大阪府堺市のピラミッド
一つ目のピラミッドは、大阪府の堺市にある。
堺市といえば、大仙陵古墳などの超巨大前方後円墳が密集する、百舌鳥(もず)古墳群があまりに有名だが(→参考記事)、今回の目的地であるピラミッドはそれらより東、住宅街の中にポツンとたたずんでいるという。
深井駅の周辺は、特に取り上げるものも無い、至って普通の町だった。強いて言うなら、所々にちょっと大き目の農家が建ち、道の脇には石碑なんかもあったりと、昔から人が住んでいた場所なのだろうな、ということが実感できるくらい。
この石碑にある「大峯」とは、奈良県の吉野にある修験道の聖地、大峯山の事だ。何でこんなところに大峯山に関する碑があるのかと疑問に思って調べてみたら、かつては堺の商人が中心となって、「阪堺役講」という大峯山を管理する組合みたいなものが組織されていたらしい。
いやはや、このような些細な石碑でも、その由緒を調べてみると、結構発見があって面白いものですな。
さて、そうしているうちに、前方に奇妙な形の小山が見えてきた。あれが目指していた堺のピラミッドだろうか。
どうだろうか。ピラミッドというには若干稜線がなだらかすぎる気もするが、まぁ、和製金字塔とでも言い換えれば、それっぽく見えるような感じがする。
この巨大なピラミッド状の物体、一体何なのかと言うと、実は「土塔(どとう)」という奈良時代の仏塔遺跡だ。その名の通り、土を段状に盛って、瓦で葺いた塔。
日本で仏塔といえば、三重塔とか五重塔とか、木造のものが一般的だけれども、この塔は木ではなく土でできた塔。しかも、十三段に積まれた十三重塔だ。
奈良時代の遺跡、という割には随分瓦が真新しいが、それもそのはず、この土塔は長い間ずっとただの土の丘状態であった。それがちょうど一年前の2009年3月に、発掘調査に基いて、築造当時の姿に復元されたのだそうだ。
ただし、予算の都合か、はたまた遺構保護の都合か、瓦が葺かれたのは西面と東面のみ。裏側に回ると、そこは整備前のまま、かつての状態を晒している。
とまぁ、なかなか奇妙な遺跡であるこの土塔。木造の塔とは形こそ違うものの、その役目は全く同じ。仏舎利(釈迦の骨)を納め、寺のシンボルとして人々の信仰を集める為の建造物だ。
骨を納めるということは、墓のようなものであるとも言えるワケで、となると、おぉ、本質的はピラミッドと同じ、と言う事ができる……かもしれない。
ちなみに、この土塔が作られたのは727年。作ったのは行基という偉い僧侶だ。行基は堺で生まれ、その後日本各地で仏教を広めたり、橋を架けたり、田んぼを開いたりと土木事業でも活躍し、挙句奈良の大仏の建立にも携わった凄い人。
土塔の規模は、幅が53.1メートルで、高さは8.6メートル。周囲には案内板なども設けられ、史跡公園として整備されている。
復元も、ただ単に昔の姿に戻したというわけではなく、部分的に発掘当時の様子や遺構の断面図を展示したりと、学習色の強いものとなっている。
なお、右上の断面図が展示されている写真の左下には、黒い染みが広がっているのが見える。それは臭いから察するに、おそらく血中の不要物が腎臓で濾過されて生成された液体、なのだと思う。それに気づいた時、私は思わず飛び退いた。
それにしても、やはり不思議な遺跡である。そのピラミッドのような形や、仏塔という性質から、インドネシアのボロブドゥール遺跡(→参考)に類似性が見られる気もする。ボロブドゥールの建造は792年と、年代も割と近いし、そのルーツが同じであっても不思議ではない……かな。
さて、お次は奈良だ。そこには、この土塔とはまた一味違った、ピラミッド状の遺跡が残っているのである。