教えていたのは、おもに中学の数学
上京したのは大学卒業後。当時は俳句で生計を立てる人、つまりは“俳人”になりたいと、なかば真剣に考えていた。
週休3日ぐらいで作句に専念しようという決意から、選んだ職業は塾講師。勤務先の塾から自転車圏内の武蔵境に住居を決めた。
新宿駅からJR中央線で20分ちょっと
自作の俳句を記した大学ノートは、最終的に10冊近くに達した。いまでも保存してあり、ごくたまに開いてみるが、恥ずかしすぎてすぐに閉じる。俳人にはなれず、やがて塾講師という仕事も面白くなり、結局4年間働いた。
教えていたのは、おもに中学の数学。テスト当日の早朝に勝手に教室を開けて直前対策などをしていたので、生徒や父兄からの信頼は厚かったと思う。
辞める際に生徒のお母さんと撮ったポラロイド
お母さんは、なぜこのメッセージを贈ってくれたのだろうか。夢と希望については、あまり考えないでここまで生きてきたような気がするが、まあそこそこ悪くない人生かもしれない。
北口を出ると「すきっぷ通り」
当時のアパートは、この通りを10分ほど歩いたところにあった。4畳半、風呂なし、家賃3万円。塾の給料はあまりよくなかったのだ。
東京に友達はいない。週末の夜はひとりで新宿のテクノのクラブに行き、誰とも喋らずに始発で帰るような生活だった。
見覚えがあるようなないような花
果たして、アパートはまだあった。あの頃で築20年ぐらいだったはずなので、いまでは相当古い物件だ。アパート名はもう思い出せない。
もう誰も住んでいないような雰囲気
僕の部屋は3階で、階下には一人暮らしのおばあちゃんが住んでいた。なぜか気に入られ、日曜になると「ご飯を食べにいらっしゃい」とお呼びがかかる。
若くして未亡人になった女性で、食卓の向かいの椅子にはいつもクマのぬいぐるみが座っていた。
さて、店を探そう。
「あ」
駅にほど近いバーの前に、クマのぬいぐるみがいた。ここにしよう。
マリブというリキュールのかき氷
中を覗いみて、不意に思い出した。当時、たまに通っていたレゲエバーがあった場所だ。そこは、「穴熊」という名前の店に変わっている。
ずいぶん賑わっていた
カウンターの中にマスターがいた。趣旨を説明すると、「ああ、どうぞどうぞ」とおっしゃる。
五郎丸ポーズで迎え入れてくれるマスター
おちゃめな彼は夏川雄哉さん(36歳)。この店は、もうすぐ12年目を迎えるとのことで、くだんのレゲエバーのことももちろん知っていた。
では、さっそくですがマスター、「武蔵境」ください。
「わかりました」と、かき氷を作り始める
これが「武蔵境」だ!
えっと、お酒ですか?
「マリブというリキュールにブルーハワイのシロップを入れたかき氷ですね。上にバニラアイスを乗っけました」
なかなかお酒までたどり着かない
あ、でもこれは普通においしい。アルコールをほとんど感じないが、マリブの度数は20%以上ある。
「5年前から『酒氷』というオリジナルメニューとして出していて、味やトッピングもいろいろ変えられるんですよ」
おお、なるほど
いただいたものは、いわゆる「全部のせ」で600円。焼酎や日本酒でも作ってくれるので、組み合わせは無限の可能性を秘めている。
170cmになりたいので、毎日牛乳を飲んでいる
「穴熊」という名前は、店を始める際に知人がクマの剥製をくれたから。
「最初は店頭に置いていたんですが、上の階の塾に通う子供たちにいじられすぎてボロボロになっちゃって。いまは店の奥に引っ込めて、代わりにぬいぐるみを出しています」
クマといい塾といい、武蔵境時代の思い出ときれいにリンクする。
初代のクマはお腹の部分が裂けて新聞紙がはみ出ていた
そうだ、常連さんにも武蔵境のイメージを聞いてみよう。
武蔵境生まれの女性客
「いいお店がいっぱいあって、ひとも優しいですね。昔は開かずの踏切があって北口と南口の交流があまりなかったんですが、いまは高架化されてだいぶ状況は違います」
この方は身長が169cm。どうしても170cmになりたいので、毎日大量に牛乳を飲んでいるそうだ。
そこへ、「うるめ」持参の新客がご来店
「ありがたいことに、常連さんから差し入れをいただくことが多いんですよ。お客さん同士も仲がよくて、いっしょにどこかへ出かけることもよくあります」と夏川さん。
しかし、さっきからTシャツが気になる。
“微妙におかしな日本語Tシャツ”だった
「面白Tシャツが好きで、100枚以上持っています。これはマニアパレルというブランドの商品ですね」
ちなみに、夏川さんはダム巡りも好きで、ライターの萩原さんとも交流があるそうだ。
サインがあった
「料理もすごくおいしいよ」と常連さん
ごちそうさま。武蔵境を堪能したら、次は鷹の台だ。時間差でマリブがじわじわと効いてきた。
50万円近い電子ピアノを2年ローンで購入
再び中央線に乗って国分寺駅へ。西武国分寺線に乗り換えて2駅目。約20分で鷹の台駅に着いた。
ここまで来ると埼玉にも近い
塾講師はまだ続けていたが、銭湯通いが億劫になり、風呂のあるマンションに引っ越したのだ。その翌年、情報誌の編集部に転職し、出版人生が始まる。
