馬に乗りにモンゴルに来た
常連読者のみなさんはご存知だろうが、モンゴル記事を頻繁に書いている「まこまこまこっちゃん」というライターがいる。彼は少し前までうちのすぐ近所に住んでいたので、たまに会って食事したり、記事の撮影を手伝ってもらったりしていた。そういう席で必ず話題に上がるのが、モンゴルのことである。私も海外の話が好きだから、「へえ!」とか「ほお!」とか言って感心しながら、行ったことのないモンゴルの光景を想像してワクワクしていた。
そんなことがしばらく続くうちに、私は自分でもモンゴルに行きたくなってきた。というより、ここまでいろいろと吹き込まれて、行かないなんてあり得ないだろうという気分になってきたのだ。
モンゴルでやりたいことはいろいろあったけれど、私はなにを差し置いても草原で馬に乗ってみたかった。どこまでも続く緑の大地を馬とともに移動するなんて、考えただけでも心が躍り出すではないか。
毎年夏になると、長年モンゴルに通っている伊藤洋志さんが企画と運営を手がける「モンゴル武者修行」というツアーが開催される。その中級編が往復4日をかけて馬で奥地の湖を目指すというものなのである。中級編という名の通り、基本的に乗馬の経験がある人向けなのだが、相談してみたところ「遊牧民のサポートもあるから、まあいいでしょう」ということで特別に参加させてもらえることになった。
自分から参加を希望しておきながら、あっさり「来ていいよ」と言われるとそれはそれで不安になってくる。俳優の松崎しげるがモンゴルで落馬して大怪我を負った話を知っていたからなおさらである。焼石に水程度の気持ちで出発まで筋トレをしたりして過ごしていたのだが、不安をよそにあれよあれよと時間はすぎていき、気がついたときにはモンゴルの草原に立っていたのだった。
じゃあ、うまいこと前の人についていって!
朝、ゲルから程近い出発地点には、大勢の馬たちが用意されていた。どの子が私の愛馬になってくれるのだろう?
日本人グループが馬を前にはしゃいでいる間にも、バラバラだった荷物がてきぱきとまとめられ、馬の背中に括りつけられていく。一見すると荒々しい積み方だけれど、ぱっと見の印象で判断するなかれ。これは目的地で荷解きしたときにわかったことだが、私が持ち込んだキャンプ用の食器は、変形してしまわないように緩衝材代わりの服でグルグルに巻いてから積んでくれていた。力強い積み方と細やかな気配りのギャップに胸を打たれてしまった。
余談だが韓国に出稼ぎするモンゴル人の就業先トップは引っ越し業界であるという。「身の回りのものをまとめて移動すること」にかけて遊牧民の右に出る人たちはいるまい。
引率してくれたのは、おもに遊牧民の家庭で生まれ育って、今は大学で勉強している若者たちだ。つまり専業の遊牧民ではないのだが、それでも馬を扱う手際は見事なものだ。
ドキドキしながら待つこと数分、一頭の濃い茶色の馬が遊牧民の若者に引かれてこちらにやってきた。
感動してじっと馬を見つめる私と対照的に、馬の方ではこちらに興味はないらしく、顔を上げることもなく足元の草を食べるのに夢中になっていた。見知らぬ他人を乗せることに慣れているのかもしれない。だとしたら少し安心である。
遊牧民が「乗んな」という感じで合図をしてくれたので、慎重に馬の左側から近づいて(モンゴルの馬たちは「人間は必ず左側から乗ってくるもの」と教育されている。馬にイレギュラーな刺激を与えないことが乗馬のセオリーだ)、鞍につけられた金具を握って馬の背中に体を引き上げた。
ついに馬に乗った!興奮して「うおー!」と叫びたいところだったが、すんでのところで思いとどまった。大きな声を出して馬を驚かすのも御法度だと事前に教えられていたのを思い出したからである。馬というのは、意外なことにとても繊細な生き物なのだ。まるで話に聞く高級イタリア車のようではないか。
私が一人静かに喜びを噛み締めている間も周囲では準備が着々と進み、ついに出発ということになった。未経験者なので、てっきり最初のうちは誰かが手綱を持って先導してくれるものと思っていたのだが、蓋を開けてみるとそういうチュートリアル的なものは一切なくて、先ほどの遊牧民も「じゃあ後はうまいことやって」という感じでどこかへ行ってしまった。
集団が動き始めると、それに合わせて私の馬も歩き始めた。おどおどしているところを馬に気取られてナメられてはいけないと思い、さも「あなたたちのことは良く知っていますよ」というような態度で馬上にふんぞり返るが、内心はやはり不安である。さいわい周りの馬に合わせて動いてくれているようで、その点は安心だ。
そんな調子で始まった馬旅だったが、慣れてくると周囲の景色を楽しむ余裕も出てくる。同じ草原の風と景色でも、馬の背に乗って感じるそれは一味も二味も違う。なにがこんなに爽快な気分にさせてくれるんだろう?しばらくしてからその正体に気がついた。目線の高さである。地面に立っている時と馬に乗っている時で+50センチくらいしか違わないと思うのだが、これが意外に高く感じる。この違いが世界の見え方を決定的に変えているのだ。気分は格別だが、下手な落ち方をすれば骨くらいはたやすく折れるだろう。
松崎しげるは無事に回復したみたいだが、願わくば怪我なしで帰ってこられますように。初の乗馬は、こうして興奮と昂揚と不安と恐怖が入り混じったカオスの中でスタートしたのだった。

