いつの氾濫で流路が変わったのか
しかし、ここまで来たらもうひとつだけ気になることがある。かつて多摩川の流路であったところが、氾濫をきっかけとして流路が変わり、やがて用水路となり、その後、道になった。
では、いつの氾濫で流路が変わったのか?
江戸時代後期にはすでに用水路になっているので、それよりも前ということになる。再びインターネットの世界に戻り、「上平間村」などの新しいキーワードで検索したところ、上平間第二町内会発行の会報誌[18]の中に次のような記述を見つけた。

オレンジ色の線の箇所を整理すると、こうなる。
平間には2つの村 (その後の上平間村、下平間村)があり、今は両方とも多摩川の南にあるが、昔は1つの村だったのが、多摩川の流れが変わって村の中央を流れるようになり、2つの村に分かれたものである
ここに出てくる「今」が誰目線での「今」なのか。このコラムが参照している新編武蔵風土記[19]や、さらにそれが参照している小田原記[20]を読んだところ、「今」とは新編武蔵風土記の執筆時点である1810年~1830年のようだ。
ややこしいので時系列に沿って図で説明するとこうなる。
概略図。多摩川が氾濫によって移動し、村を二つに分け、その後また移動した。その結果、村境だけが残った。1830年には多摩川は今の位置にある。
多摩川の旧河道は、村の境目でもあった。文献には、上平間村は稲毛領に属し、下平間村は川崎領に属すとあるが、そもそも「二ヶ領用水」の名はまさにこの稲毛領と川崎領の2つの領(管轄区分)を通ることに由来するのであり、とても象徴的な境目だと改めて実感した。
いまも上平間、下平間という地区の名前は現役だが、上平間は中原区、下平間は幸区に所属する。名前の似たとなり同士の地区なのに行政区が異なる。大昔の多摩川の氾濫が区を分けたのだ。
わかったこと
・流路が変わるほどの氾濫が
起きたのは1830年より前
・多摩川の氾濫によって
上平間村と下平間村に分かれた
流路が変わるほどの氾濫が起きたのは1830年よりも前なので、1830年より前の氾濫の記録を調べてみる。
新多摩川誌には多摩川の洪水の記録が細かく載っているが、洪水が多すぎてどれで流路が変わったのかは分からなかった。まさに暴れ川だ。
これは無理だなぁ……と半ば諦めつつ、上平間第二町内会の会報誌のバックナンバーをしらみつぶしに探したところ、つぎのような記述[21]を見つけた。

天正17年(西暦1589年)から2年連続で多摩川は大洪水となり、現在の流路に近い位置になったそうだ。「流路が北遷」とあるが、これも旧流路と現流路の位置関係を正しく表している。
そして二ヶ領用水は1590年の大洪水の直後に開削が始まり、用水路には旧河川敷が利用された。なぜそうしたかというと、そのほうが効率がよかったらしい。
先ほどのコラムの続き。旧河川敷を利用することで、効率よく用水路開削工事を進められたそうだ。
わかったこと
・1589年-1590年の大洪水で
多摩川は現在の流路に近い配置となった
・その直後に二ヶ領用水の開削が開始し、
用水路には旧河川敷が利用された
・旧河川敷を利用したことで、効率よく
工事を進められた
1589年-1590年の大洪水が流路変更の最有力候補である。これで調査は終了としたい。
スタート地点のお寺
そういえば渦巻きのスタート地点に、お寺があった。
右手に写るのは西福寺。
この西福寺が渦巻きと関係しているかもしれないと思い、念のため調べたところ、ある青銅製の仏具にたどりついた[22]。
鰐口(わにぐち)という仏具。天井につり下がっており、お参りするときに縄のひもで叩いて鳴らすアレだ。
このWebサイトによれば、この鰐口は、大正時代に下丸子の多摩川の川べりで偶然発見されたそうだ。(下丸子は多摩川を挟んで平間と反対側にある。) そして、この鰐口に刻まれた文字によれば、この鰐口は1387年にこのあたりの天神社に奉納された物であり、その天神社は現在の西福寺の近くにあったそうだ。
渦巻きのスタート地点の近くに奉納された鰐口が、どうして多摩川で見つかったのか。ここからは私の推測だが、やっぱり氾濫だと思う。このあたりで過去に何度も発生した氾濫のうちの1回が鰐口を飲み込んだのだろう。しかし重い青銅製なのでたいして流れず、そこにとどまり続けたのだろう。渦巻きと多摩川を結びつける重要アイテムだ。
久保淳さんに聞いてみた
調査の途中で出会ったブログの投稿者である久保淳さんに記事への掲載許可をもらった際に、お話を伺う機会があった。
筆者:久保さんは二ヶ領用水や多摩川にお詳しいと存じますが、記事をご覧いただいていかがでしたか?
久保:とても面白い記事でした。自分でも以前この道が気になった時には同じように治水地形分類図を確認し、図書館の資料を参照したので、その時のワクワク感を思い出しました。また上平間村と下平間村のお話は、これまで気になりながらも調べられていなかったので、すっきり解決したいただいて本当に感謝しています
筆者:ありがとうございます!私の調査結果は久保さんから見ても相違ないですかね?
久保:はい。調査結果には基本的に相違ありません。ただ、少しだけ余計な話をさせていただくと、「二ヶ領用水の用水路の跡が道路になった」という表現には抵抗があるのです。というのも二ヶ領用水の支流は本当に細い堀(用水路)が多いんですね。そのまま道にしたら細い通路程度なので、堀の維持管理のためなど何らかの理由で堀の横にできた道と堀跡を一つにしたりすることも多いと思います。ところが今回の渦巻き状の道では横に道がなかったようなので、周囲の土地を合わせて道にしたと考えています。
筆者:たしかに、元用水路にしては太い道だと思っていました。
久保:もう一点、「多摩川の旧河道が用水路になった」という表現も、細かく言えば「多摩川の旧河道の低地が水田として利用されて、その端が用水路になった」ということかなと思っています。
筆者:言われてみればたしかに……。ちなみに、この渦巻き状の道路において、かつての用水路の痕跡はあるのでしょうか?
久保:「広大な運動場を持つ学校」の西側の道路にある道幅いっぱいに広がったグレーチングの金網は、道の下に堀跡の名残りの暗渠が隠れていることを示しています。

