すべて、かってな妄想です
実際に、こんなモノレールができていれば……という仮定の話の上に、さらに自分の妄想を積み増してしまった。
駅名を考えるのめちゃくちゃ楽しいな、ということがわかったのでよかった。
東京にあるモノレールといえば、上野公園の都営モノレール、羽田空港と浜松町を結ぶ東京モノレール、多摩都市モノレールなどがある。
そのほか、神奈川と千葉にも懸垂式のモノレールがそれぞれ存在しており、東京はモノレールに事欠かない。
そんなモノレールだが、今から40年以上前、環状八号線の上にモノレールを走らせ、東京を大きくぐるりと取り囲むようなモノレール路線を建設することが検討されたことがあった。
※記事内で引用した書籍で、出典の記載がないものはすべて東京都首都整備局「モノレール開発計画報告書」(1974年)からの引用です。
ネットでモノレールについて調べていると、かつて環八や環五の道路に沿うように、モノレールを建設することが検討されていたという情報が出てくる。
古くは「東京山手急行電鉄」(※1)だったり、メトロセブンやエイトライナー(※2)といった「東京の郊外をぐるりと結ぶ鉄道路線」の計画はよく聞くけれど、都内各地に環状のモノレールを走らせるという計画があったのは知らなかった。
※1 東京山手急行電鉄……1926年(大正15年)、に計画された半環状の鉄道路線。大井町から、三軒茶屋、中野、巣鴨、千住、向島を経て、洲崎(現在の東陽町付近)までを結ぶ予定だった鉄道計画。資金難で頓挫した。
※2 メトロセブンやエイトライナー……環七や環八の道路の下に地下鉄を建設する計画。
さっそく、国立国会図書館におもむき、東京都首都整備局の「モノレール開発計画報告書」をコピーしてきた。
まずは、報告書付属の計画図を見てほしい。
もう、みるだけで唸り声が出てくる図だ。鉄道の未成線(計画されながらも作られることが無かった鉄道路線)の話が大好物なので、この地図を眺めるだけでご飯何杯でもいける。
環八、環七、環六の環状線は、西側に路線が3つあるのは、本命である環八ルートの比較対象として環七、環六のルートを想定したもので、すべて作られるというわけではない。
そのほか、山手線をトレースするような形の環五モノレール線、環五モノレールの大部分を共用する環五北モノレール線、そして墨田区、江東区をぐるりとめぐる縦長の江東モノレール線が計画されており、ヤバい。うっかりすると失神しそうなぐらいワクワクしてしまう。
とりあえず、これらのモノレールがもしすべて完成していた場合のモノレール路線を図にしてみた。
モノレールが入れ子状態だ。全部いっぺんに作るつもりだったわけではなく、どれかひとつでも、うまいこと行って、モノレール線ができれば……という目論見のもと計画されたものだったようだ。残念ながら、どれも完成はしなかったわけだけど。
仮に本当にこれらのモノレール計画が実行され、全部建設されていたら、街の様子が今とはずいぶん違うものになっていたかもしれない。
これらのモノレール計画路線は、いずれも大阪万博で使用された跨座式モノレールと、ほぼ同じものを使用することを想定して計画している。
14〜約15メートルの車輌4料編成で、定員がおよそ95〜108人ということになっている。イメージとしては、床がフラットな大阪のモノレールに近い。
ちなみに、大阪万博で使用されたモノレールをデザインしたのは、榮久庵憲司である。キッコーマンの醤油瓶や、東京都のシンボルマーク、JRの電車の車輌などをてがけた人である。
報告書に掲載してあるモノレールの車輌は、大阪万博で使われたモノレールに、たしかに似ている。
さて、報告書の中で計画されている路線を見ていきたい。「環状モノレール」とされている路線がこちらだ。
大部分が環状5号線(明治通り)に沿って計画されているため、環五モノレールと呼称する。
計画によると、浜松町を起点に天現寺、渋谷、新宿、目白、池袋、王子、尾久、三ノ輪、浅草、両国、深川、勝どきから浜松町へ戻る、一周35.8キロメートルの環状線で、一日の旅客需要数は約42万人を想定している。
「旅客需要数」という数値がどんなものかよくわからないけれど、参考までに、山手線の一週間の延べ利用者数は2820万人(2016年)で、7で割ると約403万人である。
ルートをよく見てみると、厩橋あたりから、東京タワー前辺りまでが、大江戸線。渋谷から池袋までが副都心線、王子から三ノ輪までが都電荒川線と、それぞれほぼ重なる。
