岩淵水門のある島に行く
東京都北区と、埼玉県川口市の境界になっている荒川付近にやってきました。
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ここにある岩淵水門が、荒川放水路と隅田川のスタート地点となっています。
岩淵水門には、現在水門としては使われていない旧岩淵水門(赤門)と、現在使われている岩淵水門(青門)があります。旧岩淵水門の方は昨年の8月に重要文化財に指定されました。
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荒川知水資料館という、入館無料の資料館があるので、中を覗いてみます。
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みんな大好きな「ボタンを押すとランプが光るジオラマ」があります。このジオラマはここよりも下流の江戸川区、江東区にある荒川ロックゲートのジオラマでした。
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今、荒川と呼ばれている川(岩淵水門のある辺りより下流の荒川)が実は明治から大正時代に開削して新しく作った川だと知ったときはずいぶん衝撃を受けたものですが、荒川知水資料館ではその荒川開削の歴史がざっとわかるようになっています。
荒川知水資料館を出て、旧岩淵水門を伝い、中之島と呼ばれる小島に行ってみます。
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Googleマップのクチコミを見るとやたら「心霊スポット」と書かれているのですが、一体どんないわれがあるのか書かれていないので、まったくピンときません。
どうやらその昔、荒川で入水自殺した人がよくこの水門あたりで発見されることが多かったために、そういった噂があるようです。
なお、この中之島は昔から島だったわけでなく、水門を作り変えるさいに地続きだった場所が途切れてできた人工の島……ということになります。
そんななか、ひとつの石碑が気になりました。
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「農民魂は先ず草刈りから」と書いてある「草刈りの碑」です。
草刈りって、そんな石碑まで建てられるものなのかという驚きがありますが、由来記を読んでみます。
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ざっと読んだところによると、1938(昭和13)年から1944(昭和19)年までの6年間、この地で「全日本草刈選手権大会」なる選手権大会が行われていたということが書いてあります。
「草刈」って、そんなスポーツみたいな話だったっけ? と混乱してしまいます。草刈? で? 選手権大会?
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「全日本草刈選手権大会」とは一体何なのか? 国会図書館のデジコレで関連資料を漁って見てみます。
全日本草刈選手権を開催した横尾惣三郎
「全日本草刈選手権大会」で検索してみると、横尾惣三郎という人物がこの大会を企画して実行したということがわかってきました。石碑の「由来記」の最後に書いてある「横尾堆肥居士」という人物がその人のようです。
横尾惣三郎(1887‐1961)は群馬県富岡市出身の農林官僚で、埼玉県にかつてあった農民講道館短期大学と農民講道館農業高等学校(現在、埼玉県立いずみ高等学校がある場所にあった)などの学校も運営していた人物です。
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1930年代の日本は世界恐慌の打撃をもろに受けて農作物の価格が暴落、1931年には東北地方の大凶作で日本各地の農村の貧困は大変な状況でした。歴史の授業で習ったやつですね。大根をかじる子供の写真のやつです。これは1936年に起きた二・二六事件の遠因とも言われています。
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横尾は『如何にして農村は更生するか』(1937)という著書において当時の農村の状況を憂い、農村更生のための様々な具体案を挙げていますが、かいつまんで言うと、有畜農業(畜産と農業を合わせて行う農業)を進めて草刈をすべしということを言っています。
作物を育てるための堆肥や牛の飼料として金肥、金飼(お金を出して買う肥料や飼料)を使うのではなく、草刈をしてその草を堆肥や飼料にして、お金を節約させるという考え方だったようです。