気がつくと膝にのせて、掻いている
作業が停滞してくると、トドの富士は机から膝の上に下りてくる。私はそれを撫でてやる。手を動かしていると、ToDoリストはなにも消化されていないにも関わらず、なにかしている気分になれるのである。
撫でるだけでなく、爪を立てて掻く仕草を自分がしていることに最近気がついた。そして、さらに驚いたことに、どうやら自分はその「ぬいぐるみを掻く」という行為から、撫でるのとはまた違った快を得ているらしいのである。掻かれてるのは自分の体じゃないのに。なんでだろう?
意識して掻いてみる
家の中であれこれ考えていると煮詰まってくるので、外にやってきた。
そういえば、この「トドの富士」が完成したのは2024年の1月だった。つまりこの記事を書いている時点で満2歳になるわけだ。人間の子なら自我的なものが芽生え始めるころだろうか?よくわからないが。いうまでもなく、何年待とうがぬいぐるみに自我が芽生えることはない。
散歩が済んだところで、では掻いてみよう。
関係ないが、起毛の生地は掻いた跡が可視化されてよいなと思った。
はじめのうちは「掻かねば」という意識が前に出てしまってなかなか没入できなかったのだが、しつこく繰り返しているうちにやっぱりやってきた。この感覚はなんなのだろう?
自分が掻かれているわけではないから、自分の体の痒みが取り除かれたことによる快ではないことはもちろんだ。掻いてやることによってぬいぐるみから鳴き声その他の反応が返ってくることはないから、例えば動物を掻いてやったときに感じる「相手からうれしい反応が返ってきた」ことによる喜びでもない。
【掻いたもの】 トドの富士
【結果】 確かに気持ちいい!
ぬいぐるみ以外でもいいのではないか?
あれこれと考えて、ふと顔を上げると、目の前に木があった。樹皮がところどころめくれて苔も生えている。なんだか痒そうに見えた。
驚いたことに、実際にやってみるとこの「木を掻く」という行為からも明らかな快を受け取ることができた。ぬいぐるみに比べると弱いようには思うけれど。意味が分からないが、そう感じてしまうことは事実なんだから仕方がない。
木を掻くことで気がついたことがある。掻いているとき、そんなことはあり得ないということを頭では理解しつつ、私は「木が喜んでいる」と感じていた。掻くことでさっきまで背景の一部でしかなかった木が対象として現れてきて、親しみを感じ始めていたのだ。
【掻いたもの】 木
【結果】ぬいぐるみほどではないが快感が!とくに苔の生えたところ
何言ってるかわからなくなってきている気がするけれど、とりあえずこのまま続けてみることにする。
木を掻いている間、トドの富士を載せて置いたこの石でできたベンチ(通りがかりの人が「サルが座ってるのかと思った!」と言って、驚いて過ぎていった)。これはどうだろう?
ざらざらした表面の質感が程よい摩擦を生んで、掻いている感が強調される。強くやりすぎるとこちらの爪が剥がれたりぼろぼろになったりするので、慎重に。冬なので石が冷たい。
ベンチの下面に手を差し入れて掻いたとき、脳髄にズドン!と衝撃が走った。「これだ!」ベンチを支える2本の脚の間、いわば四足獣のお腹にあたる部分を掻いたとき、先ほどと同じ、あの気持ちよさが自分の中に芽生えてくることに気がついたのだ。
【掻いたもの】 石のベンチ
【結果】 下面の脚の間を掻くと快感

