今持ってる地図の倍ぐらい地図をもらった
地図をどっさりくれたある方というのは、デイリーポータルZライターの加藤さんだ。その加藤さんから辞書と地図がどっさり届いた。
今持ってる地図の倍ぐらいの地図が届いた、しかもそのどれもが中途半端に古い
これらはすべて、亡くなった叔父さんが生前に買い集めていたものらしい。
加藤さんの叔父さんについては
こちらの記事を読んでいただきたいのだが、この叔父さんの買い集めているものが、いちいちぼくの琴線に触れるものばかりでみょうなシンパシーを感じてしまった。
ただ、そんな叔父さんを加藤さんが「本当に人生で花が咲かなかった男」と評しているところがすこし引っかかった。
とりあえず、きになる場所2ヶ所
さて、そのどっさりの地図なかに紛れ込んでいた名古屋の中途半端に古い地図がこちらだ。
名古屋市の西部を中心とした地図
こういった一枚ものの地図は、発行年がはっきり分るように書いてないものが多いのだが、国土地理院の承認番号が「昭和42年」となっているので、おそらくそれ以前のものだと思う。
ぼくは、名古屋に関しては不案内で、まったく詳しくないのだけど、ざっと見てとりあえず2ヶ所。気になる箇所があった。
名古屋城の外側をぐるっとまわる鉄道路線。今こんなのないよなぁ
名古屋城周辺の官庁街をぐるっと取り囲むように私鉄の鉄道線が走っている。大津町とか本町、堀川なんて駅、聞いたことない。今どうなってるのか確かめに行きたい。
そしてもう一か所はこちら。
引き込み線と貯木場。いまでもあるかしら?
この地図だけで現地を目指す。
今回は、あえて現代の地図を使わず、この古地図だけで現地を目指したいと思う。
銀行を手がかりに現在地をさがす
宿泊しているホテルを出て地図を広げる。
銀行多ぉ!
もちろん、現在地はわからないが、ホテルの住所は錦三丁目なので、その辺りでなにか現在もある目標物はないか探してみると、銀行が目につく。
このあたりは日本銀行の名古屋支店が近いからか、銀行が多い。しかし、古い方の地図には勧業、東海など、今はない銀行の名前がちらほらみえる。
ひとまず、東海銀行……おそらく今は三菱東京UFJ銀行のある交差点をめざす。
道路案内の看板で自分の向きがなんとかわかった
あー、あった。この交差点だ!
場所がわかればそこからは早い。特に名古屋市の中心部は道路が碁盤の目状になっているので、わかりやすいのだ。
大津町駅までまっすぐだ
先ほどの交差点からしばらく歩くと、豪奢な屋根の愛知県庁舎と名古屋市役所が見えてきた。このあたりが大津橋の交差点らしい。
市役所と県庁かっこいい
交差点のさきの、大津町駅はいったいどうなってるのか。
横断歩道のさきに「大津町駅」はある(あった)はず!
森になってた
森の谷だ!
大津橋の上から大津町駅があったと思しき場所を見てみると、しげみと森。ここだけラピュタの遺跡みたいになってる。
瀬戸線が走ってたのか!
傍らにあった看板を見てみると、ここは名古屋城の外堀で、このお堀の底をかつて名鉄瀬戸線の電車が走ったらしい。
もちろん駅舎のような痕跡はない。ただ、コンクリート製の階段が残るのみだ。おそらく、この階段は橋の下にあった大津町駅まで降りる為の階段だったに違いない。
立入禁止なので階段を降りることはできない
当時の写真をお持ちの方に大津町駅の写真をお借りしたので見比べてみる。
階段部分と手すりが同じである。まさにここに駅があったのだ。
外堀にそって堀川駅まで歩く
東京だと、外堀は埋め立てられて道路になったりしているが、名古屋ではお堀の底にそのまま電車を走らせていた。
地図をみてみると、この路線はさらに西側に伸び、本町駅を経て堀川駅へと至ることになっている。
橋の下をくぐっている
大津町駅から本町駅に向かう途中、お堀に沿った遊歩道に不自然なコンクリートの階段をみつけた。
草むした階段
トマソンのようにも見えるけれど、これはおそらく当時線路が敷かれていたお堀の底へ行くための階段だったのではないか? 勝手な推理だけど。
本町駅があったと思われる場所までやってきた。
この橋の下に「本町駅」があった(はず)
この橋の横に、お堀の底につながるスロープをみつけた。
お堀の底につながるスロープ
写真で見ると、スロープに見えにくいのだが、手前の木から奥に向かって緩やかな坂になっている。
このスロープ、果たして、駅舎の一部かどうかはわからないものの、ゴミの不法投棄を警告する看板に「名古屋鉄道」の文字があるところを見ると、この部分もやはり駅舎の一部だったのではないか。
名古屋鉄道の敷地ということかな
本町橋の下はよく見ると鉄道のトンネルっぽい
ちなみに、この本町橋の下のトンネルは幅が狭く、電車一両がやっと通れるほどしか無かったため「ガントレット」という特殊な軌道になっていた。
ガントレットとは、どうしても線路をふたつ並べて敷くだけの幅がない場所で、線路と線路を途中まで重ねるように敷設するもので、日本ではこの区間にしかなかった。
ちょっと分かりにくいかもしれないので、イラストで説明するとこんな感じになる。
分岐器と違って、いちいちポイントの切り替えをしなくてもよいのだが、この区間はもちろん車両1両づつしか走ることはできない。
そして堀川駅跡へ
ガントレットのあった本町橋からさらに堀川方面へ歩く。
鬱蒼とした森……
かつて電車が走っていたお堀は、鬱蒼とした森のようになっているけれど、傍らに目をやると、高速道路を車がひっきりなしに行き交う。ここはあくまで名古屋市の都心なのだ。
上の写真のすぐ近くの風景とは思えない
堀川駅のあった外堀の西端部分は、道路に向かって開けており更地になっていた。
ここに堀川駅があった(はず)
堀川駅は、もともと瀬戸の町から運ばれてきた陶磁器などを、堀川の水運輸送に積み替えるために作られた駅だ。
したがって、堀川駅から道路をはさんで向こう側には、伊勢湾まで通じる「堀川」が流れている。
水道管の圧倒的存在感
ただ、水運による貨物輸送は、第二次大戦後に廃れてしまい、その役割を失った。
旅客輸送に関しても、平行して走る市電があったことや自動車の普及により、客足は伸びず、繁華街の「栄駅」に瀬戸線が乗り入れることになったため、東大手から堀川までの「お堀電車」の区間は廃止されてしまった。
気絶しそうなぐらい地味な内容になってしまっているけれど、みなさんお気はたしかでしょうか?
