もみじ天ぷらは、ちゃんともみじの葉が入ったもみじ銘菓
もみじを使ったお菓子と言われて私が真っ先に思い浮かべるのは、もみじ饅頭ではなくてもみじの天ぷらだ。
私は以前、大阪府箕面市に住んでいたことがある。
この町の名所といえば、日本の滝百選にも選ばれている「箕面の滝」と、その周辺の紅葉だ。そして、その紅葉から考案されたのが、銘菓「もみじの天ぷら」である。
もみじ饅頭をどうやって作ろうか考えているうちにだんだんあの味が恋しくなってきたので、久しぶりに箕面まで足を伸ばしてみることにした。
紅葉の季節にはまだ早いが、もみじの天ぷらは一年中売られているのだ。
もみじの天ぷらは、滝道沿いに軒を連ねた土産物屋で買うことができる。
土産物屋の一つに立ち寄ると、「箕面物語」と書かれたシャツを着た老店主が一人で天ぷらを揚げていた。
店頭には、包装されたもみじ天ぷらがたくさん並んでいたが、すぐに食べますと伝えると、揚げたてのアツアツを新しく包んでくれた。60gにちょっとおまけを足して、300円。
天ぷらに使うもみじは、そこらに生えている物とは違うのだと店主は言う。
帰宅してから調べてみたら、一行寺楓という特別な品種の葉を塩漬けにしたものを使っているのだそうである(そのへんに自生しているもみじは、だいたいイロハモミジという種)。
もみじの天ぷらには、大葉の天ぷらのような噛めばシャクッと崩れる柔さはない。
小麦粉と砂糖とゴマを練り合わせた衣をべったりと厚くつけ、時間をかけて揚げるから、分厚くて固い衣に覆われている。
噛むとバリバリと音がする。どちらかというと、食感は天ぷらよりもせんべいやクッキーに近いかもしれない。
味は、ほとんどが衣の味なんだけれど、念入りに味わうと葉の香ばしい香りとほんのりとした塩味が見え隠れする。ずっしりとしていて食べ応えがある。何より、紅葉のハッと目の覚めるような色彩を体に取り込んでいるようで、気分がいい。
もみじの葉を取りに行こう
このまま箕面でもみじの葉をとって帰れればスマートなのだが、滝の周辺は国定公園になっているので、もみじの葉を木から毟って持ち帰ることはできない。
なので、もみじの葉を手に入れるために、日を改めて自宅近くの山にやってきた。
手の届く高さの枝から、できるだけ綺麗な葉を選んで摘んでいく。
摘まれる葉たちにしても、春夏の虫の攻勢をくぐり抜けて、これからいよいよ紅葉しようという時になって毟りとられるとは、よもや想像だにしなかっただろう。
生のもみじはかなり刺激的な味
めちゃくちゃ不味い。あまりに不味すぎて、Tシャツを前後逆に着ていることに気づかなかったくらいだ。
まず酸味とえぐ味がきつすぎる。頑張って飲み込もうと思っても、本能が「これは毒だ!吐き出せ!」と警告を発して、舌の根元で押しもどそうとしてくる。
それにゴワゴワとした固い食感もいただけない。コピー用紙を食べているようである。
とうとう吐き出してしまった。
正直に言うと、食用に品種改良されていない木の葉が美味いわけないことは検討がついていたのだが、この予想の斜め上の不味さには面食らった。こんなものを饅頭に入れてしまって大丈夫なのだろうか。
写真ではわからないが、出来上がった生地はまるでスライムのようにデロデロで、まとめあげるのに随分と苦労した。もみじの葉でかさ上げされた分、水分の量が多くなってしまったようだ。
打ち粉を湯水のように投入することで、手にまとわりついてくる生地をなんとか丸い形に仕上げた。
本家のもみじ饅頭のように、5本指に分かれた葉っぱの形を作れたらなあ、などという淡い期待はあっさりと打ち砕かれてしまった。でも、いいんだ。君たちの中には本物のもみじの葉が含まれているんだから、外見なんかどうだって。
蒸すためにせいろに並べたら、自重で平らに広がったので、余った葉を載せてみた。
これはこれで悪くない。というより、下手に手でもみじの葉の形を作るよりずっと「銘菓っぽい」上品な外見になった気がする。
なにがどう転ぶかわからないものである。
食べてみた
ふわっとした皮に、ねっとりとしたアンコが続く。
うん、始めて作った饅頭にしては悪くない。いや、悪くないどころか、非常に上出来だ!
あまりに美味しくて、目をつぶって食べたら、普通の白い饅頭と区別がつかないと思う。
そう、生で食べた時はあれだけ強烈な個性を発揮したもみじの味が、跡形もなく消えてしまったのだ。
蒸したことでもみじの味が抜けてしまった(サウナでデトックスされたみたい!)のも一因だが、捜査の結果、饅頭の核でありアイデンティティであるアンコに主犯の嫌疑がかかった。
アンコが甘すぎるせいで、もみじの微妙な味がわからなくなってしまっているのではないかというのが、私の推理だ。
試しに緑色の皮の部分だけをはがして食べてみたら、ほんのりとした苦味と植物由来の香りがするような、そんな気がしないでもない。
もみじ成分が薄いなら、別の「もみじ」を足してみよう
「本物のもみじを使って作ったもみじ饅頭は、とても繊細な味でした」
そう、オチをつけてもいいのだが、せっかくなのでもう一工夫入れてみよう。
出来上がった饅頭は、アンコの甘さに比べてもみじの味が薄かった。
ならば、アンコをもう少しもみじの持ち味を活かしてくれるような何かに置き換えてやればいいのだ。
いろいろ考えた結果、同じもみじつながりで、シカ肉に置き換えてみることにした。二重の意味で、もみじ肉まんである。
完全に名前のつながりだけで連れてきた食材なので、ほんとうに相性がいいのかは未知数である。
シカ肉をもみじと呼ぶ理由については、肉食を禁じられていた人たちが隠語としてそのように呼ぶようになったという説があるそうだが、詳しいことはわからない。
他に、イノシシをボタン、馬肉をサクラと呼んだりもする。
中身の味が薄くなった分、本当にうっすらとだが、もみじ(植物の方)の香りがする。それと言われなければ気づかないレベルだが。
自分が、特別な前提知識を持たない一消費者だと考えてみよう。中身のもみじ(肉の方)のインパクトが強いので、皮のもみじ(植物の方)の微細な香りにまで意識が回らないにちがいない。
ほんとうにもみじ(植物の方)の味に集中したいなら、中には何も入れないのが一番なのだが、そうするとおそらくあまり美味しいものにはならない。
「もみじを入れて良かった」と断言できるもみじ饅頭を作るには、かなり革新的な工夫が必要そうである。
もみじ饅頭も、もみじ肉まんも、味は良かった。
しかしどちらも「もみじが入っている」と言われなければ、ただ皮が緑色だという感想しかわかないような、微量な風味である。
そもそも、もみじの味を知らない人(=この世の大多数の人)はそのような風味があろうがなかろうが「まあ、こんなもんなのかな」と思うだけであろう。
思えば、広島のもみじ饅頭も箕面のもみじ天ぷらも、一目でもみじがモチーフだとわかる外見をしていた。味があやふやな分、不足する情報量を見た目で補っているのである。
その意味では、シカ肉(もみじ)とコラボさせたのはよかった。少し説明的すぎるような気はするけれど。
食べ物は、味を主幹とした総合表現なのだ。