やっと出発します!
みなさん「まだ出発しねーのかよ」とだいぶんイライラしているかもしれない。
ご安心ください、今、出ます。
草庵を引き払った芭蕉は、いったん杉風(さんぷう)の別墅(べっしょ・別宅のこと)に移る。
杉風とは芭蕉の門人で、名前を杉山杉風という。江戸生まれの商人で、幕府御用達の魚問屋を営み、たいへん裕福な人であった。
杉風は、生涯に渡って芭蕉を援助し、支えた。芭蕉の門人のうち、たいへん優秀な十人を「蕉門十哲」とよんだが、その一人である。
現在、杉風の別墅があった場所の近く(仙台堀川にかかる海辺橋南詰)には、芭蕉の銅像が設置されている。
芭蕉の銅像(江東区深川一丁目9・海辺橋南詰)
採荼庵(さいとあん)と呼ばれた杉風の別墅が再現されているわけだが、後ろ側をみると書割であることがわかる。
書割かーい!
師匠……裏側、書割でしたよ……
芭蕉は、このあたりから、弟子の曽良を伴い、見送りの杉風らと船に乗って千住に向かった。
そして到着したのが、現在の千住大橋のあるあたりだ。
千住大橋
千住大橋の南側、荒川区の素盞雄神社(すさのおじんじゃ)に行くと、芭蕉に関連する記念碑がいくつかある。
素盞雄神社
行春や鳥啼魚の目は泪の句碑、江戸時代末期(1820年)に建てられた
境内には『おくのほそ道』二つめ句の句碑もある。
はっきり言ってこの句は意味がわからない句だと思う。
春が終わってしまう。その行く春を惜しんで、鳥が鳴き、魚の目には涙がこぼれているようだ。という意味だけれど、まず、魚が涙を流すという描写がよくわからない。
この句に関しては、各解説書で、さまざまな考察がなされているので、読み方や解釈の仕方はいろいろだと思うが、魚というのは、魚問屋である杉風のことを暗喩しており、旅立ちの際の別れを詠んだのでは? という説もある。
そう思って読み直せば、なるほど、去りゆく季節を惜しむ気持ち、見送る人の切なさが入った良い句だなという気になってくる。
「魚が涙なんか流すわけねえだろ」という科学の理屈が、情緒を理解する心を曇らせてしまった。
芭蕉が義務教育の知識の土俵に乗ってこの句を書いてないことにもっと早く気づくべきであった。
いずれにせよ『おくのほそ道』のうち、現在の東京都で詠まれた句は、草の戸も住替る代ぞひなの家、と、行春や鳥啼魚の目は泪。のふたつである。
矢立の始めの地はどこか問題
素盞雄神社は『おくのほそ道』矢立初めの地(矢立=筆と墨壺の携帯文具セット、書き始める地の意味)としてのアッピールがすごい。
『奥の細道』「矢立初めの地」を大々的にアッピールする素盞雄神社の看板
境内には芭蕉のコスプレができる道中笠と杖が置いてある。
道中笠でコスプレできる
そして、この道中笠と杖の案内が書いてある看板を読んで、なんだかただならぬ雰囲気を感じてしまった。
ひと昔前のブログみたいな恥ずかしい書き出し
看板の内容を、抜粋して書き出してみる。
こんにちは 松尾芭蕉です。
深川を出て、いま千住に着きました。
いよいよ前途三千里(奥の細道)へ出発するのですが、
最初の一歩がなかなか出せない問題があります。
(千住大橋)南詰・北詰。どちらから出発したら良いものか?
