なぜ用水路は渦巻き状なのか?
先ほど紹介したWebサイトを隅々まで読むと、この疑問の答えかもしれない記述があった。ブログ記事[8]のコメント欄にこう書かれていた。
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多摩川の氾濫の度に形が変わった用水路とある。用水路が渦巻き状なのは、多摩川の氾濫が関係しているのではないだろうか?
・多摩川の氾濫が関係している可能性がある
さらに検索ワードを変えながら調べていると、有力なWebサイト[10]にたどり着くことができた。
このブログでは基本的に、久保淳さんのXでのポストが埋め込まれている。探索すると、あるポスト[11]に超有力な情報があった。
やはり、用水路の前は多摩川が流れていたのではないか?「治水地形分類図」というキーワードを手に入れたので自分でも調べてみる。すると、国土地理院作成の図[12]が見つかった。
ビンゴ!これでかなり納得できるところまで来た。
確かに、治水技術が発達するまでは、多摩川は頻繁に氾濫し流路が変わっていた。川の両岸に同じ地名が残っているのも、その名残りといわれている。
しかし、まだ安心できない。先ほどの画像の模様の凡例を見ると、「旧河道(不明瞭)」とある。これがいったいどういうことなのかというと、この図の解説書[13]に説明がある。
土地の利用方法から旧河道を推定しているのかもしれない。
何か明確な根拠があるわけではなく、「土地の利用方法から察するに旧河道っぽい」という話なのかもしれない。
私は「旧用水路と思われる道が旧河道か」を知りたくてこの図にたどり着いたのに、この図は「ここは旧用水路っぽいから旧河道だ」と言っているに過ぎないとしたら、何の意味もないではないか。(専門家のお墨付きという意味では多少の意味はあるが。)
もっとダイレクトに、ここが旧河道だったエビデンスを知りたい。しかし、冒頭の迅速測図からも分かる通り、1886年(明治初期)には川はすでに今の流路である。旧河道のエビデンスが見つかるとすれば、それは江戸時代の文献かもしれない。
「旧河道」というキーワード
ところで、先ほどの図によって「旧河道」という新たなキーワードを手に入れたので、さらに検索を進めることができた。その結果、新たな記事[14]にたどり着いた。
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こちらのブログ記事では多摩川の旧河道を紹介しているが、出展元の本の名前も書かれている。それによれば、「川崎史話」「新多摩川誌」という本に、旧河道の図が載っているようだ。この本を読んでみたい。
……ここでいったん休憩。話がややこしくなってきたので、ここまででわかっていること、わかっていないことを改めて整理する。
用水路だった可能性が高い
理由:
・1886年の時点で渦巻き状が存在
・当時、渦巻きの中は水田だった
・すぐ近くを二ヶ領用水が流れる
②多摩川の旧河道が
用水路になった可能性が高い
理由:
・多摩川は頻繁に氾濫
・国土地理院作成の図でも
旧河道とある(ただし不明瞭)
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ここまででわかっていないこと
①・②を裏付ける、明確な根拠
最後に頼りになるのは図書館
用水路と旧河道のエビデンスを見つけるために、私は川崎市の中原図書館に来た。
川崎史話[15]はふつうの棚に置かれていないので、司書さんにお願いして奥の書庫から持ってきてもらった。そこに書かれていたのは
拡大し、重要なところに着色してみる。
また、新多摩川誌[16] には次のような図が載っていた。
「じゃあ川崎史話や新多摩川誌の図は本当に正しいのか?」という話になるが、さすがにキリがないのでこれでOKにしたい。「渦巻き状の道はかつて多摩川の旧河道であった」のエビデンスとして十分だと思う。
では、その旧河道はその後、本当に用水路になったのだろうか?図書館で二ヶ領用水に関する本を片っ端からめくり、ついにそのエビデンスを見つけることができた。「二ヶ領用水400年 よみがえる水と緑」[17]という本に、江戸後期の用水路の図が載っていたのである。
拡大し、重要なところに着色する。
これで 「渦巻き状の道はかつて用水路であった」のエビデンスも見つけられた。
用水路だった可能性が高い
→江戸時代後期の用水路の図で
上平間付近のC型の用水路を確認
②多摩川の旧河道が
用水路になった可能性が高い
→川崎史話や新多摩川誌の図で
当該位置が旧河道であることを確認
たくさんの情報をありがとう、図書館。これで疑問は解決した。