続いて貯木場の方に行きます。もうすぐ終わります!
貯木場跡は国際会議場に
貯木場へは、地図で見ると「西日比野」という市電の停留所が近い。
熱田からだとちょっと遠いな
名港線に「日比野駅」という駅があるのでおそらくそこが最寄り駅になるのではないか?
というわけで、日比野駅にやってきた。
日比野駅の写真撮り忘れたので周辺の写真です
貨物の引き込み線跡は、よく道路になっていたりすることが多いのだが、ここはどうなっているのか?
斜めの道路、これは確実に貨物の引き込み線跡だ
やはり、道路になってた。
ここは現在の地図を見比べた方がよくわかるかもしれない。
名古屋国際会議場にむかって斜め差し込む斜めの道路。これが引き込み線の跡地だ。
今、さらっと名古屋国際会議場って言ってしまったのだが、貯木場は今はもちろんなく、跡地は国際会議場と公園になっている。
最近の建物はカクカクしててかっこいいなー
左手に国際会議場を眺めながら南へ向かう。
この名古屋国際会議場は、随分前に名古屋で行われた「デザイン博」の跡地にできた施設らしい。
太夫堀って? もしかして?
名古屋国際会議場の南側は、白鳥公園という大きな公園になっている。
もう貯木場の面影は皆無だ
もちろんこの白鳥公園も、かつて貯木場だったが、もう影も形もない。
と、思ったけれど、一か所だけちょっとあやしい池をみつけた。
太夫堀
「太夫堀」という池だ。もちろん、昔の地図と見比べると形は違うものの、当時の面影が少しはあるのではないか?
あれが太夫堀……
これが太夫堀
太夫堀と言われるこの浅い池には、鴨がのんびり泳いでいた。池の周辺はコンクリートで整備されており、ここが貯木場だったのかと思えばそういうふうにも見えなくもない。
しかし、気になるのは「太夫堀」という名前。なぜ太夫なのか。花魁でも飛び込んで死んだとかいう伝説があったりなかったりするのかしら?
太夫堀のすぐ近くに中部森林管理局の事務所があったので、事務所の人に話を聞いてみた。
中部森林管理局といえば、おそらく昔貯木場を管理していた所だろう。なにか知っている人がいるかもしれない。
事務所の中には資料室があった
突然の訪問にもかかわらず、事務所の人はわざわざ資料室に案内してくれて解説をしてくれた。
明治時代の貯木場の図面を見せていただいた
――公園の中に「太夫堀」ってあったんですが……これはなんで「太夫堀」って名前なんですか?
「あれは福島正則からきてるの。だから太夫堀って言ってたんだよな、たしか」
事務所の人によると、太夫堀の太夫とは、福島正則の官名「左衛門大夫」から来ている。
もともとこのあたりにあった貯木場を含め、伊勢湾から名古屋城まで通じる運河を、徳川家康の命により江戸時代に掘削したのが福島正則なのだという。
そしてその運河を「堀川」という。
堀川。どこかで聞いたような……あー、堀川ってあの!
なんと、偶然にも堀川というキーワードで二つの場所が繋がった。
たしかに、地図を見ると最初に行ったお堀電車の堀川駅の横にあった堀川と、貯木場の横にある堀川、繋がってる。
当時の貯木場のようす、堀川に木材がびっしり浮いている
堀川は、名古屋城築城のための資材を運ぶための運河として1610年、当時広島藩主だった福島正則が総奉行を仰せつかり、突貫工事で、わずか1年で開削したと言われる。
名古屋城築城後も名古屋の町の物資輸送を行う重要な運河として堀川は活用され、特に白鳥貯木場は、木曽地方から木曽川や飛騨川を下って運ばれてきた良質な木材の集散地として、戦後まで栄えた。
――やはり、戦後は木材があんまり売れなくなって廃止された……とかですか?
「もちろん、それもあるんだけど、廃止のきっかけのひとつに伊勢湾台風があるんですよ、高潮で貯木場の木材が流されちゃって、被害が大きくなった、だから移転させようってなったんですわ」
1959年の伊勢湾台風で、高潮に流された木材が市街地に流れ込んで被害を拡大させたため、これがひとつの契機となり、貯木場は名古屋港西部の貯木場に移転されることになった。その後、白鳥貯木場は1979年以降は順次埋め立てられていった。
ぼくの持っている地図は1967年のものなので、この白鳥貯木場の最後期の姿をとどめている地図のようだ。
テーマは「運河としての堀川」だった
狙ったわけではなく、気になる場所を訪れてみたところ、偶然どちらも「堀川」にゆかりの深い場所だったのは面白かった。
木材や瀬戸物など、このあたりの産業を下支えした産業の痕跡をたどる、なんとも地味でおっさんくさい散歩になった。
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