな、建築がすばらしいお寺ですよ。
・近くでお昼を食べるなら「寿司」
お寿司といっても、聖天山で有名なのはおいなりさん。400円そこらでボリュームがあっておいしいの。
・もうひとつ行くなら、「星渓園」
お茶屋さんが併設されている素敵な庭園。「八木橋百貨店」という古いデパートのバス停から歩いてすぐ。
「あ、バスに乗るときは特急じゃなくて、普通のでゆっくり、旧道を通って街を見たらいいよ。」
別れ際に付け加えられたささやかなアドバイスに、拗ねていた心がステップを踏む。
熊谷市、なんだかいいところそうじゃんか。
二人と別れ、次に向かったのは観光案内所だ。地図をもらうついでに、職員のお姉さんにおすすめの場所を聞く。
そんな職員さんは熊谷育ちということで、子ども時代によく遊んだ場所を聞いてみた。これが当たりで、昔は野猿みたいに遊びまわってたのよ、と盛り上がったのだ。
初めましての人の野猿だった頃の話、聞けるととても嬉しい。聖天山とは反対方向だから、戻ってきたら沼に行ってボートを漕ごうかな。
一人乗っては誰かが降り、時折乗り合わせたおばあちゃんたちが、小さく再会を喜んでは別れていくのを聞きながら、道を北上すること30分。
地元の方らしき酔っぱらいのおじいちゃんが、実盛公が如何に優れた人物だったのかを道ゆく人に熱弁している。
地元民に愛されるこの男こそが、聖天山を開いた人物だ。
平安時代末期、源氏方の武将としてこの地に着任した実盛公。源氏と平氏、またその勢力争いの中で仁義を尽くしたという話は平家物語にも章を成す。
1179年に建立した聖天山は1670年、大きな火事によってほとんどが燃えてしまった。今ある本殿は、享保の時代から50年近くもの長い時間をかけて再建されたものだそうだ。
享保といえば、徳川吉宗だ。前代綱吉が湯水のごとく金を使った後の財政を立て直すべく、財布の紐をぎっちり締めていた時代。
聖天山再建にも幕府はほとんどお金を出さず、クラウドファンディングで資金を集めるのに15年もかかったそうだ。
そこで立ち上がったのが日光東照宮建築に携わった職人の二世・三世たちである。
大工軍団、絵師、塗師、彫師、石師などなどあらゆる分野の末裔達が、先代から一〇〇年間磨き続けてきた技術を発揮するチャンスと集まったのだ。
聖天山再建は二世、三世によるプライドの戦いでもあったのだ。あるよな、親の仕事には負けたくねえって想いがよ。
おお…拝殿の裏、中殿ときて…あからさまに奥殿の方が豪華だな?
これは単にお金が足りなかったわけではない。奥に進める人ほど身分が高く、貴重な経験をしていると感じさせるための、限られた予算内で練り上げた演出なのだそうだ。
「ここには当時の人が思い描いた理想郷が詰め込まれているんですよ」と工藤さんは話す。
修復にあたっては熊谷市が誇る囲碁の名手の、伝説の一局を描いたという。こうやって歴史が入り混じっていくの、おもしろいな。
そんな具合でひとつひとつ眺めていたらあっという間にランチタイムを過ぎ、まずいぞ、いなり寿司を食べそこねた!
昼前から辺りをウロウロし、たっぷり時間を延長して見学から戻ってきた筆者を見て、「こいつさては昼飯食べてないな」と思ったらしい。おすすめの寿司屋さんに電話してあげると言うのだ!
「工藤さん、おすすめのおやつありますか?」「それなら『さわた』のちーず大福ですね」と迷わず即答だったので本当に好きなんだと思う。
半解凍で渡された大福の食べごろは約30分後。バスで駅に戻ってから食べようかと、歩いていたら、気になるものを見つけてしまった。
軒先に吊り下げられているのは金色のひょうたんだ。
人もまばらな静かな通りで、クリスマスか正月飾りか、とにかくこのひょうたんたちは名実ともに浮いている。
奥にはドアが半分開いていて、吸い寄せられるようにそっと覗いた。
「わっびっくりした!どうしたの?」
頭にタオルを巻き、ウインドブレーカーにハーフパンツの、スポーティーなお兄さんがちょうど出てくるところだった。
昔やっていた撮影の仕事でたまたまひょうたんランプシェードに出会い、面白いじゃんと思って自分でひょうたんを栽培、製作を始めたのだそうだ。
ーちなみに、その持っているほうれん草はなんですか?
これは出荷用。夏はナス、冬はほうれん草を作ってんの。暇してるんだったら、見に来る?
ーえっ、行きます!