駅を出ると虫の声に包まれた
鷹の台には津田塾大学や武蔵野美術大学がある。とはいえ街の知名度は高くなく、年に何通かは住所を練馬の「高野台」と間違えている年賀状が届いた。
駅前のメイン商店街
夜は静かなのである。居酒屋やバーも点在するが、今のように飲み歩いている時代ではないので、限られた店にしか入ったことがない。
たまに行っていた居酒屋はまだあった
ここは「灼熱のネパールそば」という名物メニューがおいしいのだ。ゆでた日本そばをナンプラーや唐辛子とともに炒める料理である。
そして、住んでいたマンションは健在だった。
家賃5万2000円のワンルーム
1階にスナックが入っており、夜に窓を開けていると、カラオケの声が部屋に入ってきた。しかし、スナックは閉店したようだ。
突然思い立ってピアノ教室に通い始め、勢いで50万円近いグランドピアノ型の電子ピアノを2年ローンで購入したのも、この頃。部屋が狭いので、ピアノの下に半分体を差し込んで寝ていた。
懐かしきマンションのすぐ近くに、気になる店を見つけた。
入るしかない店構え
かなり昔からやっていそうな佇まいだが、住んでいた当時はなかった。比較的新しい店なのだろうか。
「これは所さんの番組の取材か?」
若干の緊張とともにガラス戸を開けると、スマイル全開のママがいた。靴を脱いで上がるスタイルで、さながら親戚の家のようだ。
「いらっしゃいませ~」
訪問の趣旨を説明するとOKが出た。ママの名前は江美さん。
やりとりを聞いていたカウンター奥の紳士から、「これは所さんの番組の取材か?」という質問を受ける。所さんの番組ではない旨をていねいに伝えた。
奥が常連の鈴木さん、手前がママのご主人
ママの生まれは高円寺。おお、僕がいま住んでいる街ですよ。
「あーら、そうなの! ダンナの沖縄の実家で暮らしていた時期があって、その時に沖縄料理を覚えたの。だから、この店の食事はそれもウリなのよ」
沖縄方言の「おばぁ」の店
ミニチュアダックスのモモちゃん
9歳のメスだそうだ。ママが「ちゃんと芸をするのよ。はい、モモちゃんゴローンして」と言うと、仰向けになって前脚をパタパタさせた。
オーディエンスが誰かわかっている目線
「ラッコみたいでかわいいでしょ?」
そんなこんなで、いよいよ本題だ。ママ、「鷹の台」ください。とはいえ、街のイメージに合っていれば焼酎でもウーロン杯でも大丈夫ですよ。
「カクテルでいいかしら?」
おっと、カクテルメニューがあったとは。しかも50種類。さらにオール400円。
武蔵美の学生さんに人気のアマレットミルク
どこで覚えたんですか?
「高円寺に『スイング』っていうバーがあって、そこのマスターに習ったの。ワニを飼ってる店でね。いまはもうないんだけど」
やおらシェーカーを振り出すママ
期待にうち震えながら待っていると、それは意外なものといっしょに運ばれてきた。
これが「鷹の台」だ!
「武蔵美の学生さんに人気のアマレットミルクね。女の子だけじゃなくて男の子もよく注文するの」
なるほど。で、ママ、このたくあんは?
「あ、サービスよ。うちはお通し代も取らないから」
「鷹の台」をひと口飲む
うん、おいしい。そして、たくあんをかじる。うん、合う。たぶん。
ママによれば、ここはオープンしてまだ2年半。焼き鳥屋やスナックなどの経営を経て、ちょうど出店先を探しているときに、偶然「テナント募集」の貼り紙を見たそうだ。
「長男には『靴を脱いで上がる店なんてダメだよ』って反対されたんだけど、私たちの時代はじゅうたんスナックとかあったから」
とはいえ、お金はかけたくないので内装は全部手作りだという。
カウンターと前仕切りは、よく見れば床材
客層は20台から80代と幅広く、武蔵美の授業が4限までしかない木曜日が一番混む。
金魚の水槽に「プレコ」というナマズがいた
ここで、鈴木さんから「この後で『バウ』に行ったら?」という提案をされた。
聞けば、鷹の台唯一のスナックで、昭和9年生まれのかわいいママがやっている店とのこと。一瞬心が動いたが、終電も近かったので残念ながら行けない旨をていねいに伝えた。
ツイッターもやっています
今月末はハロウィンだが、この店でも毎年大々的にパーティーをするという。
ママいわく、「武蔵美の子たちが腰からビクを提げて安来節のコスプレしたり、ウエスタンの衣装で揃えてきたり、賑やかなのよ」
この日は仮装をしていれば特別に1500円で飲み放題とのこと。
「武蔵境」と「鷹の台」にあらためて乾杯
他の多くの同業者と違い、僕は27歳で出版の世界に入った。おかげさまで、いまではウェブの仕事も含め、フリーライターとして生計を立てている。
今回訪れた2つの街で暮らした6年間は、ほぼ友達がおらず、携帯電話もなく、インターネットも知らなかった。文字通り“世間知らず”だったが、しかし、心中には張り詰めた何かが常にあったように思う。
つい忘れがちな、その頃の気持ちを少しだけ思い出させてくれた旅だった。すてきな2軒のすてきなマスター、ママ、ごちそうさまでした。