大江戸線は、正式に建設の免許がおりたのは昭和49年(1974年)で、この報告書が書かれた昭和43年(1968年)より後である。ということは、大江戸線はもともとモノレールで構想されていた? と、かってに色めき立ったのだが、よく調べてみると、大江戸線のルートを想定した鉄道計画自体は、昭和32年(1962年)ごろからあった(「都市交通審議会答申第6号」など)らしいので、別にこのモノレール計画が最初というわけではないようだ。
始発とされる浜松町駅の計画図が載っている。
現在の文化放送のビルと、国際貿易センタービルの間に駅が設置される予定だったようだ。
そして、隣駅の東京タワー前まではおそらく、増上寺の参道の上にモノレールを走らせるつもりらしい。
ということは、あの大門の上をモノレールが走ることになるわけだ。
日本橋の上の高速道路みたいに、もしかしたらここも景観論争がまきおこっていた可能性がある。
と、起こりもしていない揉め事を勝手に想像してしまう。それにしてもこの大門の上をモノレールが走る姿は見てみたかった。
東京タワー前駅を出たモノレールは、古川橋、天現寺、恵比寿駅前、並木橋を経由して渋谷に向かう。
このルートは、新橋から渋谷を結ぶ都営バス06系統とほぼ同じルートをたどる。
渋谷駅は、鳥瞰図が載っている。
右手にある丸い屋根のビルは、今は無き東急文化会館だ。新宿方面に代々木の体育館と高層ビルがふたつほどみえるのが時代を感じさせる。
ちなみに、今の様子はこうだ。
目線が低いのはどうしようもないとして、本当に同じ場所なのか信じられない。右の東急文化会館は渋谷ヒカリエに、バスターミナルだったところにはクソでかいビル(渋谷スクランブルスクエア)が建設されている。
もし仮に、モノレールが建設されていた場合は、こんなぐあいになっていたのではないか?
実はこういった合成写真は、当時からいくつか作られており、かつて墨田区にあった『墨田区民新聞』というローカル新聞に、環状モノレール線に関する記事が載ったさいにモノレールの「モンタージュ写真」も載っていた。
報告書の内容とは微妙な部分が違っており、なぜか緑一丁目が起点になっていたり、駅名が微妙に違っていたりする。
この環状モノレール計画を立案した、日本モノレール協会が、環状モノレールを実現させるため、墨田区議会の議員の協力を仰ごうと、説明会を行ったということらしい。
記事では、都電が次々に廃止され、南北を結ぶの交通手段がなくなってしまうことを懸念する墨田区の議員が、区を南北に貫くようルート変更してくれと、モノレール協会の事務局長に要望するものの「まずは、都民の世論を盛り上げるほうが先」と、いなされたりしている。
環五モノレール線は、想定される駅に駅名がついている。報告書にある駅名を参考に図にまとめてみた。
「千駄ヶ谷小谷」は、実際にそういった字があったのだろうか? 調べてみた限りではちょっと出てこなかったが、こういった小さい地名を拾っているあたり、グッときてしまう。
「新宿体育館」は、地図には載っていないが、本文には記載がある。現在の新宿コズミックセンターだろうか。池袋の次に「巣鴨学園」と、唐突に私立学校の駅名が登場するのもおもしろい。上池袋だと範囲がひろすぎたか
この環五モノレール線とほぼ同じルートを通る環五北モノレール線は、新宿を出発後、早稲田、目白あたりから、東池袋方面に行き、大塚、西巣鴨から滝野川を通り、王子にいき、そこからはまた浅草まで環五モノレール線と同じルートをたどり、寿町、田原町と銀座線をトレースするように上野に向かい、終着駅は上野公園となっている。
この路線は、そのほとんどが、都電荒川線をトレースするように計画されている。
報告書には荒川線が具体的にどうなるのかは書いてないものの、もし、モノレールが完成すれば、都電荒川線が廃止されていたかもしれない。
この報告書が作られたころは、高度経済成長で自動車の交通量が爆発的に増え、東京の路面電車は「交通の邪魔」とされ、無思慮にどんどん廃止されていた受難の時代でもあった。
さて、気になっている人も多いかもしれない、江東モノレール線についてみてみたい。
亀戸駅を起点として、全長17.9キロメートル。亀戸から大島、北砂、南砂町と南下していき、夢の島から辰巳、枝川、木場、菊川と北上していき、業平橋、押上と現在はスカイツリータウンとなっている場所をまわり、亀戸に戻る。昭和43年(1968年)の一日の旅客需要量予想は6.4万人。昭和60年(1985年)は11.7万人となっている。