こんなにたくさんのほうれん草をひとりで育てて、ひょうたんも作って一体何者なんだ。大変ではないですかと須田さんに聞いたら、「全部ひとりでやろうとするから大変なんだよ」と、ニヤリと笑っていた。
実は須田さんが農業を始めたのはここ数年のこと。農業はいいよ、地域みんなに仕事ができてお金が回るからと須田さんは話す。
出荷前の袋詰作業は地元の就労支援の作業所に委託。早朝の収穫作業だけのアルバイトさんがいたり、いろんな人のいろんな働き方を組み合わせることでちょうどよくまわっているのだそう。
先生「お姉さん、あんまり知らない人についてっちゃ危ないわよ!」…まったくもってごもっともである。でもさ、須田さんの引力には誰も敵わないと思うな。
時刻は午後四時、帰りの新幹線まであと二時間ほど。さてどうしようかと思い、ハッと思い出した。そうだ、まだお昼ごはんを食べていない!
なんだ、一日じゃ全然時間が足りないなと、まだ見ぬあちこちに思いを馳せつつ駅までの道を散策する。
ポツポツと明かりの灯る路地を歩き、再び大通りに出ると靴屋さんを見つけた。
ガラス戸越しに店内を覗くと、靴の向こうに人の姿が見える。ダウンベストを着込んだおじいちゃんと、エプロンをつけたおばあちゃん。灯油ストーブを挟んでおしゃべりしているふたりの表情はとても和やかだ。
赤茶色のつっかけを手にとって、ためし履きをしてもいいでしょうかと中に入る。
どうぞどうぞと迎えられ、つっかけを履いてみると、お、ぴったりだ。店主にお代を渡し、中を見渡すと鼻緒の山が目にとまった。
ー下駄を作られているんですか?
いやいやそんな、作るなんて大層なものではないですよ。
そう目を細めて笑う岡安さんは、靴屋岡安商店の三代目。先代、先々代から数えたら創業から100年ぐらい経つかなあ、とのこと。
ーエーッ、100年なんてすごいですね…
いやいや、熊谷市だったらそんな珍しいことではないんですよ。すだれを作るとか、銅板を手作業で叩き出して加工するだとか。そういう手仕事が熊谷にはいくつもありましたから。
熊谷は初めてですか?観光で?
ーはい、今日はふらっと、下調べなしに来ていて。このあたり、古いけれど凝っている、いい建物が残っているんですね。
ああ、大正の頃のね、瓦を隠すような。
ーそれですそれです、大正の建物なんですか。
うん、裏に蔵があってね、そういう建物があるのは、大体江戸末期ぐらいから創業されたところが多いんじゃないですか。
ー江戸時代!熊谷市は歴史のある町なんですね。
このあたりは中仙道といって、江戸から木曽路、熊谷を通って遠くは滋賀の方までを繋ぐ街道がありました。熊谷は道中の宿場町だったんですね。
北には利根川、南には荒川それぞれの渡船場が、また熊谷から秩父、さらに山梨とをつなぐ秩父街道と、江戸時代の頃から交通の要所として熊谷市は栄えてきたのだそうだ。
でも街道と言っても、うちがいるところは一本裏道なの。こちらが開けたのはねえ、駅ができてからですね。
ーここに駅ができたのはいつ頃なんですか。
駅ができたのはね、たしか…明治の最初の頃じゃなかったかな。
ーそれって日本でもすごく早くにできたんじゃないですか。
そう、あの群馬の富岡製糸場ご存知ですか、繭の。
上野と富岡製糸場を繋いでものを運ぶために、線路ができたんですね。関東では新橋・品川・横浜の次くらいにできたから、人もたくさん入ってきて。
それで昭和の最初の頃は工場、軍用の飛行機とか、そういうのを作る工場もたくさんあったんですよ。
ーははあ、なるほど、それで栄えていたんですね。
うん、でも空襲でほとんどが焼けちゃったね。わたしも1ヶ月くらい、隣の市の知り合いの家に身を寄せたんですよ。
ーああ、工場が多いから…
そう、うちはずっとここにあるんだけどね。
ー空襲の時に建て直したんですね。
はい。
ーこの道具はその頃からずっと使っているんですか。
そうね、今は色々電動の機械がありますけどね、やっぱり手で扱う道具が好きですね。
ところでね、わたしもアメーバブログってのををやってるんですよ。
ーえっ?
無線機器の製作が趣味なのだそうだ。お店には中学生のときに初めて作ったという発信機がこっそり飾られていて、それがすごくよかった。
さあいよいよ帰る時間だ。ガラス戸を開けて靴屋を出ると、ひんやりとした空気が心地よい。
右手に便所サンダル、左手にちぢみほうれん草。
みんなに何から話そうか。おつかいに行って帰ってきた子どもってこんな気持ちなんだろうなと、ひとりにやにやしながら新幹線を待つ。
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