慶応SFC石川初研究室の展示会に行ってきた
慶応大学の石川初研究室では、例年、学生個人や班ごとの研究成果をまとめた展示会を行っている。研究室のコンセプトは「ランドスケープ思考」で、ざっくり分けると景観や造園といった分野の話になる。
のだが、それはよくて、とにかく先生が学生に対して出す課題や、学生の研究成果の1つ1つがとても面白いのだ。なので今年も見に行った。
今年の会場はこんなだった。東京・滝野川の「稲荷湯長屋」。銭湯のとなりの築百年の長屋を修復したところだそうだ。
中はこんなふう。学生たちの制作物がぎっしりと並ぶ。
そんな中でぼくが気になったのがこの机だ。入って2秒くらいのところにある机なのだが、結局ここで1時間近く過ごすことになった。
展示物の趣旨が書いてある。研究室に新しく入った学生に対して先生が出す課題、「鑑賞ガイド」だ。
『通常、鑑賞する対象とはされていない事物や事象を選んで、それを愛でるための新しい鑑賞ガイドを制作して下さい』という内容。
これが結局のところどんな趣旨の課題なのかは、これに対する学生の回答である冊子を見るとよくわかる。さっそく見てみよう。
『バス停』 高橋美咲
最初は「バス停」だ。
表紙を見て、ぼくはうかつにも「映えるバス停」の写真集のようなものを想像してしまった。開いてみたら全然違ったし、そんなものが「新しい鑑賞ガイド」である訳がなかった。
1ページめがいきなりこれだ。「バス停さ」という概念が提示され、それは「受け入れてくれること」だという。どういうことか。
たとえば「駅の構内」を考える。そこは切符を買って改札をくぐった人だけが入れる「受け入れ度」の低い場所だ。それに対してバス停は、気軽に出入りできる、受け入れ度の高い場所になっているのだという。
次に「バス停ベース(受け入れスペース)」という概念がまた提示される。たしかに、バス停には並ぶためのスペースがあるし、それってバス停の要素の一つだよね、と思った。しかしそれは甘かった。
『バス停ベースは至るところにあります。しかし、日常の中に埋もれている場合が多いです。』
というのだ。不穏な感じがする。バス停は、設置場所を決めるという初手がまずあり、それからスペースや屋根を設けるという流れだと思っていた。しかしそうではなくて、先に「バス停ベース」があるというのだ。
そこで作者は、バス看板を作った。表紙にもなっているこの看板は、映えるバス停のような生ぬるいものではなく、自作の看板だったのだ。
この看板を、もともと「バス停さ」があると考えられる場所に置いていく。
すると、もともとその場所が持っていた「バス停さ(=受け入れ)」 が引き出されて、「バス停としてありそう」であることが確認される。
これは重大な話だ。
ぼくはバス停を、看板や屋根やスペース込みで認識している。バス停らしさをそのセットで把握している。
しかし場所には本来バス停になりうるポテンシャルがもともとあり、達人(?)であれば看板がなくともそこがバス停に見えてくるということだと思うのだ。
その視点はなかった。
別の話だが、ぼくは暗渠(あんきょ、川跡)の風景が好きだ。なんでもない道路でも、もともと川だったと思うと水面が見えてくる気がする。自分だけにはその風景が見えているという気分がある。
「バス停ベース」も少し似ていると思う。なんでもない道路の一角が、高橋さんには「バス停ベース」に見えている。看板がなくても、そこがバス停に見えるのだ。
むちゃくちゃ新しい風景だ。バス停から看板を引いた風景を、今後、身の回りに見つけられるかどうか。