些細なことのようですが、後世の両岸にとっては矢立初めの地と
して本家争い・論争の種にもなりかねない問題なのです。
おやおやおや。
思わずきな臭いかおりがただよってきた。
どうやら、深川から船に乗って千住までやってきた芭蕉が、千住大橋の北詰から出発したのか、それとも南詰から出発したのかで、論争があるらしい。
千住大橋周辺
千住大橋は、1594年には木製の橋が架けられたらしいので、芭蕉の時代にはもちろんすでに橋はあった。そして、当時の船着き場は橋の北詰、今の足立区側にあったとされている。
となると、北詰で下船し、橋を渡ることもなく、そのまま奥州街道を北に向かって歩いていった……と考えるのが自然な気もするが、ここで黙っていられないのが橋の南側にある荒川区だ。
荒川区の言い分によると、千住の船着き場は北詰でなく、南詰にあったこともあり、芭蕉が旅立った頃に北詰にあったという確証はない。
この主張はたしかにもっともで、江戸時代の浮世絵を見ると、千住大橋の北詰にも南詰にも船は停泊している。
歌川広重『名所江戸百景』より「千住の大はし」
ということであれば、南詰で降りて、素盞雄神社でお参りしてから橋を渡って出発したということも十分考えられる。
更に、芭蕉の『おくのほそ道』本文では、千住に到着したのが「弥生も末の七日」つまり旧暦3月27日となっている。
しかし、同行した曽良の『奥の細道随行日記』には「巳三月廿日(3月20日) 同出、深川出船。巳ノ下尅、千住ニ揚ル」と、3月20日に深川を出発して巳の刻(朝10時頃)に千住に到着したとしている。
この7日間のズレについては、曽良が「七」を書き漏らした。出発予定日が当初20日だったものがそのままになっている。曽良が先行して千住に7日間逗留していた……など、古来さまざまな憶測がされていた。
荒川区は、曽良の随行日記7日間のズレに注目し、芭蕉と曽良は20日に千住に到着し、7日間逗留した説をとり、その間に素盞雄神社にお参りなどしたはずだということを主張している。
ただし、芭蕉が3月23日に、深川の杉風の別墅から岐阜の門人にあてた手紙が、1987年に新発見された。その書簡に芭蕉は3月26日に出発するとはっきり書いていたため、少なくとも芭蕉が20日に千住に到着したという線は消えた。
そんなわけで、芭蕉は千住大橋の北詰から出発したのか、南詰から出発したのか問題は、はっきりいってわからない。としかいいようがない。
芭蕉は、千住大橋の北詰、または南詰で降りたかなんて書いてないし、同行した曽良や見送った人たちもその辺についてはなにも書き残していない。
千住大橋を超えて、北詰の足立区側に来ると、これまた立派な矢立初めの地の石碑が建っている。
足立区側の矢立初めの地
足立区、石碑を2種類も作っちゃうほどの力の入れよう
蕪村が描いた芭蕉と曽良のでけえ絵の前で記念写真
足立区は足立区で、矢立初めの地はこっち側であり、芭蕉が南詰で降りたなんて話や、そういった論争があるという素振りもみせてない。
かりに、新資料が発見され、素盞雄神社に芭蕉が参拝したといった事実がわかったとしても、千住から北側の足立区域を芭蕉が歩いたことは確実なので、余裕があるのだろう。
一方、荒川区側としては、芭蕉が橋の北詰から上陸してそのまま北上していたとすれば、芭蕉は荒川区に一歩も足を踏み入れていないということになり、『おくのほそ道』というコンテンツにいっちょかみすることができなくなるわけで、必死である。
矢立初めの地論争は、まあ、どっちでもいい
というわけで『おくのほそ道』のうち、東京都で詠まれた二句ゆかりの地である深川と千住をサクッと回ってみた。
実は、深川も千住も、上京当時にいちど巡ってはいるのだが、すでに20数年前のことになるうえに、素盞雄神社の句碑などはちゃんと確認はしていなかったところも多々あった。
そのため、ほぼ初めて巡るぐらいのおもしろさがあった。
また、当時はその良さがよく分からなかった句も、芭蕉がおくのほそ道に旅立った年齢とほぼ同じになった今、あらためて読むとまたその侘しさが身にしみてわかる。きがしないでもない。
いずれにせよ、草加以降、大垣までのルートは近々、何らかの方法でめぐり倒したいという目標が新たに出来た。老け込んでいる暇はないのである。
参考文献
『おくのほそ道(全)ビギナーズ・クラシックス日本の古典』角川書店
『おくのほそ道 付 曾良旅日記 奥細道菅菰抄』岩波書店
『新版 おくのほそ道 現代語訳/曾良随行日記付き』角川書店
小野圭一朗『句碑を訪ねて歩くおくのほそ道』朝日新聞社
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