江東区、墨田区をぐるぐる回るという、ディズニーランドみたいなモノレール、結局、実現していないので、必要なかったと判断されたということである。世間の人、実にまっとうな判断をしたとおもう。
しかしながら、個人的にはたいへん魅力的な路線に見えてしまう。
メリーゴーラウンドや、観覧車、ジェットコースターなど、遊園地の遊具の本質は「回転」である。つまり、江東区、墨田区の各地区を、モノレールでぐるぐる回るモノレールは、エンタメ性が非常に高いといえる。
報告書の計画概要に「江東地区に二つの大きな将来計画として江東地区再開発計画と、港湾埋立地利用計画があり、本モノレールの路線選定に当たっては、これらの計画に出来る限りマッチしたものである様配慮した」とある。
江東区は当時、北側の古くからの住宅密集地を防災のために再開発し、区画整理する計画をすすめていた。さらに南の海側は、ゴミの埋め立てとともに、埋立地がどんどん広がっており、14号地と呼ばれた夢の島には「都民の遊び場として広大な海上公園が計画され」ていた。これが後の「都立夢の島公園」である。
というわけで、エンタメ性というのも、あながち冗談でもないかもしれない。
環八モノレールは、昭和46年(1971年)に計画、検討された。最初にも書いた通り、環状の東半分は環七でこれは変わらず、西半分は環八、環七、環六をそれぞれ通るルートが検討されている。
一応、本命は環八ルートだったそうなので、便宜的に「環八モノレール線」と呼ぶことがあることはおことわりしておく。
環八モノレール線は、足立区の鹿浜橋を起点とし、亀有、新木場、蒲田、高井戸、練馬春日町、赤羽を経由して鹿浜に戻る環状線で、全長82キロメートル、昭和43年(1968年)の一日の想定旅客需要数は53万人、昭和60年(1985年)には75万人まで増えると予想されている。
この路線は、モノレールでの実現はボツになったものの、今でも「エイトライナー」「メトロセブン」といった、地下鉄の計画は検討されている。メトロセブンやエイトライナーに関して興味が有る方は、各自ググっていただきたい。
ところでこの報告書、想定駅が、「足1」とか、「世8―4」といった記号で表記されている。
駅名が無いので、大きなお世話かもしれないけれど、自分でピッタリの駅名をそれぞれ考えてみたい。異論は認めます。
まずは、本命の「環八モノレール線」の駅名こちら。
のりかえ駅は、昭和40年ごろから平成初期あたりまでにあった鉄道路線をかきこんだが、かなり適当なので、あまり詮索しないでほしい。
「桑川町」は、東京都と千葉県の県境にある妙見島の西側に1981年まであった町名だが、今は東葛西という、西だか東だがよくわからない、いささか味気ない地名になってしまっているので、復活させてみた。
「齋藤」は、そんな地名あったのかとびっくりした。しかも漢字が難しい方のサイトウ。明治時代の地図に一瞬だけ載っていた地名だ。地名じゃなく、人の名前かもしれないが、詳細はよくわからない。さすがに罪悪感があるので副駅名として田園調布を入れておいた。
続いて、環七ルートになった場合の駅名も考えてみた。
かつて存在した「碑文谷駅」だが、学芸大学と改名してからは碑文谷を冠した駅はなくなっていたので、碑文谷駅を復活させた。が、それよりも見てほしいのが「宿湿化味」のほう。読み方は「しゅくしっけみ」だ。
宿湿化味。おそらく、水はけがあまり良くない場所だったのかなーということを想像させてくれるシブすぎる地名だ。たしか、この近くに今でも「湿化味橋」という橋があったように記憶している。
こういう由来を妄想させてくれるようなシブい地名をどんどん駅名に採用してほしいのだ。JRとかには。
せっかくなので、環六モノレールの駅名も考えておこう。
これのポイントはなんといっても「十二社(じゅうにそう)」と「角筈(つのはず)本村」だろう。
「新宿」とつく駅名が多い(新宿、新宿西口、新宿三丁目、南新宿、東新宿、西新宿、西新宿五丁目、新宿御苑前、西武新宿)ので、できればもう新宿がつく駅名はつけたくない。
柏木(現在の北新宿)や淀橋(ヨドバシカメラの語源)も捨てがたいところだが、味わい深さを優先するとやはり十二社と角筈で決まりだろう。これに関しては、異論を認めたくない。
実際に、こんなモノレールができていれば……という仮定の話の上に、さらに自分の妄想を積み増してしまった。
駅名を考えるのめちゃくちゃ楽しいな、ということがわかったのでよかった。
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