特集 2019年8月3日

思い出が記事になっていく

ライターや編集者といった仕事をしていると、記事が人生になる。

「記事執筆こそが我が人生」というような、マインドの話をしているのではない。

何か面白かったことや感動したことがあるたびに記事に書いているので、記事を読むと本当に人生がたどれるようになるのである。

インターネットユーザー。電子工作でオリジナルの処刑器具を作ったり、辺境の国の変わった音楽を集めたりしています。「技術力の低い人限定ロボコン(通称:ヘボコン)」主催者。1980年岐阜県生まれ。
『雑に作る ―電子工作で好きなものを作る近道集』(共著)がオライリーから出ました!

前の記事:8/3~4はMaker Faire Tokyo!ヘボコン、デカ顔、記事で作った工作展示など

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この記事は7月の月間総集編の一部だ。先月のこの記事が好評だったのだ。

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子供が道で拾ったダイヤを本物か鑑定してもらう 

ほんとはこの枠は記事の裏話とかアウトテイクみたいなのを載せるところなのだが、これはこれでできごととして完結していて、特に裏話もない。なのでここでは「記事が人生になってしまう」話について、少し書かせてほしい。

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思い出を記事にする

記事を書くうえで、思い出を記事にするパターンっていうのがけっこうある。あとで思い返すといい思い出になるかなと思った出来事を、記事にしておくのだ。

古いものでは、

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ランタンが夜空を舞い、星になる祭り~タイのロイカートンを見てきた 

2011年の記事。これなんかは初めて海外を一人旅した時の記事で、夜の祭りの記事なのに昼の行程のことまで全部書いてあったりして、記事としてはすっきりまとまっていない。でもにじみ出るワクワク感があって、書いた人は(自分だが)すげえ楽しかったんだろうなという感じがする。以下引用。

ここにこういうこと書いてもさ、「お前の日記かよ」っていう感じではあるんだけど、正直、もうただひたすら、本当に、本当に楽しかったのだ。

もともと、今回の旅はただの個人的な旅行だし、こうして記事にするつもりもなかったんだ。ただこれ見ちゃった以上、これだけは絶対に誰かに伝えねば!と思ってこの記事を書くことにした。

むき出しのエモ! こうして読み返していると少し気恥ずかしい気もする。でも同時に、これを書いた当時の自分の気持ちも思い出す。あの時の感動を真空パックに詰めて密封したようなもので、バカッと開けると当時の記憶がよみがえってくる。それが記事だ。

もうひとつ、思い出深いのはこんな記事だ。

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乙姫滝で音姫を作る 

いまも同僚として隣の席に座っている、藤原さんとの旅路の記録である。

これは楽しかったとか面白かったとか感動したとか、そういう記事ではない。ただ男二人が旅行をして、滝を見て帰ってくる。そこにはテレビの旅番組みたいな軽妙なやり取りもないし、それどころかやり取り自体があまりない。
じゃあなんなんだこれは、というと、2016年時点の僕と藤原さんの人間関係をバシュッと真空パックにしたのがこの記事である。

ただ、そうやってわざとらしく距離を詰めなくても、僕らは僕らでそこそこうまくやっているのではと思う。一日のあいだに、二人でゲラゲラ笑い転げたりとか、話がものすごく盛り上がったりとか、そういうのは一度もなかった。淡々と、行って、滝を録音して、帰ってきた。でも、二人で行く旅行はなんとなく楽しかったのだ。

こういうタイムカプセルのような文章って記事以外でもあって、個人のブログであってもそうだし、もちろん公開しないプライベートな日記もそうだ。何かしら書き残しておけば、読んだときにその時の記憶は甦るはずだ。
ただ、記事を書く仕事の不思議なところは、必ずしも能動的に「思い出を残すために書く」のではなく、「仕事をしていると勝手に思い出が残っていく」ケースも多いことだと思う。

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勝手に思い出が残っていく

一番それを感じるのが、僕が2014年から運営している、ヘボコン(技術力の低い人限定ロボコン)についてだ。

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「ヘボい」が海を越えた日~ヘボコン・ベイエリア レポート 

 

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ダメなロボットが飛行機でやってきた!!ヘボコン・ワールドチャンピオンシップ レポート 

 

イベントレポートは、会場に来られなかった人たちに、その内容を伝えるための記事だ。イベントの広報上大切なもので、自分の思い出のために書いているという意識もない。ただ、書き方としては思い出を書き残すときに近い。

なぜなぜ分析とかいって、問題が起きたときに「なぜ」を5回聞く、みたいな話があるけれども、イベントレポートを書くのも、それに近い気がする。「何が面白かったのか」「何に感動したのか」を自分に問いかけて、その核心のところを文章にまとめていく。たとえばこうだ。

このときようやく、僕はいま世界中で何が起こっているのか理解して、全身の毛が逆立つような思いがした。こういう人たちが世界におそらく何千人もいて、ヘボコンっていう一つのイベントを通して、同じ楽しみを味わったのだ。言葉が通じなくても、同じヘボいロボットを見て、笑ったのだ。

理屈では知ってたことだったから、新しく感想とかはない。ただ衝撃だけがあった。めちゃくちゃあった。それをしいて言葉で表すとすると、「やばい」だろうか。

世界、やばい。

どのロボットが勝ったとか負けたとか、賞を取ったとか、ただ起きたことをそのまま書いても、それ自体に面白みはないのだ。現場で生まれた自分の心の動きこそがコンテンツであって、イベントを通してどうしてその感動が生まれたのか、その核心を伝えることで初めて読者に伝わる記事となる。
この行為の目的は「読者に伝えること」なのだが、その過程はそのまま「自分の感動を真空パックすること」と同じなのだ。

それが、日々の仕事として綿々と続いていく。僕が生きた後には記事の道ができて、そして自動的に「自伝・俺」が完成するわけである。ほえー。

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次世代の誕生

そんな俺俺記事を書く毎日であったが、あるときそこに変化が訪れる。子供の誕生と成長だ。

子供が生まれた瞬間に人生の主役は自分ではなくなるというが、まあそれは言い過ぎである。自分の人生は自分の人生だ。主役の座は譲らん。

でも、実は記事の想定読者には、実はちょっと顔を出してくるのである。子供が。

で、話はこの記事に帰ってくる。

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子供が道で拾ったダイヤを本物か鑑定してもらう 

これはこれまでの記事と同じように自分が楽しかった体験の真空パックである。ただ、その感動を伝える対象として、漠然とした「読者」ではなくて、ちょっとだけ自分の子供を意識してしまった。

「してしまった」というのは、そうすることにちょっといやらしさを感じているからだ。自分が勝手に子供にしてやったことの記録を子供に読ませようなんて、どんなに押し付けがましいことか!

とはいえ、少しでも子供が将来この時のことを覚えていたら、この記事はいい記録だと感じてくれるのではないかな、と思っている。
自分のことは覚えていても、自分の親が自分をどう思って行動していたか、こんなに生々しく知る機会はあまりないものだ。
そういう記録があってもいい気がする。そういう真空パックもあってもいいように思うのだ。

こっちは「自伝・俺」ではなくて、「俺の育児記録」である。自伝だの育児記だの、インターネットの私物化甚だしいが。でもこの記事がこうやって好評であったということは、読者の皆さんもそれを楽しんでいただけている…ということだと思いたい。

 

というわけで、サイトの月間総集編のはずだったのだが、俺の人生総集編になってしまった。

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