筆者:へぇ~。この下に暗渠が隠れていたとは!
調査まとめ
最後に、ここまでの調査結果をまとめる。
・平間駅付近の渦巻き状の道路にはかつて
用水路、さらに前は多摩川が流れていた
・1589年-1590年の大洪水で
川の流路が変わった可能性が高い
・その名残りとして上平間と下平間では
いまも行政区が異なる
・神社に1387年に奉納された鰐口が
多摩川で発見されたことも
かつて多摩川だったことを示唆している
・多摩川の跡地(旧河道)は低地のため
水田として利用され、その端が用水路になった
・用水路がそのまま道になったわけではなく
周囲の土地も含めて道になったと考えられる
道は歴史を物語る。暴れ川である多摩川は何百年にもわたり地域の人々を苦しめてきた。人々はこれを克服するべく、治水工事の一環として用水路を作り、防災と同時に水田に恵みをもたらした。やがて水田は無くなり、そこは道となった。多くの人々の苦しみの歴史、戦いの歴史が詰まった道だ。
「エジプトはナイルの賜物」という言葉がある。ナイル川の氾濫がもたらす肥沃な土壌によってエジプト文明が栄えた。実はそれと似たようなことが多摩川でも起きていた。多摩川がもたらした二ヶ領用水はやがて農業用水から工業用水に変わり、近代の川崎の発展を支えたそうだ。そう考えると、この道は川崎の発展を象徴する道のようにも思えてくる。いい道に出会えた。
記録の大切さ
現代の地図に抱いた疑問を解決してくれたのは、何百年も前の史料と、それをベースにした多くの文献やWebサイトであった。400年前の洪水の記録があり、それが今の道に影響している。記録は大切だ。道は空間軸の移動を担うが、記録は時間軸の移動を担う。(急にポエミーですみません)
私が言いたいのは、記録してくれた人ありがとう!記録が失われても大丈夫なように複製してくれた人もありがとう!(特に印刷技術が使えない状況で頑張って手書きで写してくれた人!) 温故知新と言うけれど、記録が無ければ知ることすらできない。あと、誰でも記録に簡単にアクセスできるようにデジタルアーカイブ化を進めてくれた人もありがとう!ブログを書いてくれた人もありがとう!検索性が上がって作業が捗りました。記録に関わるすべての人に感謝。
ちなみに、最後に出てきた、多摩川の氾濫を推察させる「鰐口」は川崎市市民ミュージアムの所蔵品なのだが、皮肉なことに川崎市市民ミュージアムは2019年の台風による多摩川水害で、収蔵品約30万点のうちおよそ24万点が被害を受け、閉館となった。川崎市民として悲しい限りだ。
編集部からのみどころを読む
編集部からのみどころ
ほりさんによる全力調査記事。この手の調査は図書館に行くのが定番なのですが、ネット調査でわりと情報がつかめているのは人口の多い(=地元に関心を持つ人が多い)エリアならではという感じがしますね。そしてニッチな情報を書いておいてくれるブログのありがたさ…。
道の由来がわかった時点で終わりになってもいい記事ですが、最後「いつ流路が変わったのか」まで粘って調べているところにほりさんの激強好奇心ぶりを感じました。(石川)
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